髙木 友ニ

ケアマネジャー兼小説家です

ケアマネのゆううつ(自立支援ってマジでなに?)

         第1章

 

 

介護保険制度第1条

 

この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により、要介護状態となり、入浴、排泄、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営む事ができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係わる給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付に関して、必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。

 

長嶺は溜め息をついた。

 

上司から介護保険法をもう一度見直しなさい

 

なぜかそう言われ、もう一度介護保険法を読み直した。しかし、第一条を読んだところで、本をゆっくりと閉じた。

 

バカバカしい・・・

 

仕事のパソコンを開く

 

法律はなんでこんなに意味わからん単語ばかり並べて、人を困らすのか?

 

介護保険法第一条を噛み砕いていうと、介護保健サービスは、要介護状態になった人に対し、自立を支援するために利用するものだ

 

そう言っている。まあ、噛み砕いて言っても普通の人にはわからないかもしれない

 

要介護になる人というのは、歩くのもままならず、認知症が進み、トイレも失敗してしまう人が要介護に判定される

 

そのような状態になり、介護保険制度を申請すると、ホームヘルパーやデイサービス、車椅子やベッドなどの福祉用具のレンタル。ショートステイや老人ホームの入所などのサービスが1割負担で利用できるようになる。

 

国民全員で身体の不自由なお年寄りの援助をおこなうための制度。

 

長嶺は、別にこの制度に対してバカバカしいと思っているのではない。

 

介護保険サービスは、それらの要介護状態になってしまった人の自立を支援することを最終目標に使わなければならない、という点である。

 

要介護認定を受けるのは高齢者が多い。例えば脳卒中で身体が動かなくなる。認知症が進み、ひどい物忘れ、徘徊してしまうなどの人は大抵要介護認定される。

 

その人が介護サービスを受ける事は、最終的に自立を目指さなければならない、と法律は言っているのだ

 

デイサービスも訪問介護福祉用具ショートステイなど介護サービスすべてである。

 

自立という曖昧な言葉は、多分介護サービスを利用することで、現在の状態より良くなるようにと国は言っているのだと思う。

 

しかし、介護保険制度を利用するのは、大体80歳を越えた高齢者。デイサービスに行ったところで、体力なんて回復するわけがない。

 

なのに自立支援をケアマネ及びサービス事業所は目指さなければならない。

 

ケアマネの仕事はいろいろあるが、自立支援に向けたケアプランを作ることが一番大きな仕事である。

 

脳梗塞で寝たきりになった人でも、認知症がひどく徘徊をする人でも介護保険制度を利用する人のケアプランは、自立支援をうたうケアプランを作らなければならない

 

無理だろ・・・

 

人間は日々衰えて行くものであり、高齢になればそのスピードは顕著になる

 

ケアマネを始めて10年が経過するが、要介護状態になり、デイサービスや通所リハビリ、ホームヘルパーなどを利用し、元気になって行くお年寄りを見たことがほとんどない。

 

例外をいうと、閉じこもりで酷いうつ状態の方がデイサービスに行って元気になる事は何度かあった。閉じこもりは、いくつになってもいけないものだと感じた。

 

しかし、それは全体の数パーセント。ほとんどの人が良くて現状維持、または徐々に悪くなっていく。

 

要介護5、つまり一番重い判定の方でも、自立支援に向けたケアプランを作らなければならない。

 

要介護5の人なんて、寝たきりで認知症が酷い人。最悪脳梗塞で声掛けしても反応がない人までいる。

 

そんな人がデイサービスに行って1年後には歩けるようになり、誰の介助もなく生活ができるようになると、誰が思うだろうか?

 

それがいるのだ。信じられない事に

 

役所の介護保険課の職員である。介護保険課の職員は、自立支援に沿ったケアプランを作らないと、あれこれ指摘してくる

 

さすがに要介護5の寝たきりの方のケアプランご自立支援になってない、なんて事は言ってこないが、要介護1、2辺りの微妙な判定の方に対しては、最近特に厳しくなっているような気がする

 

この人のサービスが多すぎるのではないか。もっと削らないと、本人のためにならない。

 

言っていることは至極真っ当。しかし、私達ケアマネが、このサービスをどのくらいこの方に使えばいいか、ケアマネの意見が採用されるのは、半分にも満たない

 

ほとんどが、家族からの要望により作っている。この人にとってどんなサービスがいいか、とりあえず提案はする。

 

しかし、決めるのはほとんどが家族だ。本人ではない。

 

介護で大変なのは本人もそうだが、1番は家族、介護者。だから家族の希望が強く出てもそれは仕方がない

 

それなのに役所の人間は、これはその人にとっての自立支援のプランではない、なんて意味のわからないことを言ってくる。

 

なぜか。激増する社会保障費。2022年から団塊の世代が75歳以上となる。そのため元々財政難の自治体が、数年後にはもっと財政状態が悪くなるのは目に見えている

 

例えば、歩くのも大変になったお年寄りが、訪問介護、つまりヘルパーさんに介助を受けて自宅のお風呂に介助でいれてもらうとなったことにする

 

ヘルパーさんを1時間利用すると、大体400円利用者は負担する。(1割負担の場合)それ以外の9割、つまり3600円を自治体が負担することになる

 

入浴は溺れたり、転んだりとお年寄りにとって危険な場所でもある。

 

世界の人が驚くほど日本人は清潔好き。週一回のお風呂ではとても満足しない。

 

週3回お風呂に入るとなると、1ヶ月週4回と考えると、自治体の負担は、3600×12=43000円

 

1人のお年寄りが、お風呂の介助を受けるだけで、1ヵ月これほどの税金が必要になる

 

毎日、朝出勤する時に必ずといっていいほどデイサービスの送迎車とすれ違う。その車の中には、満員のお年寄りが乗っている

 

そんな姿を見ると、本当に日本の将来はどうなってしまうのか・・・

 

長嶺は、心の底から心配になる

 

すべての介護サービスが、お年寄りの自立支援のためというのであれば、デイサービスなどの介護保険サービスは、短くて3ヶ月、長くても1年以内には、卒業、または中断させないと、話のつじつまが合わない

 

 

 

しかし、1度デイサービスなどの介護保険サービスを使っていると、やめるなんて事はほとんどない。何年も利用を続け、徐々に利用回数が増えていく。

 

デイサービスを利用するのは、運動と他者との交流、そしてお風呂に入れてもらうことを目的としている。

 

デイサービスを利用し、最後は自立するため。つまり元気になるために利用をスタートする。

 

しかし、人間80を超えてデイサービスに行ったところで、元気になるだろうか?

 

今までは歩けなかったのに、数ヵ月後歩けるようになるだろうか

 

答えはNoだ

 

当たり前の話だ。生物というものはそういうものだ。歳を取ると徐々に能力が衰え、回復することは不可能。人間も例外ではない。

 

1年ほど前の研修で、リハビリを行うことで、要介護5のお年寄りが、要支援2まで状態が良くなったと、自信満々に説明する理学療法士の先生の講義を受けたが、長嶺は資料に落書きしながら話を聞いていた。

 

確かにリハビリをして、寝たきりから要支援まで回復された方がいるとしよう。しかし、それは100人中多くて5人位の成功例をわざわざ大袈裟に言っているにすぎない

 

残りの95人は、リハビリしても寝たきりのまま。それをスルーしている感じがして、長嶺は気分が悪くなった

 

本当に寝たきり方が、リハビリをしたら全員元気になって、歩けるほどまで回復し、要支援の状態になったとしたら、この講師は人間ではない

 

神だ

 

最近介護の現場は、リハビリ、リハビリうるさい。

 

リハビリしたところで良くなりません。

 

そんな当たり前のことを言える人間は、なぜか悪人になってしまう

 

もちろんお年寄りに希望を持たせるのは大切ではあるが、過度な期待を持たせることも罪だと長嶺は思っている

 

80歳を超えて、大病を患い、身体状態が低下しても、リハビリを頑張れば以前のようになる、なんて本気で思っている介護に関わる職業の人は誰一人いない

 

例外として理学療法士作業療法士とあとは勘違いしている少数のケアマネだけだ

 

なのにも関わらず、自治体は自立支援、自立支援と、抽象的で感じのいい言葉を使い、ケアマネに文句を言ってくる

 

長嶺が1番不満に思っていることは、自治体がなぜ財政なんだから、介護保険サービスをあまり利用しないように、国民に向けて言わないのか!!

 

この点である

 

要介護の判定をされても、1ヶ月に介護保険サービスを1割で利用できる限度額がある。

 

要介護1の人は毎日のようにデイサービスにに行くと、限度額を越えてしまう。その限度額を越えると、越えた分は10割負担しなければならない。

 

昔はそうではなかったが、今の人は限度額一杯まで介護保険サービスを利用すると思っている人が多すぎる

 

この社会保障費が35兆円を越え、これからもっと増えていく社会が待っているというのに、国の財政も大変だから、少し減らそう。

 

そう考える良心的な日本人は、もはや絶滅危惧種に近い

 

私達も高額な税金を払っているのだから使えるだけ使わないと損

 

そんな人たちが日本に溢れている

 

長嶺は、この風潮に違和感を感じている

 

しかし、一介のケアマネでしかない。サービス使いすぎじゃないですか?

 

なんて担当者に言ったら、すぐクレームになる。

 

だから長嶺は、自治体に介護保険サービスは必要最低限にしましょう

 

そう言ってほしいのだ。

 

しかし、お年寄りがちょっとでも体調不良になったり、病気になったりすると、どんどん介護サービスを使ってください。

 

逆に勧めているところが癪に障る

 

ケアマネがどのようなサービスを使う計画を立てているのを確認し、重箱の隅をつつくように、このサービスはこの人の自立支援の役に立っていません

 

なんてケアマネを責めたところで、効果なんて微々たるものなのに、なぜこんなことをしているのか、役所の人間は暇なんだろうか?

 

長嶺には、意味がわからない、役所は、自分達はいい顔をして、ケアマネを悪者にする

 

つくづく、役所の人間と話をするのがバカバカしくて嫌になる。

 

その時、先輩ケアマネから声がかかった

 

「長嶺君、新規の依頼よ。対応できる?」

 

「あ、今空きがありますから大丈夫です」

 

突然の新規の依頼だ。

 

新規の依頼は突然来るのは日常茶飯事。新規の方の希望のサービスをどのように組み、自宅で生活を送れるようになるか

 

結構なスピードが要求される。はっきりいってここが一番大変。ここを乗り越えればなんとかなることが多い

 

ケアマネには、担当できる人の上限がある。

 

一人のケアマネに対し、39人まで担当が可能だ。

 

長嶺が担当している人数は現在34人。まだ5件の空きがあるという計算になる。

 

ケアマネの報酬は、要介護1、2の方は大体1ヶ月1万円。要介護3~5の人は1万3千円と若干高くなる

 

このお金は、担当している人からもらうお金は一切ない。全て自治体から支給される

 

デイサービスやホームヘルパー福祉用具貸与などの介護保険サービスは1割~3割合を負担してもらうが、ケアマネは例外。

 

30件以上担当しているの、そう驚く人もいるかもしれないが、ケアマネは35件以上持たないと赤字

 

毎週のように事務の人間に言われる

 

社会保障費やら住民税やら税金を引かれると、35件担当していても赤字になることもある

 

だから空いていると、拒否は基本的に出来ない

 

今回話があった新規は、病院に入院していて、すぐに退院してと言われ困っているという相談だった

 

長嶺には、それだけで嫌な予感がする。最近の病院はとにかく退院を強引に進めてくる

 

特に骨折の場合は、早く退院してくださいと毎日のように言われるそうだ

 

骨折の手術は成功です。病院は病気を治す治療をするところです。手術が終わって状態も安定しているので、これ以上入院は出来ません

 

最近の病院の常套句である

 

しかし、骨折の手術が終わり、状態が安定しているといっても、以前のように歩けるわけではない

 

歩くことも出来ないのに、家に帰って生活しろ。なんとも非情な話だ

 

数年前は、療養型病院に転院し、そこでリハビリなど自宅に帰る準備をする場所があったが、国が療養型病棟の削減を推進していること、そして療養型病院には寝たきりの老人で満員。なかなか転院することが出来ない

 

まずは依頼者に連絡をする。そして現在の状態を把握、その後、自宅へと訪問する

 

新規情報シートには、金井トシと電話番号が書いてある

 

長嶺は記載された電話番号に連絡した

 

「おばあちゃんが2週間前に転んで、左足を骨折しまして、手術を受けたのですが、まだ歩けないのに、病院から退院してくださいと言われて困っているんです」

 

電話に出た、同居している娘さんが私に切々と訴える

 

嫌な予感的中・・・

 

「それでは、自宅を訪問して家の状態やサービスの確認をしたいので、訪問させてもらいたいのですが」

 

「わかりました。いつでもいいので来てください」

 

「わかりました、今から伺います」

 

そう言って、長嶺は電話を切って外出の準備をした。

 

10程車を走らせ、依頼者の家に着いた。その家を見て、

 

「マジかよ」

 

小さくつぶやいた

 

築50年くらい経過しているのでは?そう思わせるほどのボロボロの家だった

 

玄関前には古く今にも朽ち果てそうなコンクリートの階段が3段あり、玄関の戸も古く、家の回りにはつたが絡んでいた

 

表札には金井と記載してある。間違いない

 

「先程連絡を頂きました、長嶺と申します」

 

階段を登り、壊れているようなインターフォンを押して、家の中に声を掛けた

 

すると、70を越えた位の女性が家の中から出てきた

 

「よろしくお願いします」

 

長嶺に向かって、丁重に頭を下げた

 

思っていたより、年齢が高そうなので

 

「入院しているのは、ご主人ですか?」

 

長嶺が聞くと

 

「いえ、母親です。今年で99歳になります」

 

女性はそう答えた

 

来年で100歳、そんな人が足を骨折して歩けない状態でこの家に退院してくる

 

「お母さんを介護するのは娘さんですか?」

 

「はい、私もこの年で仕事もしておりませんし、父も10年前に亡くなりました」

 

「旦那さんやお孫さんはいらっしゃいますか?」

 

「いえ、私はずっと結婚せず、1人でいたものですから。母とこの家で2人暮らしです」

 

「そうですか・・・。老人ホームなどにお母さんを預けるというお考えはありますか?」

 

長嶺の問いに娘さんは首を振り

 

「とてもじゃありませんが、そんなお金はありません。母の国民年金で生活している状態ですから・・・」

 

母の国民年金で生活?

 

「娘さんの収入は?」

 

「私はあまり働いてこなかったので、年金も微々たるものなんです」

 

話を進めていくと、娘さんはパートなどの仕事を転々としていたが、バブルがはじけてから、仕事がなく、家でなにもせず生活していたらしい

 

「そうですか・・・」

 

とにかく、今の入院費を払うのも大変で、早く退院させたい、そう娘さんは言った

 

「それでは、家の中を見せてもらってもよろしいですか?例えばトイレやお風呂場など」

 

「いいですよ」

 

2人は立ち上がり、まずはお風呂の状態を確認しに行く。

 

ケアマネがまず始めに行う事は、介護される人の状態、そして介護する側の状態、そして家の中の状態を把握する事

 

介護用語ではアセスメントという。日本語に直すと課題分析。どちらも意味がわからないが、退院して自宅に帰ったとき、どのような介護サービスが必要か、その状態をみて判断する材料とする

 

そのため、家の中の状態、例えば段差がないか、お風呂には入れそうか、トイレは1人で出来そうかなど、家の中をくまなくチェックする

 

自分だったら家の中のトイレやお風呂場など赤の他人に見られるのは、絶対嫌だと思うが、これをやらないと、どのような介護サービスが必要かわからない

 

お風呂場に案内された。途中の廊下は狭く、いろいろなものが置いてあって通りづらい。

 

案内されたお風呂場を見て、長嶺は困ったな・・・心の中でつぶやいた

 

まず、脱衣場が狭い。半畳位の広さしかない。浴室を覗いてみると、昔ながらの銀色のお風呂で、足を体育座りしないと入れない程狭いお風呂だった

 

さらに体を洗うスペースも、人が1人入ると一杯になるような狭さ

 

よく、99歳のばあさんがこんな狭い風呂に入っていたな・・・

 

長嶺は感心しながら、そのお風呂を眺めていた

 

「お風呂はわかりました。ではトイレを見せてもらってもよろしいですか?」

 

長嶺がいうと、反対側の扉を娘さんが開けた。その先にあったトイレを見て、長嶺は声をあげてしまった

 

「和式ですか!!」

 

扉の向こうには、今はほとんどみられなくなった和式トイレがあった。

 

「そうなんです。洋式のトイレにしようと思ったのですが、お金がなくて・・・」

 

申し訳なさそうに娘さんは言った。

 

それは、あんたが働かなかったからだろ。心の中で長嶺はつっこみを入れた

 

でも、よく99歳で和式トイレ使えたな・・・。

 

多分、我慢強い人だったんだろう。入院している娘のお母さんのことを想像した

 

しかし、骨折をしてまだ痛みもある状態で、さすがに和式トイレは使えないだろう。高齢だし・・・

 

次に退院したら。どの部屋で生活しなければならないのか、長嶺は思った

 

「お母さんはどこで寝ているんですか?」

 

長嶺が問いかけると、狭い廊下を少し行ったところに、六畳ほどの部屋があった。日当たりが悪く、どことなくかび臭い

 

「ここで布団を敷いて寝ていました」

 

「もうすぐ100歳になる高齢にも関わらずですか?」

 

「最近はほとんど布団を片付けるのが出来ないので、そのままになっていましたけど」

 

「そうですか・・・」

 

そのぐらい手伝ってやれよ、白寿の人なんだからさ

 

娘と話していると、徐々にイライラしてくる

 

「もう一度確認しますが、お母さんがほとんど歩けない状態で退院するとしても、この家で介護しながら生活していくということでよろしいですか?」

 

「はい、なにぶん収入がないので、老人ホームには入れられないんです・・・」

 

「そうですか・・・」

 

家に入る前に段差もあり、トイレが和式の家で寝たきりの人が生活するのはかなり大変。老人ホームに入ると言ったら話しは早いのに

 

そう考えながら、長嶺は介護保険サービスについて説明を始めた

 

「まず、足を骨折して2週間ほどしか経過していません。歩くのも大変でしょう。まずは車椅子をレンタルしなければならないと思います」

 

「そうですよね、病院からも言われています。それで・・・おいくら位なんでしょう」

 

「スタンダードなものなら月500円でレンタルできます。足を乗せる部分が外せたりなど、付加価値が付くと700円位ですね」

 

車椅子を介護保険でレンタル出来るのは、要介護2以上と決まっている。ただ、例外もあり、要支援の人であっても、歩くことが出来ない場合は、レンタルが可能となる

 

「レンタルするしかないと思います」

 

「それ以前に、車椅子に乗った状態で、どうやってこの家に入るかです。失礼があったら申し訳ありません。まず、この家に入る前に三段の階段があります。そして玄関の上がりかまちの高さもあります。車椅子に乗った状態の人を、20センチの段差を越えることは結構大変です。長女さん1人で、お母さんが乗った車椅子を、あの階段を登り、そして玄関の段差を越えることが出来ますか?」

 

長嶺の問いに、長女は黙った。長女は小柄でやせ形。人が乗った車椅子を階段を登らせる力があるようには見えない。

 

「難しいようなら、車椅子専用のスロープをレンタルすることになります。大体月に700円ほどです」

 

「それはどのくらいの重さなんですか?」

 

「少し思いですが、持ち上げられないことはないと思います。必要ない時はたたんで立て掛けて置けば大丈夫です」

 

さて、車椅子の人がこの家に入るまでのイメージはできた

 

「そして、退院する前までに、廊下に置いてあるものを片付けてください」

 

少しきつめに長嶺は言った

 

家に入ってからずっと思っていたことだが、ボロい上に狭い廊下には不要な雑誌などのゴミが散乱している

 

ただですら狭い廊下なのに、そんなものが置いてあったら、車椅子が通れない

 

「次に問題なのが、排泄の問題ですね。今ベッドで寝たきりの状態ですから、オムツを当てられている可能性が高いでしょう。今まではトイレに行って排泄していたと思いますが、足の骨を折って、手術をしたばかりなのに、和式トイレを使えるとは思えません」

 

「どうしたらいいのでしょう?」

 

「オムツを定期的に代えてあげる。立ち上がることが出来るようならポータブルトイレを購入するしかないと思います」

 

「私、オムツ交換とかやったことなくて、それに母の排泄物を触ったりするのが嫌で」

 

「大抵の人はそうですよ。でも、こういう現実になったらやるしかない。そう言って出来るようになる人がほとんどです」

 

長嶺はイライラを抑えながら言い聞かせる

 

「それでも無理なようなら、ヘルパーさんに来てもらってオムツ交換をしてもらう方法もあります」

 

「オムツ交換の場合、ヘルパーさんに来てもらうと、1回200円です」

 

「そんな安いんですね。でしたらプロの人にやってもらいたい」

 

「ただ、オムツ交換は、1日1回やればいいというわけではありません。当たり前ですが、人間1日に何度もトイレに行きます。その都度、ヘルパーさんに来てもらっていたら、1ヶ月結構な料金がかかりますよ」

 

そう言うと、娘さんは無言でうつむいた。その様子を見て、長嶺は続ける

 

「あと問題なのは、入浴ですね。お風呂の様子を見させてもらいましたが、足を骨折してしまった方が、あの狭いお風呂に入れるとは思えません。特に入浴は高齢者には危険です。例えば、体を洗う時に転倒してしまったり、お風呂に入れたのはいいが、足の力が入らず、お風呂から上がれなくなってしまう、なんて事もよく聞く話です」

 

「どうしたらいいのでしょう?」

 

「デイサービスに行くのをお勧めします。デイサービスでは、お風呂も職員介助で入れてくれます。目的としては、他者との交流ですので、同世代の方と話したり、運動も出来、身体状態の改善の可能性があります」

 

「料金はどのくらい掛かるのでしょう?」

 

さっきから、金、金うるさいおばさんだな。

そう言葉が出そうになるのを、長嶺は抑え説明を始めた。

 

介護保険サービスは、ホームヘルパーさんのように、家に来てもらうサービスは一定ですが、デイサービスやショートステイなどの外に行くサービスは介護度によって変化します」

 

本当に高齢者が使う物とは思えないほど、介護保険制度には、カタカナ英語が多数存在する。

 

このカタカナ英語を日本語に直して高齢者に説明するのも、意外と大変な作業だ

 

「大体の金額となりますか、要介護1の場合、昼食代も合わせますと1300円です。介護保険料は600円、昼食代が700円て言うところでしょうか」

 

「もし、お母さんが要介護5に認定されたとすると、1回1900円に上がります。昼食代は変わりありませんが、介護保険料が1回1200円に上がります」

 

「介護度で、そんなに違うんですね」

 

娘さんは下を向いた。

 

それから介護保険サービスを使って、どのように入院しているお母さんが、自宅に戻れるか詰めに入る

 

退院してくる人間は99歳の女性の上、足を骨折しているので、多分寝たきりだろう。ゆっくり話し合って決めたいところだが、病院からは明日にでも退院しろと言われている

 

時間がない

 

話し合いの結果、週に2回のデイサービス、介護用ベッド、車椅子、スロープのレンタル。ポータブルトイレの購入で決まった

 

まあ、無理なようならすぐに介護サービスなんて変更が出来る

 

家の外観から感じていたが、この家には収入が少ない。かといって寝たきりの人を介護していくには、このくらいのサービスが最低限必要となる

 

 

       第2章

 

長嶺は事務所に戻り、すぐに入院している病院に連絡を取り、担当する人の状態を確認する

 

「現在は、手術も終わって状態も安定しています。退院は明日でもいいと、主治医から許可が下りています」

 

「状態なんですが、現在排泄はどうしてますか?」

 

「オムツ対応ですね。起きたりして、手術したところが悪化してはいけないので、基本ベッドで生活しています」

 

「ポータブルトイレなどは使っていますか?」

 

「それはないですね。まだ足の痛みが強くて、立ち上がることも出来ないので」

 

「そうですか、わかりました」

 

長嶺は電話を切った

 

立ち上がることも痛くて出来ないのに、退院して家で暮らせってか?

 

退院の許可を出した医者の脳みそはどうなってるんだ?

 

流行りのAIが判定してるんじゃないの?

 

そう思ったが、これが今の医療の現状。入院している病院は、地域の中核病院

 

毎日、救急車が10分おきくらいに入ってくる

 

その時、重傷者のベッドがないと受け入れられない

 

だから、命に関わりのない骨折なんて、すぐに退院させないと、助かる命も助からない

 

救急患者を受け入れる病院にとって、骨折は軽傷の部類に入るのだろう

 

例え歩けない状態でも

 

長嶺はパソコンを開け、ケアプランを作り始める

 

ケアプランというものは、高齢になり、介護保険サービスを受ける人が、そのサービスを使いながら、自宅でどのような生活を送っていくかを紙の上で表現する

 

例えば、足が痛くて動けず、介護用ベッドをレンタルする場合、その理由とを記載する

 

ただ理由を記載するだけではなく、介護用ベッドを利用し将来的に、骨折が治り、誰の介助も必要なく、立ち上がることが出来るなど

 

ベッドをレンタルすることで、本人や介護する側の利点を記載しなければならない

 

このケアプランというものはケアマネしか作ることは出来ない

 

ここで問題となるのが、自立支援のケアプランを作らなければならないという点だ

 

毎回、90歳以上の人に対し、自立支援とは一体なんなのか。毎回悩む

 

国が言っている事は、多分介護保険サービスを使わなくなるまで元気になるということだろう

 

わかりやすく説明すると、一年後には歩けるようになり、排泄もお風呂も1人で入れるようになるということだと思う

 

そんな目標を立てて、文章を作らなければならない。

 

しかし、足の骨折で入院し、ベッドで2週間以上も寝たきりで生活していたお年寄りが、本当に一年後には、歩いてお風呂に入り、トイレも失禁なく生活を送れるようになるのか

 

疑問だが、介護保険制度は自立支援が目的のため、それに沿った文章を記載していく

 

もはや机上の空論以外の何物でもない

 

「そういえば、あの娘さんは、どのくらい介護に協力してくれるのだろうか」

 

長嶺は小さくつぶやいた

 

家の中はものが散乱していたし、若い時仕事をしていたが、仕事をしなくなって長いといわれた

 

お母さんの年金で生活していたのだろう。最近よく言われる、8050問題に近いかもしれない

 

いや、9060問題か・・・

 

お母さんが亡くなった場合、娘さんはどうなるのだろう、生活保護になるんだろうか

 

いや、生活保護は持ち家があったら入れないはず。あんなボロボロな家でも

 

そんなことを考えながらケアプランを作っていく。

 

まずは福祉用具業者の選定、ベッド、車椅子などのレンタルは自治体から認可を受けた福祉用具の会社しか1割負担にならない

 

娘さんに聞いたところ、希望の福祉用具の会社はないと言われたため、長峰が勝手に選ぶ

 

はっきり言ってどこも同じような値段だから、どこでもいい。担当者がいい感じの人の会社に連絡し、一式揃えてもらう

 

そして次はデイサービスをどこにするかだが、同じ法人でやっているデイサービスが第一候補

 

娘さんに、通わせたいデイサービスはありますか?そう聞いてみたが、私、いいデイサービスとか全く知らないと返答があった

 

まあ、当たり前だ。日本人のほとんどの人が、このデイサービスがいいなんて知識を持ち合わせていない

 

その時、長嶺の脳裏をよぎる言葉がある

 

「ケアマネは、自社のサービスに繋げるために赤字なのに雇っているんです」

 

うちの法人の事務長はそんなことを平気で言う人。そのためまずはうちの法人でやっているデイサービスに繋げるようにする

 

ケアマネはサービスを選ぶ際、公正中立でなくてはならないと記載してある。つまり、その人にあったデイサービスを紹介しなければならない

 

しかし、長嶺は出来るだけ、同法人が経営しているデイサービスを紹介する

 

ケアマネというのはサラリーマンだ。上の人間の指示に逆らうことはできない

 

同じ法人のデイサービスに確認を取ると、空きがあるというので、デイサービスも決定した

 

ここで、娘さんに連絡を取る

 

福祉用具とデイサービスの事業所が決まりました。あとは、退院する日程を病院に伝えなければならないのですが、何時にしますか?」

 

「そうですか・・・」

 

娘さんは小さい声でつぶやいた

 

「まだ、自分が母を介護していくっていう自信がなくて・・・。なんとか退院を伸ばすことって出来ないですか?例えば歩けるまで回復してからとか・・・」

 

「自信ですか・・・」

 

その気持ちもわからなくはない。先日まで1人で何もかもやってくれていた母が、急に歩けなくなり、今まで母がやってくれていた事に加え、母の介護もしていかなければならない。誰だって不安だろう

 

「私の力では、退院を伸ばすことは出来ません。今はそういう時代なんです。病院ではなく、自宅で介護していく。気持ちはわかりますが、なんとかお母さんを介護していくしかありません」

 

入院費も負担で、老人ホームにいれる気もないなら、自宅に戻るしか選択肢はない

 

「私を始め、これからお母さんの介護に関わる人間が、あなたを支えますので、家で介護していきましょう」

 

「わかりました。なんとか頑張ってみます」

 

話し合いの結果、退院は3日後に決まった。

 

 

次の日、長嶺は金井さんが入院している病院に向かった

 

前日、病院に金井さんの状態を見るため、面会させてほしいと伝えた。コロナウイルス蔓延の中、無理だろうと思いながら電話してみたが、意外にもOKと言われた

 

玄関から病院に入り、手を消毒してから体温測定、病棟についたら、また体温測定をした後、県外に出ていないかなどを聞かれる

 

コロナが流行ってから、病院も大変だ

 

終わると、病棟内に案内された。金井さんの部屋は、病棟の一番奥

 

その部屋に向かう前、ちらちらと病室を見て驚く。ほとんどの人がお年寄り。そしてみんなベッドで寝ている

 

ここにいるお年寄り、みんな退院を迫られているのだろうな

 

そう考えると、長嶺の心は重くなった

 

一番奥の部屋につき、病室に入った。4人部屋だが、ここも他の部屋と同じく、全員がお年寄りだった

 

一番手前の左側のベッドに、金井キヌと名前が書いてある。担当する人だ

 

長嶺は、ベッドに近づくと、

 

「金井さん、今度担当させていただきます、ケアマネの長嶺と申します」

 

そう声をかけた。

 

金井さんは、その声を聞くと小さくうなずいた。看護師さんから話は聞いているらしい

 

「あさって退院して、おうちに帰ります。退院できてよかったですね」

 

そう話しかけると、金井さんは目を強く閉じ、目から涙を流し始めた

 

意外すぎる展開に長嶺は驚いた。何も悪いことは言っていないはずだけど・・・

 

「こんな身体になっちまって、どうやって家で暮らせばいいんだい?足が痛くて立つことも出来ないし、何にも出来ない。トイレだって行けないんだよ」

 

「確かに今はそうかもしれませんが、今は介護保険制度があるので、ベッドや車椅子も安くレンタルできますし、お風呂だってデイサービスで入れてくれますよ」

 

この人も不安なんだな、長嶺は思う

 

「優しそうな娘さんもいるじゃないですか」

 

長嶺がそう言うと、金井さんは更に泣き出した。長嶺は困惑した。何も泣かせるような事は言っていないはず・・・

 

「骨折する前は、私が娘の事を全部やってあげてたんだよ。ご飯から始まって洗濯まで。こんな身体じゃ何も出来ない。これからどうしたらいいのか、不安で不安で仕方ないんだよ」

 

その話を聞いて、長嶺は驚きを隠せない。来年100歳になる人が娘の世話を今までやっていた?にわかに信じがたい

 

「娘は若い頃仕事を転々としていてね。30位になったら仕事もせず、家にこもってしまったの。ほとんど家もでないで。いつかは結婚して、仕事も始めてくれると思っていたけど、結局そのままだった」

 

「家事手伝いっていう感じですか?」

 

「家事なんて手伝ってくれないよ。ずっと部屋で引きこもってばかり。だからあの子は何にも出来やしないの」

 

99歳の人が、娘の事を心配して泣いている。その姿を見て長嶺は、もらい泣きしそうになった。

 

本当に9060問題が目の前にあった

 

「でも、退院はしなければなりません。それにデイサービスに行ってリハビリ頑張れば、以前のように歩けるようになるかもしれません」

 

長嶺は以前のように歩けるようになることは無理だろう。心の中ではそう思うが、そんなことを言えるわけがなかった

 

「まず、骨折の状態がよくなるまで、無理はなさらないように。自宅に戻る準備はしっかりやっておきますので」

 

そう言うと、長嶺は病室を後にした

 

       第3章

 

退院の日、朝10時に金井さんは病院から帰宅した。車椅子に乗っての退院だが、座っているだけで苦痛の表情をしている。

 

長嶺は、前日の夕方、福祉用具の業者がベッドを家に搬入する事になっていたため、同席した。

 

家の中の状態は、長嶺が予想した通りだった

 

玄関、廊下には物が散乱。退院して過ごすキヌさんの部屋も、以前訪問した時と変わらない。カビ臭い布団が敷いてある

 

「娘さん、明日退院ですよ。わかってますよね」

 

長嶺が強く言うと、娘さんは

 

「これから準備しようと思ってまして・・」

 

「これから?もう、夕方ですけど」

 

「すいません、私起きるのがお昼を越えたあたりなもので」

 

ダメだこりゃ。いかりや長介みたいに言いたくなったが、ぐっとこらえる。

 

申し訳ない気がしたが、福祉用具の業者の方に手伝ってもらい、部屋の片付けを行う

 

本来の仕事ではないが仕方がない。要らないものを、娘さんに聞きながら棄て、廊下からキヌさんの部屋をきれいにした。その部屋にようやく介護用ベッドとポータブルトイレが設置され、なんとか退院する準備ができた

 

苦悶の表情をしてしているキヌさんの車椅子をゆっくりとスロープに乗せ、玄関まで入る。そして狭い廊下を進み、部屋までお連れすると、ベッドに寝かせてあげる

 

この間キヌさんは何度も痛い、痛いと繰り返し言った。まだ足の状態はよくなっていないらしい

 

ここで各サービス担当者、ケアマネ、娘さんが居間に集まる。サービス担当者会議の始まりだ

 

介護保険サービスを受けるためには、サービス担当者、家族、ケアマネで話し合い、ケアマネが作ったケアプランに家族が同意して初めてサービス開始となる

 

「まず、大腿骨を骨折されて3週間の入院。今帰ってきた状態を見ましても、足の状態はあまりよくなっていない気がします」

 

長嶺が話を始める

 

「家族からは、自宅で生活を送って行きたいという希望がありました。そのため、足の痛い状態でも、この家で生活を送る事になりました、ただご家族より、金銭面の余裕がなく、サービスも最低限にしてほしいとお話がありました」

 

一同がうなづく

 

「まずは福祉用具からですが、布団では介助も大変だし、車椅子に移ることも難しいでしょう。そのため介護用ベッドをレンタル。あとは車椅子のレンタル。そして外出がスムーズな出来るようスロープのレンタルのみで当面の間は対応したいと思います。あとポータブルトイレの購入。これは一旦全額払ってもらい、その後9割帰ってきます」

 

「次に今の状態ではとても入浴は難しいので、デイサービスで入浴対応してもらいます。運動も必要だとは思いますが、現在の状態では難しいと思いますので、状態がよくなるまでベッドで寝かせてあげてください。回数は、週2回を予定しています」

 

「わかりました」

 

デイサービスの担当者が答えた後、本題に入る

 

「娘さんは今のお母さんの状態を見て、不安に思うことはありますか?」

 

全員の視線が長女に向かう

 

「まだ始まってもいないので、不安なことばかりです」

 

「オムツ交換とかやったことないし、食事もどう食べさせたらいいか・・・」

 

「そうですよね。じゃあ、今からやってみましょう」

 

そう言うと、娘さんをつれて長嶺はキヌさんの部屋に向かった

 

「キヌさん、オムツの交換をしましょう」

 

同意を得ると、布団をまくりズボンを下ろした

 

「まず、オムツのテープが4ヶ所ありますので、テープを外します。そうしたら前の部分を下げます」

 

そうすると、陰部があらわになる。女性にとってはいくつになっても恥ずかしいし、屈辱だろうと長嶺は思う

 

「そうしたら、身体を横に向けます。キヌさんベッドの柵をもって、身体を横に向けてもらえますか?」

 

キヌさんはいた、痛いと言いながら身体を横に向ける、この時、お尻があらわになる。

 

女性にとってはいくつになっても恥ずかしいし屈辱だろう。長嶺は思いながら続ける

 

「この時に、暖かいタオルで、陰部とお尻を拭いてください。拭き残しがあると、床ずれになってしまうので注意を。そして敷いてある汚れたパットを外し、新しいパットを入れます。そしたら身体を仰向けにしてもらって、オムツをはめて終了です」

 

娘さんはその様子をじっと見て、

 

「わかりました、やってみます」

 

そう答えた。

 

その後、もう一度今に全員集まる。ケアプランを披露し、同意をもらうためだ

 

ケアプランには、長期目標、短期目標という2つの目標を記載しなければならない

 

長期目標は一年後の状態、短期目標は半年後の状態を記載する

 

このケースで例えるなら、半年後は少しでも歩けるようになる。一年後は普通に歩けるようになり、トイレも入浴も自分で出来るようになる

 

そんな感じ

 

サービス事業所でやってもらう事以外にも、もちろん本人、家族が行ってもらう事も記載する

 

それを全員の前で長嶺は読み上げるが、普通の人は、99歳の人が、足を骨折して寝たきりの状態なのに、一年後には歩けるようになっているわけないでしょ

 

そんな突っ込みが入るような机上の空論。それがケアプランである

 

一年後に歩けていなくても、別に罰則などないし、批判する人は誰もいない

 

長嶺が必死で作ったこのケアプランは机上の空論だと全員わかっているからだ

 

特に異論もなく、サービス担当者会議は終了した。

 

日程を詰め、デイサービスは、あさってからスタートすることにった。

 

       第4章

 

2日後の朝、デイサービス職員から長嶺に電話が入った。朝一からの電話は、大抵ろくなことがない。嫌な予感がしながら長嶺は電話に出る

 

「今日金井さんの家に朝、お迎えに行ったんですけど、酷い状態でして」

 

「酷い状態?」

 

「家に入った瞬間から、尿臭がひどくて、ベッドに行ったら、キヌさんのオムツが尿漏れしていて、服とシーツが尿で汚れているまま横になってたんです」

 

オムツを当てているからといって、絶対安心というわけではない。しっかりと当てない、または吸収の許容量を越えると…オムツから尿が漏れ、着ている服やシーツが尿まみれになる

 

これを尿漏れというが、これが起こると最悪。着ている服、シーツを全交換しなくてはならない

 

ベッドで人が寝ている状態で、シーツを代える。かなり重労働、ストレスがたまる

 

しかし放置しておくわけにはいかない

 

「娘さんは何て言ってた?」

 

「オムツはつけたんだけど、漏れてしまって。そう言うだけでした」

 

「マジかよ・・・」

 

母親が尿まみれなのに、そのままにしておいたって事?意味がわからん

 

「わかった。これから金井さんのところに行ってくる」

 

そう言ったあと、長嶺は金井さんの家に向かった

 

家に着き、玄関に入ると不快な臭いが長嶺を襲った。ひどい尿臭だ

 

部屋から出てきた娘さんに対し

 

「デイサービスからの報告で来たのですが、ひどい臭いですね。お母さんのオムツ交換をしっかりやったのですか?」

 

長嶺は強い口調で言うと、

 

「やってみたんですが、うまく行かなくて、すいません」

 

申し訳なさそうに言った。

 

「私に謝らなくでいいですよ。ただ、退院したばかりの人が、こんな尿臭が漂うほど不潔な状態にしておくのはひどい。あなたのお母さんですよね」

 

「はい、でもやろうとすると、母はとても痛がるし・・・」

 

確かに、帰ってきていきなりやったことのないオムツ交換をやれというのも難しいかもしれない

 

「では、訪問介護を入れて、少しの間オムツ交換のやり方を教えてもらいましょう」

 

「あの、お金はどのくらいかかるのでしょう」

 

本当に金、金、金にうるさいおばさんだな。

長嶺はため息をついた

 

「1回200円です。とりあえず、1日1回入ってもらい、娘さんに教えてもらいながら、一緒にオムツ交換をやってもらいましょう。娘さんが出来るようになったら、それで終了にすればいいのですから」

 

「わかりました。お願いします」

 

デイサービスを利用する日以外、1日1回訪問介護に入ってもらう事になった

 

 

1週間が経過した。キヌさんの状態は変わらず。骨折した足の痛みが引かず、起き上がる度に激しく痛がる

 

娘さんの状態変わりなし・・・

 

ヘルパーさんに入ってもらい、何度もオムツ交換のやり方を教えてもらっているが、全く上達しない

 

家の中はいつも尿臭が漂っている。

 

デイサービス、訪問介護の事業所から、もっとサービスをいれた方がいいと言われた

 

しかし、ここで長嶺は頭を抱えながら、担当者に言った

 

「確かに、今の状態が続くのは良くないと思う。でも金井さんは独り暮らしじゃない。介護をす娘さんがいる。もう少し娘さんが介護が出来るようにするのが一番大切だと私は思う。私達がやっているのは自立支援。出来ないからって、すべて介護保険サービスで賄うっていうのは安易な考え方のような気がする」

 

自分の中では自立支援って何だよ、無理だろ。そう心の中で考えているが、他の人には心にも思っていない事をすらすら言う

 

今回のケースは、キヌさん本人の自立支援だけでなく、娘の自立支援も必要なようだ

 

そう考えると、結構難しいケースだと思う

 

退院して2週間が過ぎた。ここで少し朗報があった。キヌさんの足の痛みが少し和らぎ、車椅子に乗せる際など痛がる様子があまり見られなくなった

 

逆に悲報もある。それは娘だ

 

オムツ交換がうまくいかず、尿漏れの状態が続いている

 

ヘルパーさん、デイの職員、そして長嶺が何度教えても、一向にうまくならない

 

数日後、長嶺は金沢さんの家に行った。今の状態をキヌさん自身に聞いてみたいと思ったからだった

 

ちょうど家に行くと、娘さんは外出していて、キヌさん以外いなかった

 

「ごめんください、長嶺です」

 

玄関から声をかけると、奥の部屋から

 

「どうぞ」

 

キヌさんの声がした。その声を聞いて玄関から部屋に入る。ヘルパーさんが来た直後なのか、尿臭はしなかった

 

「身体の調子はどうですか?」

 

「最近やっと足の痛みもなくなって来てね。立ち上がるのも出来そうな気がするよ」

 

「それはよかった。デイサービスはどう?楽しい」

 

「みなさんよくしてくれて、お風呂にも入れてくれるし助かっているよ」

 

その後、長嶺は世間話を続けた。そして、今日来た本題に入った

 

「娘さんはしっかり介護してくれている?」

 

その話を聞いたキヌさんは、黙り込んでしまった。

 

「オムツ交換も出来てないし、おしっこが漏れていても代えようともしてくれない。何度も教えてはいるんだけど、全くよくならないんだよ。なぜなんだろう・・・」

 

長嶺の問いにキヌさんは黙り込んだ後、ゆっくりと話し始めた。

 

「実はね、あの娘は少し知的障害があってね。子供の頃から勉強も出来なくて。高校は行ったんだけど、その後就職しても、ほとんど続かない。我慢というより、言われたことが理解できないみたいなんだ」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「しばらくしたら、仕事もしなくなっちまって、家の中に閉じこもるようになってしまった。それからほとんど家から出ない生活を続けてたんだ。最近は買い物とか行ってくれるようになったけど」

 

そういうことか・・・。それで納得がいった。

 

「私は今までの人生、あの娘の事を心配しない日はなかった。どうしたらいいんだろうって毎日思っていたよ。でも、この娘のために頑張ろうと思った。だからこの年まで元気でいられたんじゃないかと思うんだ」

 

「理由はわかりました。でも、今みたいにおしっこでいつも濡れているようじゃ、キヌさんがかわいそうだ。もうし少デイサービスを増やすなり、ヘルパーさんを増やしますか」

 

長嶺の話を聞いたキヌさんは首を振った

 

「私の事はどうでもいいんだよ。おしっこまみれだって気にしない。娘のために少しでもお金を残しておいてあげたいんだ。今のままで十分だよ」

 

「そうですか・・・」

 

NHKでよくやっている8050問題と違う。放送している内容は、人間関係などで仕事や学校を辞めて引きこもり、そのまま中年になってしまった。そんな話が多い

 

でも、娘さんは知的障害というものを抱え、仕事が出来ずに今まで生きてきたんだ

 

キヌさんは今までの自分の収入で引きこもりの娘さんを育ててきた。ただ、それは娘さんが軽度の知的障害だったから頑張るしかなかった。

 

長嶺は心の中で泣きそうになった

 

「キヌさん、じゃあ頑張って立てるようになって、ポータブルトイレに座れるようになるといいね」

 

「足も痛くなくなったし、そろそろ自分でもそうしようと思っていたところだよ」

 

笑顔を見せるキヌさん、ただもう3週間以上寝たきりの状態だ。筋肉もかなり落ちているだろう。年も99歳という高齢。以前のように歩けるようになる可能性はかなり低い

 

長嶺は、娘さんにイライラしていた自分に少し腹が立った。

 

他人の障害ってわからないものだな・・・。どれだけ教科書で勉強したとしても。外見、話し方は普通に見えるので、障害があるとは思わなかった。

 

長嶺は今回の事で人の障害、病気は外見ではわからないものだ、そう痛感した。

 

次の日、訪問介護、デイサービスの担当者と話をした。

 

「どうやら、娘さんには知的障害があって、細かいことをすることが苦手らしい」

 

そう伝えると、担当者は驚いた顔をした。

 

「ここで、相談なんだが、キヌさんの介護の方法を少し変えようと思う。足の状態もよくなってきているし、オムツ対応を止めようと思うんだ」

 

「つまり、どういうことですか?」

 

「まずヘルパーさんから。まずはオムツからリハビリパンツに代えようと思う。そして1日1回入ったとき、ベッドの隣にあるポータブルトイレで排泄させてほしい」

 

「キヌさん、立ち上がること出来ますかね?」

 

「このままでは本当に寝たきりになってしまう。痛みがなくなってきたなら、次の段階に進むべきだと思う。」

 

 

「そしてデイサービスでは、今までのように寝ているだけというのはもう止めよう。車椅子で過ごしてもらい、排泄はトイレでやってもらいたい。もちろん、運動にも参加させてあげてほしい」

 

「わかりました」

 

2人とも、多少不安な顔をしていたがとりあえず了承してくれた

 

長嶺は今まで、80歳を越えて大病を患っている人に対し、自立支援なんて、本当に馬鹿馬鹿しいと思っていた

 

第一、どんな運動や脳トレをしたところで、状態が以前のように戻るはずがない

 

実際どれほど運動したところで、普通に歩けるようになる高齢者はほとんど見たことないし、脳トレをどれほど真剣にやったところで認知症が回復するなんて、あり得ない話だと思っていた

 

年齢と共に人間は衰えていくのに、自立支援ってマジでなに?

 

ずっとそう思いながらケアマネという仕事をしていた

 

しかし、今回金井キヌさんという人に出会い、キヌさんの心の奥底の思いを聞いたことで、なんとか以前のように、歩けるようになれないか?

 

そういう思いが長嶺の心の中を包み込んだ

 

そしてキヌさんの支援は次の段階に入った

 

       第5章

 

次の日、長嶺はヘルパーさんの入る時間に、金井家を訪れ、本当にベッドからポータブルトイレまで行けるか、様子を見に行った。家に入ると尿臭が漂い、思わず顔をしかめた

 

ヘルパーさんが、ベッド上でズボンを下ろし、キヌさんのペースで、ゆっくりと起き上がってもらう

 

 

時折痛い、痛いと苦痛の表情を浮かべたが、ベッドの柵を持ちゆっくりと起き上がった。

 

 

ここからが大変なところ、骨折した足を、ゆっくりとベッドから下ろさなければならない。ヘルパーさんは手伝おうとしたが、長嶺は止めた

 

このくらい自分で出来ないと、多分立ち上がるのも難しいだろう

 

キヌさんは、痛む足を腕で抱えながら体勢を横にし、ゆっくりとベッド脇に座った

 

「じゃあ立ち上がるのを手伝ってもらえますか?」

 

ヘルパーさんにお願いする。ヘルパーさんはキヌさんの前に立ち、抱き抱えるようにしてキヌさんを支える

 

「キヌさんが対上がるときに、転ばないように支えるだけにしてください。じゃあ、キヌさん、ベッド柵を持って立ち上がってみてください」

 

長嶺が声をかけると、キヌさんは歯を食いしばり、全身に力をいれた。するとゆっくりと体が持ち上がる

 

「痛たたた」

 

そういいながらもゆっくり立ち上がった。ヘルパーさんは支えるだけで力を入れていない。自分の力で立ち上がったのだ

 

「すごいよキヌさん!!」

 

しかしこれからが問題だ、からだの向きをポータブルトイレの方に向かわせるため、15度ほど身体を回転させなければならない

 

足を骨折してしまった人は、身体を回転する動作が意外と難しい

 

「じゃあ、からだの向きを変えてみて」

 

その言葉に、キヌさんは苦痛な表情を浮かべながら、ゆっくり、ゆっくり身体の向きを変えていく

 

「ゆっくり座っていいですよ」

 

長嶺が声をかけると、キヌさんはベッドサイドにあるポータブルトイレに座った

 

「すごいよ、よく頑張ったね」

 

なぜか一同拍手した。不謹慎かも知れないが、アルプスの少女ハイジ

 

クララが立った!!

 

その名シーンを、長嶺は思い出していた。そこに座っている間、急いで汚れたシーツと服を代える

 

ヘルパーさんはただ支えていただけで、キヌさんの力のみで立ち上がり、ポータブルトイレに座ったのだ

 

99歳でこの頑張りは感動に値した

 

事務所に帰り、デイサービスの職員にその事を報告した。

 

デイサービスの職員は、トイレに誘導し、立ち上がりの練習も取り入れたい、そう話してくれた。

 

本当に歩けるようになり、娘さんの介助が要らなくなったらいいな。本当にそう思った。

 

次の日デイサービスの日。

 

キヌさんは、車椅子に乗りながら、何度も平行棒のところに行き、立ち上がりの練習をしていたそうだ

 

驚いたことに、職員に対し

 

「トイレに行きたいから、手伝ってほしい」

 

そう言い、職員の介助でトイレに行き、排泄を済ませたそうだ

 

デイサービス利用中、失禁はなし

 

今まで寝たきり、オムツで失禁、尿漏れの中で生活していたのに

 

「さすがに疲れたよ。足がぱんぱんだ」

 

笑顔でそう言って帰っていったという

 

長嶺はよかったと思う反面、心配が頭をよぎった。頑張ろうとして、また転倒し骨折してしまう。そんな事はよくある話なのだ

 

何事も焦りは禁物

 

長嶺は金井さんの家に向かった。そして家に帰りキヌさんと話をした

 

「デイサービスどうだった?」

 

「いつも寝てばかりだったけど、今日は起きていていいって言われたからずっと起きてた。体操とか運動をやったよ。お陰で疲れた」

 

キヌさんは笑顔で長嶺に言った

 

「でもキヌさん、頑張りすぎてもダメなんだよ。また転んだりしたら骨折する可能性があるからね」

 

そう言った後、娘さんを呼んだ

 

「キヌさんは、尿意もあり、デイサービスではトイレを利用して失禁もなかったそうです」

 

「そうですか」

 

「ただ、その様子はいつ転んでもおかしくないくらいふらふらな状態でした。多分家でもポータブルトイレで排泄しようとするでしょう。その時は、転ばないように支えてもらってもいいですか?」

 

長嶺がそう言うと、娘さんは

 

「そのくらいならやろうと思います」

 

承諾してくれた。

 

月日は流れていく。キヌさんはデイサービスで立ち上がり訓練を黙々とやっている。その結果、立ち上がりの動作も安定してきた

 

家でもポータブル使うことが多くなり、

以前のような尿臭も無くなってきている

 

トイレに行きたいときは、娘を呼び、支えてもらいながらなんとかポータブルトイレに座るそうだ

 

徐々にキヌさんの身体状態もよくなってきている

 

そんな時デイサービス職員から

 

「歩行練習をさせてみたい」

 

そう提案があった。長嶺よりキヌさんの状態を把握しているはずだから、もちろん長嶺はOKサインを出した

 

そこまで状態がよくなったか。もうすぐ100歳なのに

 

人の思いというのはすごいものだ。

 

多分、娘さんにこれ以上迷惑をかけたくないからだろう。長嶺の言った通りに、娘さんは毎日ポータブルトイレの移動を支えてあげているという。夜中でも。

 

そういう思いが、キヌさんの頑張りに繋がっている

 

もしかしたら、本当に歩けるようになるかもしれない

 

これが自立支援というものか・・・

 

ただ、お風呂目的でデイサービスを利用し、家政婦みたいにヘルパーさんを利用する

 

これが今の介護サービスの現状だと思うし、それが事実である

 

ただ、なにか心に目標があれば、人はいくつになっても復活することが出来る

 

それは、人には迷惑をかけたくない。自分の事は出来るだけやりたい

 

そういう自尊心、それが人を何度でも復活させる

 

その思いをどれほど引き出すのか、それがケアマネ、介護サービス事業所の役割ではないか

 

キヌさんの姿を見て、長嶺はそう思った。

 

ここで、長嶺は訪問介護、つまりヘルパーさんのサービスを中止した

 

もともとオムツ交換をしてもらいにヘルパーさんに入ってもらっていたので当然といえる

 

その事を話にキヌさん家を訪ねた

 

「トイレはなんとか出来るようになったから、ヘルパーさんはもういいよ。それより、デイサービスを増やしたい」

 

「週にもう一度デイサービスを増やすんですか?」

 

「そう、もう少し運動して歩けるようになりたいんだ。今その練習をしている。もっとやりたいんだよ」

 

確かにヘルパーさんの料金を、デイサービスにまわせば、1ヶ月の介護費用はそれほど変わらない。しかし・・・

 

「あまり無理なさらない方がいいんじゃないですか?疲れが溜まるかも知れませんよ」

 

長嶺が懸念を伝えるが、

 

「大丈夫だよ。家では寝てばかりいるんだから。身体がなまっちまう」

 

キヌさんは笑顔で答える。娘さんも利用回数を多くすることに同意してくれた

 

「じゃあ来週から週3回利用することにしよう。早く歩けるようになるといいね」

 

そう言って長嶺はキヌさんの家を後にした

 

 

その後、長嶺の足はキヌさんから遠のいた。長嶺が担当しているお年寄りはキヌさんだけではない。35件担当している

 

要介護の判定をされた方は、最低月1回は自宅を訪問し、本人と面談しなくてはならない

 

そして次の月の予定表を渡す

 

ほとんどの人は変化なんてない。少し世間話をして、来月の予定表を渡し終了する

 

もちろんキヌさんの様子はデイサービスの職員から聞いている。利用する度!歩く練習を頑張っているそうだ

 

そんな様子を嬉しそうに職員が話しかけてくる

 

デイサービスでもショートステイでも一番怖いのはお年寄りの転倒。

 

それを防ぐために、立ち上がったお年寄りにすぐ向かって支える。職員がいないところであまり歩かないよう伝える

 

それが今の介護サービスの現状。

 

でも、キヌさんは娘のためになんとか歩きたい。そういう希望を職員に訴え、職員もその思いに答えたいと工夫しているそうだ

 

キヌさんも職員の思いをわかり、一人では絶対に動かないという

 

このまま本当に歩けるようになったらすごいことだ。そう長嶺は考えながら、他の担当者の家を回る日々を過ごしていた

 

そんなある日、朝一番で長嶺に電話がかかってきた。

 

その電話を受けた長嶺は、全身から血の気が引き、身体が動かなくなった

 

キヌさんはその日の早朝亡くなっていた・・・

 

 

        最終章

 

長嶺はすぐにキヌさんの家に向かった。キヌさんの家に上がり、寝室に向かう

 

長嶺の目に飛び込んできたものは、仰向けになり目を閉じているキヌさんの姿だった

 

「キヌさん」

 

小さい声で話しかけてみたが、全く反応を示さない。眠るような形で亡くなっていた。

 

娘さんの話だと、いつもなら5時位にトイレに行きたいと、娘さんを毎日起こすのだが、その日は全く声がかからない

 

不振に思った娘さんが様子を見に行くと、すでに呼吸をしていなかったそうだ

 

すぐに救急車を呼んだが、救急車が到着し、救急隊員が状態を見たところ、すでに死後硬直が始まっており、そのままの状態で、かかりつけ医に連絡するようにと言われ、そのまま帰ってしまった

 

娘さんは、近所のかかりつけ医に連絡すると、すぐに家にきてくれ、死亡診断書を書いてくれたという

 

夜中に大声を出したり、苦しむ様子は全くなかった。本当に眠るように亡くなっていたそうだ

 

長嶺はにわかに信じられないという思いの中、娘さんには向かい

 

「ご愁傷さまです」

 

そう声をかけた。すると、娘さんは

 

「今までありがとうございました」

 

長嶺に向かい、頭を下げた。

 

信じられない。昨日まで絶対歩けるようになる、そう言って頑張っていたのに・・・

 

「私の事で、母に無理させちゃったんですよね」

 

突然娘さんが話し始めた

 

「お母さん、ごめんね。私がこんな人間だったから、お母さんに苦労をかけちゃった。もっとしっかりとした人間だったら、こんな苦労することなかったのに」

 

そう言った途端、娘さんは大声で泣きはじめた。

 

「私が普通の人間だったら、他の人と同じような生活が出来ていたら、お母さんこんな苦労しなかった。ごめんなさい。私なんて生まれてこなければ、お母さんもっといい人生送れたはずなのに」

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

娘さんは崩れるように膝をつき、キヌさんの目の前で泣き続けた

 

「私なんか生まれてこなければよかった」

 

娘さんは何度も、自分が生まれてこなければよかったと繰り返しキヌさんに言った

 

その姿を見て、長嶺は娘さんは娘さんの中で相当苦しんでいたんだ。自分は30年近く、社会に出ず、家に引きこもっている生活を続けていた

 

しかしそれは本人が決して望んでいた生活ではなく、苦しみの中過ぎていってしまった時間だったのだ

 

「私、お母さんが退院した時、これからお母さんに恩返し出来ると思っていたの。でも出来なかった。何度説明されても、お母さんは身体を動かしただけで痛がる。プロの人みたいに上手く行かなかった。最後まで私ダメだった。ごめんなさい」

 

そんな姿を静かに見ていた長嶺が言った

 

「生まれてこなければよかったなんて言わないでください。キヌさんは決してそんなこと思ってない。あなたの事をずっと愛していたと私は思います」

 

「なんでそんなこと言えるんですか?お母さんは、私さえいなければ、もっといい人生が送れたはずです。変な慰めはやめてください」

 

「いや、私はケアマネをやっていて、何十、何百というお年寄りの方と出会ってきました。キヌさんくらいの年齢の方は、早く死にたい、早く死にたい。会うたびにそう言います。まあ、本当に死にたいと思っているとは思えませんが・・・」

 

「つまり、私の言いたいことは、お年寄りって孤独なんだと思います。一人暮らしで、子供達はほとんど顔を見せない。2世帯住宅を建てても、顔を会わすのは月に一度あるかないか、そんな孤独に過ごしているお年寄りは意外に多いんです」

 

「でもキヌさんは、最後まで生きたい、もっとよくなりたい。そう考えながら生きていました。そんな考えを持つお年寄りを私はあまり見たことがありません」

 

長嶺の話を娘さんは無言で聞いていた。長嶺は続けた

 

「私にも娘がいましてね、もう中学生なんですか。お父さん臭い、あんまり近寄らないで、なんて嫌われているんですが、それでも小さかった時の事、そして成長していく姿を見ると幸せに感じます。キヌさんもあなたの姿を見て幸せに感じていたことは間違いありません」

 

「なんでそんなことが言えるんですか?」

 

「キヌさんの姿、そして行動ですよ。あなたに情けない姿を見せたくない。元気なお母さんでいたい。それがキヌさんの思いだったと私は思います」

 

そう言うと、娘さんはまた大声で泣き始めた

 

もう話すことはない。2人の時間を大切にしてあげよう

 

そう思い、長嶺は家を後にした。

 

帰り道、長嶺はコンビニに立ち寄りたばこを吸った、少し気分を落ち着けるためだ

 

長嶺自身、キヌさんが亡くなったことを信じられずにいる

 

吐き出したたばこの煙の先を見ながら、今月デイサービスを週3回に増やしたことについて考えた

 

まだ、体力もついていなかったのか?時期が早すぎたんじゃないのか?

 

そう考えるが答えは出てこない

 

私たちケアマネは、お年寄りの自立支援という聞こえはいいが、無理難題と向き合って仕事をしていかなければならない

 

ただ、今回キヌさんと出会って、いくら高齢でも、最後まで諦めない姿は、長嶺の心を動かした。

 

そうやって年を取れるのは、素敵なことだな

 

そういう人を支援することも、やりがいを感じるものだと、消えていく煙を見ながら長嶺は心の中でそう思った

 

 

         完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめの隠ぺい

 

 

 

        7

 

次の日、鬼頭が学校に来て早々、校長室に呼び出された。

 

鬼頭が校長室に入ると、大前校長から新聞を渡された。その新聞に書かれている内容を見て、鬼頭の目は見開いた

 

「いじめか。中学生川に飛び込み、警察出動」

 

記事には状況が細かく書かれており、鬼頭でも把握できていない内容もあった。

 

この新聞はR市タイムズという出版数さえ少ないが、地域密着のニュースを題材にしている新聞だ。

 

「まずいことになったな」

 

校長の大前が呟く。

 

「どうしたらいいのでしょう。いじめの事が公になったら、我が校の評判もがた落ちになります」

 

大前は少し考えた後

 

「これから市役所に行ってくる」

 

そう言って準備を始めた。

 

「なぜ行かれるんです」

 

「まず、教育委員会に行き、この新聞内容はでたらめだと伝えてくる。あと市議会議員、市長に会い、この新聞社に圧力をかけてもらい、2度とこの記事を載せないように圧力をかけてもらう」

 

「さすがですね」

 

「鬼頭君は、この記事に対して、保護者への対応を考えてくれ」

 

そう言って大前は校長室をでいった。

 

昨年まで、教育委員会を勤めていた大前は、R市教育会のドンと言われている。教育委員会のメンバーのほとんどは、大前の息がかかったメンバーで固められている。

 

顔が広く、市議会議員の知り合いも多い。

 

いじめに対する反応は恐ろしく鈍いが、自分の身の保身となると、他者が驚くほどのスピードで動く。

 

それが大前という男だった。

 

学校に残った鬼頭は、パソコンに向き合い、必死で文章を打っていた。

 

この件がこれ以上広まってしまったら大変なことになる。

 

いじめの調査、保護者に説明、そして校長試験への影響・・・

 

まず、いじめが大きくなったら今年の試験は通らない。いや、事が大きくなると校長への道が閉ざされる。

 

校長になれば、その後の天下り先が大きく広がり、退職金も今とは比べ物にならないくらい多くなる。

 

鬼頭は必死に文章を書き終えた。

 

その内容は、この新聞の記事は全くデタラメだということ。そして我が中学校にはいじめなど存在しないということ。この記事に惑わされないように、いつものように学校に通ってほしいと書かれていた。

 

その文章を印刷し、コピー機で生徒の人数分を刷りあげた。

 

 

 

久美は精神的に参っていた。小学校の時はあんなに元気な女の子だったのに、中学に通い始めてたった3ヶ月で、精神病院に入院するくらい、体調を崩してしまった。

 

家に帰り、一人分の食事を作る。今までなんとか玲美にご飯を食べてほしいと、毎日2人分作っていた。

 

一人分の食事を作るのは何年ぶりだろう。毎日玲美と楽しくご飯を食べながら、今日1日の事を楽しく話していた。

 

その頃の事が、はるか昔に感じられる。

 

病院から受け取った荷物の中に、玲美のスマホがあった。1人でご飯を食べている時、玲美のスマホを起動させた。

 

悲しいことに玲美のラインには誰からも心配するようなコメントは入ってなかった。

 

入院したのに誰からもコメントが無いなんて。久美はショックを受けたが、友達のタイムラインをご飯を食べながら見ていた。

 

玲美は病院で1人なのに、他の子達は普通の生活を送っている。

 

なぜ、玲美に一言でも心配のメッセージを送ってくれないのか。胸が苦しくなり、食事も半分程で止めた。

 

1人のご飯は美味しくない。

 

その後も久美はタイムラインを見続けた。その時ふとタイムラインだけではなく、玲美の普通の会話も見たくなり、トークを押した。

 

その時、久美はあまりの衝撃で、息が止まった。

 

裸の写真が写っている。目は自分の手で隠されていたが、間違いなく玲美の裸の写真だった。

 

久美はいてもたってもいられず、車に乗り込み、交番へ向かった。交番に着くと、そこにいた警察官に

 

「こんなラインが出てきたんですけれど、これっていじめですよね」

 

大声で話した。

 

ラインを見た警察官は、事の重大さをすぐ理解したようだった。しかし

 

「これはかなりひどいいじめです。ただ、いじめとなるとR署の少年課が対応となります。私もこの事は伝えておきますので、朝一番でR署の少年課にいってください」

 

久美は時計を見ると、午後11時を越えていた。いつの間にこんな時間になっていたのだろう。

 

警察官に言われた通り、家に帰り、朝一番で少年課に行ってみることにした。

 

ただ、布団の中に入るが、全く眠れない。玲美が苦しんでいたのはこの事だったのか・・・。

 

まだまだ12歳なのに、こんなことされたら、私だって学校にいけない。

 

玲美の苦しみを思うと、涙が溢れてくる。何でもう少し早く気づいてあげることが出来なかったのか。

 

ラインを見ると、他の生徒にも玲美の裸の写真が回っていることもわかる。

 

こんな中で学校に行かせてごめんね。

 

久美は何度も玲美に謝った。

 

 

次の日久美は学校に連絡をいれた。

 

「玲美のスマホを見ていたら、いじめの証拠が見つかりました。これから警察に提出に行きます」

 

「えっ!!警察ですか、少々お待ちください」

 

保留音に切り替わった。保留音は長く、久美が電話を切ろうかと思った時

 

「お電話代わりました。教頭をしております、鬼頭と申します」

 

「教頭先生ですか?」

 

「いじめの証拠が出てきたということで、お手数をかけて申し訳ないんですが、その証拠というものを、私たちにも見せていただいてもよろしいでしょうか?」

 

「え、なんでですか?」

 

「こちらでも、玲美さんの件は重く受け止めておりまして、調査をしています。ただ、決定的な証拠がないので、調査が進まない状態です。もし、その証拠品が警察に押収されてしまったら、私どもの調査が進展しない可能性があります。ぜひ、こちらによって証拠を見せてください」

 

「そういうことなら、見せに行きます」

 

久美は電話をきった。

 

久美が学校に着くと、鬼頭はすぐに久美の前に現れた。そして、相談室に案内する

 

「いや、私共も倉田玲美さんのいじめの真相を知りたくて、毎日調査しているのですが、いまだ証拠が見つからないのですよ」

 

いじめの隠ぺいばかり考え、いじめの調査などほとんどしていない鬼頭だったが、そんなことはおくびにも出さず、久美に協力するかのように装った。

 

「実は、娘のスマホのラインを見たら、こんな写真がありまして・・・」

 

「どれ、拝見してもよろしいですか?」

 

久美は教頭の鬼頭を信じ、その内容を見ることを許可した。

 

これはひどい・・・

 

さすがの鬼頭も、その写真を見て、その凄惨さに驚いた。

 

「すいません、このラインを私のスマホで写真を撮らせてもらってよろしいですか?もちろんいじめの解決のためです」

 

相手が教頭とはいえ男性。玲美の裸の姿を撮られるには抵抗があったが、いじめの解決のためと言われたら、久美は承諾するしかなかった。

 

何度かシャッターを切る音が聞こえた後、

 

「ありがとうございました。お返しいたします」

 

そういってスマホを久美に返した。

 

久美はすぐにR署に向かった。受付で、少年課はどこかと聞くと、すぐに担当の警察官が迎えに出てきてくれた。

 

交番から報告が行っているらしい。

 

迎えに出てくれた警察官は女性で、その事が久美を安心させた。

 

「こちらへどうぞ」

 

署内の一室に案内される

 

「大体の事は交番勤務の警察官より聞いています。娘さんがいじめに会い、わいせつな画像がラインから出てきたと」

 

「そうなんです。これを見てください。玲美はこんな写真をばらまかれて、先日死のうと思って川に飛び込みました。今は精神病院にに入院しています」

 

「そうですか、では拝見いたします」

 

「こんな写真がみんなに見られていると思うと、玲美は本当に辛かったと思います。なんとかなりませんか?」

 

女性警官は、スマホに写っている写真を注意深く見ていった。

 

これはひどい。娘さんは本当に辛かったでしょう・・・」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

「お母さん、これは間違いなくいじめです。しかもかなり悪質な部類に入ります」

 

「そうですよね」

 

久美が言った後また沈黙が続いた。

 

「私達はすぐに加害者を特定し、スマホに残っている写真を削除させます。しかし・・・」

 

「しかし、なんですか?」

 

「お話を聞く限り、加害者も同じ中学生のようです。そこが問題となります」

 

「問題ってなんですか?」

 

「私自身の感情としては、加害者を許すことが出来ません。しかし、少年法では14歳以下の子供は刑事罰に問えないのです」

 

「こんなにひどいことをしておいて、なんの罰も受けないのですか?」

 

「もし加害者が、誕生日を迎えて15歳になっていたら、家裁送致など対応は出来ますが、14歳の場合、厳重注意で終わる可能性が高いのです」

 

被害を受けた玲美は、精神病院に入院するくらい、心に傷を負っている。それなのに加害者は、全く裁かれず、これからも何事もなかったかのように生きていくのか・・・

 

そう思うと、本当に悔しくて久美は涙を流した。

 

 

これはひどいねえ・・・」

 

校長室の中、先ほど撮った写真を見て、鬼頭と大前は絶句していた。

 

こんないじめは前代未聞。もし、この事が公になったら、2人に処分が下りるのは確実。

 

しかも今、母親は警察署に行っているという。かなり2人の立場は危うくなっている。

 

「このような事をやった生徒は、わかっているのか?」

 

「はい、3年の小林翼、向井七海が中心となって行ったようです」

 

「あの2人か・・・。どこまで腐った人間なんだ」

 

校長の大前も、この2人の悪評は聞いている。しかしここまでひどいことが出来るものなのだろうか?

 

「警察が介入してくるだろう。それはもう仕方がない。どうなるか、その時検討するしかないな・・・」

 

大前は今まで積み重ねてきた物が崩れ去ってしまうかもしれないという不安を覚えた。

 

しかし、そんなことさせるものかと、あらゆるつてを考えていた。

 

 

数日後警察官の捜査が始まる。玲美が川に飛び込んだ時、その場にいた人間の名前、住所を警察はひかえていた。

 

そのためすぐに翼と七海に警察から連絡が行き、すぐに警察署に来るようにと出頭命令が下った。

 

七海は焦った。自分のやったことで、警察署に行かなければならない。すぐに翼に連絡した。

 

「どうしよう、これから警察署に行かなきゃいけなくなっちゃった」

 

「落ち着け」

 

七海の慌てぶりに、翼はまず落ち着くように言った。

 

「多分、写真の事だろう。まず証拠を消せ。ラインや他に証拠になりそうなものは全部消すんだ。スマホを初期化させろ」

 

「わかった、そうする」

 

「そうすれば、証拠は出てこない。証拠がなければ警察だって俺たちをどうこうすることも出来ねえよ」

 

翼は気が小さい人間ではあるが、玲美が川に飛び込んだ時、母親に虐待されていると警察官に真顔で言うなど、悪知恵はとにかく働く。

 

学校の成績はクラスで最下位。その能力を勉強に使えば、下から2番目位の成績になれたかもしれない。

 

スマホのデータを初期化し、2人は警察署に向かった。受付に言うと、すぐに女性警察官が出てきた。

 

「この部屋に入って、少し待っていて」

 

狭い部屋で2人はしばらく待たされた。

 

七海は不安で泣きそうになっていた。これからどうなるんだろう。自分が警察署の個室にいることが信じられなかった。

 

「大丈夫だって、しっかりしろ」

 

横から翼の声がした。この状況において、翼は冷静だった。

 

「証拠もないんだから、堂々としていればいいんだよ」

 

なぜか勝ち誇ったような顔をしている。七海には翼の考えていることが全くわからなかった。

 

カチャ

 

部屋の扉が開いて、2人の女性警察官が入ってきた。

 

2人の目の前に座ると

 

「君達、なぜここに呼ばれたかわかるわよね」

 

厳しい表情で2人に言った。

 

「全くわからないっすね」

 

翼は平然と答える。

 

「あなた達が、集団で1人の女の子をいじめ、その子は今精神を崩して入院している」

 

「その事が俺らと関係あるんですか?証拠もないのに言わないでくださいよ」

 

翼の言葉に2人の警察官の表情はもっと厳しくなる

 

スマホを持ってきたでしょ。出して」

 

2人は言われた通り、スマホを机の上に置いた。警察官はそのスマホのチェックを始める。

 

「おかしいわね、全部初期化されてる」

 

「おかしくなんてないですよ。ラインなんてやってないし、ほとんどスマホなんて使わないんで」

 

「本当に?」

 

「本当っすよ」

 

その言葉を聞いた女性警官は

 

「今の時代、初期化されたデータなんてすぐに復元できるんだけど、やってみていいわね」

 

「え?」

 

翼の顔がみるみる青ざめていく。復元されたら、今までやってきたことがすぐにばれてしまう。

 

「このスマホ、少し借りるからね」

 

そういって、2人の警察官は、部屋を出ていってしまった。

 

しばらくすると、2人の警察官は部屋に戻ってきた。2人とも厳しい表情をしている。

 

「あなた達のスマホを復元しました。これはあなた達が撮らせた写真ですよね」

 

2人の前に完全に復元されたラインが提示された。

 

「ちょっと待ってください。これは向こうが勝手に送ってきたもので」

 

翼はやばいとおもい、とっさに言い訳をした。

 

「そうですか、でもこの写真に写っている女の子はどう見ても18歳未満の子ですね。こういう写真を保管しているだけで、児童ポルノ違反という、れっきとした犯罪になります」

 

「犯罪ですか?」

 

「そうです。一年以下の懲役、または100万円の罰金に処されます」

 

2人は顔面蒼白になった。まさかここで逮捕されてしまうのか?

 

しかし、その後警察官は唇を噛みながら

 

「しかし、あなた達はまだ14歳。少年法により、触法少年という位置付けで、罪には問えません」

 

2人は顔を上げた。罪には問えないということはどういうことなのか?

 

「今回は厳重注意という対応を取ります。そしてスマホは元のように初期化して返します。こんなひどいいじめを2度としないように」

 

「わかりました」

 

2人は頭を下げたが、まだ状態が理解できない。触法少年?厳罰注意?意味がわからないことばかりで理解できない。

 

初期化されたスマホを渡されると、警察署から出ていいと許可が下りた。

 

2人はゆっくりと警察署を後にする。

 

道を曲がり、警察署が見えなくなったところで、2人は足を止めた。

 

「私達、罪になるのかしら?」

 

翼はグーグルで、先ほど言われた言葉を調べる。調べ終わると、

 

「よっしゃー!!!」

 

大声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「今、触法少年っていうのを調べたんだけど、刑事罰に問えるのは15歳からなんだって。つまり俺はまだ14歳。9月に誕生日を迎えるまで、警察は俺を逮捕できないらしい」

 

「ていうことは、私も誕生日が12月だから、逮捕されないってこと?」

 

「そういうこと。俺たちは無罪なんだよ!!」

 

翼がそう言うと、2人は大声で笑った。

 

「あぶねえ、もし、5月が誕生日だったら、完全に逮捕されてた。まじラッキーだ」

 

「ラッキーね。私達。本当にデータを復元された時は終わったと思ったけど、ほっとしたわ」

 

「全く驚かせんじゃねえよ。俺たちは無罪だって始めからわかっているくせに、性格悪い警官だな」

 

「全くよ、顔もブスだったわ」

 

七海と翼はもう一度大声で笑った。

 

刑事罰がないから無罪。ただ、年齢で裁けないだけなのに、無罪と思い込む。

 

この2人は、驚くほど知能指数が低かった。

 

 

 

 

        8

 

久美は毎日のように玲美のお見舞いに行った。看護師からは、少しずつではあるが、精神的に安定してきていると言われた。

 

しかし、突然のフラッシュバックに襲われるようで、急に痙攣を起こしたり、死にたいと訴える等の症状は改善がみられないと伝えられた。

 

久美はその状況を聞き、かなりのショックを受けた。あの娘が、たった1人でいじめに耐えてきたこと。そして、今の精神状態になってしまったこと。

 

判明した玲美への凄惨ないじめの内容も、久美の心に重くのし掛かった。

 

あまりに残酷なのに、加害者は全く処罰されない。

 

今も普通に生活していると思うと、激しい怒りで、精神を安定させることが難しくなっていた。

 

加害者に対し怒りを感じると同じくらい、久美は自分自身にも怒りを責めていた。

 

なぜ気づいてあげられなかったのか・・・。玲美は何度も私にいじめられているというサインを出していたのに。私が早く気づいてあげたら、玲美がこんなに苦しい思いをしなかったのかもしれない。

 

久美も玲美と同じように、精神的に不調をきたすようになってしまっていた。

 

そんな時、学校から連絡が入った。相手は教頭の鬼頭だった。

 

「倉田玲美さんのいじめの加害者生徒の中間報告をしたいのですが、申し訳ありませんが、学校に来てもらえませんか?」

 

「わかりました。」

 

体調がすぐれない中、久美は中学校に向かうことにした。

 

警察がこの事件の捜査を始めたと知ったときから、校長の大前と教頭の鬼頭は、何度も話し合いを続けていた、

 

まず大前は教育委員会に出向き、この事件はいじめではない、そう何度も委員に説明した。

 

もちろん市議会議員にこの事を大きくしないようにとお願いにあがっている。

 

とにかく、このいじめが公になってしまっては困るのだ。

 

自分の身の保身のためなら、使えるものは何でも使う。大前は校長という立場にありながら、卑怯な人間であった。

 

鬼頭は、生徒を呼び出し、いじめの有無を確認する。その中の生徒の中に、玲美に対するいじめを訴える生徒がいたが、鬼頭は、自分が対応するから、他の生徒に言わないようにと念を押した。つまりもみ消した。

 

久美が学校に行き、鬼頭から説明を受ける。しかし、生徒からいじめがあったという話しは今のところない。

 

そう伝えた。

 

玲美はがっかりして、中学校を後にする。そんなことが何度か続いた。

 

大前と鬼頭はいじめを調べる気はほとんどない。何度も経過を報告しようとするのは、久美に対し、学校はいじめに対して真剣に向き合っています、というパフォーマンスに過ぎなかった。

 

実際、どのように隠ぺいするか、大前と鬼頭は必死だった。

 

生徒の事より、自分の心配。長年教師をしている人間なのに、そんな基本的なことも、頭の中に存在していなかった。

 

そんな日が続くなかで、玲美は原因不明の偏頭痛やめまい、不眠に悩まされるようになってしまっていた。

 

仕事も手につかず、休むことが多くなってしまった。

 

そんな時、鬼頭からまた連絡が入った。

 

「すいません、確認したいことがありまして、また学校に来てくれませんか?」

 

しかし、頭痛やめまいに襲われながら生活している今の久美には、1人で行ける体力がなかった。

 

父親にその事を相談すると、

 

「弁護士に立ち会ってもらえ。近所に知り合いの弁護士がいる。その人にお願いするから」

 

「でも、弁護士にお願いするお金はないよ」

 

「お金は俺が出してやる」

 

父親はそう言って弁護士の手配をしてくれた。

 

久美は、学校に連絡を入れた。そして、電話に出た鬼頭に

 

「最近、私の体調が悪くて、学校にに行ける自信がありません。親族で相談したところ、知り合いの弁護士に代わりに行ってもらいたいと思うのですがよろしいでしょうか」

 

それを聞いた鬼頭は驚いた

 

「弁護士ですか、そ、それは認められません。私と校長の努力でようやくいじめの真相が少しずつわかり始めてきたんですよ」

 

「そうなんですが、最近めまいと偏頭痛で、仕事も休んでいるんです」

 

「そんなことは弁護士を代わりに出させる理由にはなりません。そういうことなら、こちらもいじめの真実の追及を中断せざるをえない」

 

怒鳴るような声で鬼頭は久美に言った。

 

「弁護士などあてにせず、1人で来てください!!」

 

もう一度怒鳴り付けるように久美に言い放った。

 

「大声で怒鳴り付けないでください。でも、私1人では無理なんです」

 

「私どもは、お母さん1人でないと対応しません」

 

そう言うと鬼頭は乱暴に電話を切った。

 

弁護士だと、この中学校を告訴するつもりか

 

鬼頭は怒りで頭が一杯になった。すぐに校長室に向かい、相手が弁護士を立てるようだと報告した。

 

激昂している鬼頭に対し、大前の表情は凍りついていた。

 

「それはまずい。しかし、放っておいたら弁護士が裁判所に告訴するかもしれん。そうなったら我々は終わりだ」

 

真っ青な顔をして、大前は下を向いた。

 

大前の狼狽ぶりに、鬼頭も焦りの感情が芽生えた。裁判所に告発。そんなことされたら、私の人生は終わりだ。

 

「もう、こうなったら実力行使に出るしかありませんなぁ」

 

大前は鬼頭に向かい、何かを決意するように言った。

 

 

次の日、久美はふらふらになりながら学校に行った。何度か呼び出されているが、いじめに対する調査について、さっぱり進展がない。

 

今日も、話をはぐらかされるのではないか。行く意味が本当にあるのか?

 

そう思いながら学校に着き、職員室に向かうと、鬼頭が腕を組みながら、机に着いている。表情もかなり険しい。明らかに不機嫌なのが伝わってくる。

 

久美が来たことに気づくと、その表情を変えずに久美に近づいてきた。

 

威圧感に驚く久美に対し、あちらの部屋でお話をしましょう。

 

そう言って久美と2人で相談室に入っていった。

 

「弁護士を立てるというのはどういう事ですか!!」

 

部屋に入って早々、鬼頭は久美に怒鳴った。

 

「どれほど私達が玲美さんのために頑張っていると思っているんですか。まさかうちの学校を告発するつもりですか?」

 

あまりの剣幕に久美は驚いた。

 

「告発するつもりなんて全くありません。電話でも申し上げましたが、最近めまいと偏頭痛で体調を崩しているんです」

 

「本当ですか?私には元気に見えますけど」

 

 

鬼頭の言葉に久美は唖然とした。

 

「いいですか、今回のいじめの件ですが、学校内で起こったことではない。学校の外で起こったことです。なので、学校には責任がないんですよ」

 

「そんな、いじめていたのはこの学校の生徒じゃないですか」

 

「確かにそうです。ただ、学校内で暴力などのいじめ行為は確認されていません。生徒から聞き取りをしましたが、そのような報告はありません。だからこの学校には責任がないんですよ」

 

「そんな・・・玲美は今、たった1人で入院して苦しんでいるんですよ」

 

「あのね、いじめに関わった生徒は、他の学校も生徒もあわせて10人ほど確認されています。加害者にも未来があるんですよ。お母さん、10人の未来を潰してもいいと言うんですか?」

 

「玲美の未来は潰れても、教頭先生はいいと言うんですか?」

 

久美は食い下がった。鬼頭の圧力に押されてしまいそうだったが、相手の言っている事は絶対に間違っている。久美もさすがに頭に血が登った。

 

「わからない人ですね。私が言いたいのは、学校には全く責任がないと言うことです。それでも玲美さんのために、私はいじめの追及をしているんです。弁護士をつけるなんてあまりにもひどい」

 

「だから、さっきから私が体調不良で、弁護士さんに対応だけお願いしただけです」

 

「信じられませんね。お母さんは、私にはどうしてほしいと言うんですか?」

 

久美は鬼頭の言葉に涙が溢れだした。玲美は、こんな人間が教頭をやっている学校に通っていたのか・・・。

 

私がどれだけ玲美がいじめを受けていると担任に相談しただろう。こんな人間が教頭なら、あの担任も玲美のいじめなんてどうでもいいと思っていたに違いない。

 

「消してあげてください。玲美の記憶を消してあげてください。今、玲美はいじめの記憶に苦しめられているんです。玲美の記憶を消してあげてください!!」

 

玲美がフラッシュバックに苦しんでいることをこの人間はなんとも思っていない。あの苦しむ姿を、この男に見せつけたい。

 

「お母さん、そんなこと出きるわけないじゃないですか。先ほども体調を崩していると言ってましたよね。頭がおかしくなっているんじゃないですか?病院に行かれたらどうです?」

 

平然と鬼頭は久美に言い放った。

 

「もういいです!!」

 

久美は怒鳴って部屋から出ていった。

 

その姿を鬼頭は笑みを浮かべながら見送った。

 

 

久美は泣きながら車に乗り、すぐに発進させた。あまりに悔しく、屈辱的で涙は次から次へと溢れだした。

 

玲美はいじめの被害者じゃないの?なんで加害者を守ろうとしているのよ!!それに学校には全く責任がないってどういう事?私が何度担任に相談したと思ってるの?

 

玲美はこの学校に責任がないと何度も繰り返す、鬼頭の人間性を疑った。

 

それから久美は玲美のお見舞いに行った。病院に着いても、悔しくて涙が出て来たが、玲美にそんな姿を見せるわけにはいかない。

 

必死で涙を抑えていると、玲美が歩いて久美の方に向かってきた。

 

今日は体調が良いみたいだ。

 

玲美は久美の隣に腰をかけると

 

「お母さん、泣いていたの?」

 

心配そうに久美に話しかけた。

 

「泣いてなんていないわよ」

 

「いや、泣いてたのわかるよ。化粧が目の下崩れてるもん。なにか悲しいことあったの?」

 

玲美に心配させている。そう思ったとたん、久美は泣き出した。

 

そう、小学校までは、玲美は優しく、いつも久美の事を心配してくれる娘だった。

 

久美は泣きながら、先ほど起こったことを玲美に話した。

 

すると玲美は涙を流し、

 

「どうして先生はいじめた方の味方になって、玲美の味方になってくれないの?」

 

悲しそうに言った。久美と玲美を抱きしめ、いつまでも2人で泣いていた。

 

 

「鬼頭君、ちょっと言い過ぎじゃないのか?」

 

大前は鬼頭に向かって言った。学校といじめは無関係だと言うようにと指示したのは校長の大前だった。

 

相手がどのような脅しをかけてくるかわからない、証拠になるかもしれないとボイスレコーダーを相手に秘密にして持たせていた。

 

ボイスレコーダーを聞いた大前は絶句した。ここまで高圧的に言うとは思っていなかった。逆に向こうがボイスレコーダーを持っていたら、裁判になったら不利な証拠になる。

 

こうなったのは予想外だった。向こうには弁護士がついている。今日の事を伝えられたらどうなってしまうのか・・・

 

大前は頭を抱えた。

 

「校長先生、申し訳ありません。私も相手が弁護士を立てて来ていることに腹が立ってしまいまして」

 

大前の状態を見て、さすがにやり過ぎたか、そう考えた鬼頭は頭を下げた。

 

自分の身の保身のためなら、どん底にいる人間ですら容赦なく、傷つけ、罵倒し、もう一段下の底に突き落とす。

 

鬼頭の本性が見えた瞬間でもあった。

 

大前は頭を抱えながら、なにか懐柔策を考えなければ・・・

 

頭の中で思った。

 

 

 

「倉田さんですか?中学校で校長をしております大前と申します」

 

「校長先生ですか?」

 

久美は突然の校長からの電話に驚いた。

 

「昨日は、うちの教頭の鬼頭が大変な失礼を倉田さんに致したそうで、大変申し訳ありません」

 

「はぁ。それで校長先生が何のようですか?」

 

急な校長からの連絡に、玲美は警戒心を持った。

 

「実は、倉田玲美さんの件で、加害者の生徒と保護者を学校に呼びまして、謝罪の会を開かさせていただこうと思いまして」

 

「謝罪の会ですか?」

 

「そうです。まあ、相手の保護者も謝りたいと言っておりましてね」

 

「本当ですか?」

 

「そうです。もちろん、私達の説得もありますが、最終的に倉田さんに謝りたいとお話しされまして」

 

「ただ、最近私体調が悪くて、学校に1人で行くことが難しいんです」

 

「その事は教頭の鬼頭から聴いています。もちろん弁護士同席で構いません」

 

「本当ですか!」

 

昨日は弁護士の事を話しただけで、大声で怒鳴られたのに・・・。この変わり身の早さは何なんだろう。

 

久美は不思議に思ったが、弁護士が同席しても良いというのなら、是非参加させてもらいたいと伝えた。

 

電話を切った後、大前は少しほっとした。

 

昨日の鬼頭の発言に危機感を抱いた大前は、加害者家族に連絡し、謝罪の会を開くように提案した。

 

それを聞いた向井、小林の母親はもう反対した。特に向井七海の母親は、なぜそんなことをしなければならないのか。娘は警察から無罪だといわれている。悪いことなんてしていない。

 

どの口がそんなことを言えるのか、そう不思議になるほど、娘を正当化し、謝罪の会の参加を徹底的に拒否した。

 

しかし、大前は根気強く、説き伏せた。被害者は精神病を患い、入院していること。そのため警察から、顔をあわせて話し合った方が良いといわれていること。

 

七海の母親は、うちの娘は悪くない。悪いのは相手の家庭環境、教育に問題がある。

 

自分の事を棚に上げ、娘を守っていたが、一度は話し合った方がいいと何度も大前が繰り返し話した事で、ようやく相手も折れ、謝罪の会に出席することを承諾した。

 

信じられんほど性格の悪いクソばばあだと、大前は驚いた。

 

対して小林翼の母親は、校長からの電話に驚き、謝罪の会に出席をすぐに承諾した。

 

大前の苦労もあり、なんとか謝罪の会を開くことが可能になったのである。

 

そうすれば例え弁護士が来たとしても、学校側が協力的であることを印象付けすることができる。

 

 

謝罪の会の日になった。

 

父親に紹介された弁護士とは、学校の玄関で落ち合う手はずになっていた。久美が玄関で待っていると

 

「倉田さんですか?」

 

初老の老人に声をかけられた。

 

「弁護士の深沢です」

 

その老人は慇懃な態度で頭を下げた。

 

「倉田久美です。今日はお忙しい中来ていただいてありがとうございます」

 

久美はそう言って頭を下げたが、イメージしていた弁護士とは違い、高齢であまり破棄のない深沢という弁護士に、少し不安を覚えた。

 

学校に入り、いつも通される相談室にはいっていった。

 

しばらくすると、大前校長、その後に向井親子、小林親子の順番で相談室に入ってきた。

 

「それでは、今回の玲美さんの件で話し合いを始めたいと思います」

 

話し合い?謝罪の会じゃないの?

 

久美はそう思ったが、大前は続ける

 

「今回の話し合いについて、録音は一切禁止です。そして、倉田さん側に弁護士が同席ということで、教員は同席しません」

 

「えっ?担任の成沢先生は出てくれないんですか?」

 

「はい、今回は当事者のみで話し合ってください」

 

そう言うと、大前はさっさとこの部屋から出ていってしまった。

 

出ていった途端、七海は足を投げ出し、のけぞって座り直した。

 

この部屋に嫌な沈黙、雰囲気が包み込む。

 

久美は困った。隣にいる弁護士は、全く何も話そうとしない。

 

「今、玲美は精神病院に入院しています。毎日、あなた達にいじめられたことを苦にして、死にたい、死にたいと言っています。玲美をこんな状態まで追い込んで、あなた達はどう思っているんですか?」

 

今まで言いたくても言えなかったことを、相手に聞いてみた。

 

それを聞いた七海は、薄ら笑いを浮かべた。その笑みは、冷たく、人を馬鹿にしているような印象を受けた。

 

「は?証拠でもあるんですか?」

 

悪びれる様子もなく、七海は言い返した。その言葉を聞いて、久美はこの娘は、七海をあんな風に追い込んだことを全く反省していないことがわかり、心の底から怒りが湧いてきた。

 

「今さら証拠があるかってどういう事?玲美のスマホにはあなたから罵倒されている言葉が数々残っているのよ」

 

久美が怒鳴ると

 

「すいません、うちの娘は勘違いされやすいんです。本当は反省しているんですよ」

 

横から七海の母親が口を出してきた。

 

「結果玲美ちゃんは、体調を崩して入院したかも知れないですけど、私達は友達として遊んでいる仲だったんです。どうしてここまでになったか、私も不思議で」

 

七海の言葉に久美は絶句した。友達?不思議?なに言っているの?川に玲美が飛び込んでも笑って助けもしなかったのに。

 

「本当に七海は友達思いで優しい娘なんです」

 

そう言った後、母親と七海は顔を見合わせて笑顔を見せた。

 

とても反省している姿には見えない。

 

翼の方はというと、母親がいるためか、終始下を向き、申し訳ありませんと何度か言った。

 

久美にはその言葉も、母親がいるため仕方なく言っているようにしか聞こえなかった。

 

しばらく、話し合いは続いたが、七海の態度は悪くなるばかりで、その上母親は、優しい娘なのにこんなことするなんて信じられないと同じ言葉を繰り返した。

 

結局、最後まで七海から謝罪の言葉はなかった。

 

年寄り弁護士は、話を聞いているだけで、なにも言わず、全く役に立たなかった。

 

これでは何のためにこんな会を開いたのかわからない。そんな状態で、会は終了した。

 

 

         9

 

謝罪の会のすぐ後に、玲美は退院した。その姿は以前とは比べ物にならないくらいやつれていた。

 

そんな姿をみた久美は、学校の転校を決意する。そして、すぐに加害者と会わないような場所に引っ越した。

 

あんな写真が出回っている学校に娘を行かせるわけにはいかない。

 

玲美は新しい学校に行こうとしなかった。あまりの凄惨ないじめを受けたためか、人と接するのを極端に恐れるようになった。

 

以前のように、外でご飯でも食べようと誘ってみるが

 

「前の学校にいた人に会ったら嫌」

 

そう言って、外に出ることもしなくなってしまった。

 

そして玲美の精神状態だが、全く良くなっていなかった。薬を飲んでいるが、突然

 

「死にたい!!」

 

そう言って、ベランダから飛び降りようとしたり、自分をカッターで傷をつける等、久美が見ていないと、本当に死んでしまうのではないかと心配する毎日を送った。

 

「許してください、許してください」

 

誰もいない部屋の中で、独り言をずっと言っている時もあった。

 

いじめにより、玲美の精神は崩壊していた。

 

久美はそんな玲美を、ただ、抱きしめてあげることしか出来なかった。

 

「辛い目にあったね。でも玲美はなにも悪いことしていないのよ」

 

自分を責め続ける玲美に、優しく語りかけた。

 

なんで何も悪いことをしていない玲美がこんな苦しい思いをしなければならないのか。

 

中学校に入る前の玲美の姿を思い出し、その頃の玲美に戻ってほしい。

 

久美はそう祈るしかなかった。

 

玲美は1日に何度もフラッシュバックに悩まされていた。テレビを見ている時、ご飯を食べている時、寝ようとしている時

 

突然いじめられた時の記憶が鮮明に頭の中を駆けめぐった。

 

ひどい時には、フラッシュバックにより、その場に倒れ込み、全身が痙攣してしまう。そんな激しい発作に襲われることもあった。

 

食事も満足に取れず、どんどん痩せていった。珍しく食事を食べる時は、その後トイレに駆け込み、食べたものを全部吐いてしまった。

 

拒食症も発症していた。

 

いじめは心の殺人。本当にその通りだと久美は思った。このままでは、玲美は本当に死んでしまうかもしれない。

 

そう心配するほど、玲美は日に日にやつれていった。

 

しかし、内服治療の結果なのか、ある日玲美が

 

「高校に行きたい」

 

そう久美に言った。

 

「私看護師さんになりたいの。私と同じ心の病を持った人を助けてあげたい」

 

それを聞いた久美は涙を流しながら

 

「玲美ならできるわよ。玲美は辛い思いをした分、同じような辛い思いをした人の心がわかる。優しい看護師さんになれると思う」

 

そう言って玲美の頭を優しくなでた。

 

 

しかし、運命の日は突然訪れた。

 

玲美の精神状態も以前より落ち着いてきた為、仕事に復帰した。

 

2月13日。雪の降る寒い日だった。

 

玲美は仕事が間に合わず、一旦家に帰り玲美の様子を見てから、また、職場に向かった。

 

誰もいない職場で1人黙々と仕事をしていると、突然スマホが鳴り出した。

 

「はい、倉田です」

 

「警察の者ですが、娘さんが死ぬと言っているという通報がありました。家の前にいるのですが、玄関の鍵も掛かっていて、インターフォンを押しても反応がありません。すぐに家に来てもらえますか?」

 

「なんですって!!すぐ行きます!!」

 

久美はすぐに車に飛び乗った。外は氷点下10度を下回っている。本当に玲美がいないとしたら、大変なことだ。

 

家に着くと、家の回りに数台のパトカーが止まっていた。ただ事ではない雰囲気。どうか玲美が家の中にいますように。

 

そう思いながら玄関のドアを開けた。

 

久美と警察官はすぐに部屋の中に入り、玲美の姿を探した。

 

しかし、玲美の姿は家の中にはなかった。

 

「玲美がいない!!どうしよう!!」

 

久美は半狂乱になって叫んだ。

 

「落ち着いてください。私達が手分けして探します。お母さんは家に残って、玲美さんの帰りを待っていてください」

 

後から聞いた話だが、以前から玲美はインターネットゲームで仲の良い友達がいてその時も、その友人とネットゲームで遊んでいた。

 

するとなんの前触れもなく、私、今から死ぬ。今までありがとう。

 

そう言って全く反応がなくなった。それを心配した相手が警察に連絡してくれたらしい。

 

「玲美、早く帰ってきて。こんな寒い中、外にいたら本当に死んじゃうじゃない」

 

いつも外に着ていく厚手の服や財布が家の中に残されている。

 

スマホに連絡を何度も入れたが、電源が入っていません。何度かけてもその言葉が返ってくるだけ。

 

家に独り残された久美は、玲美が立ち寄りそうな友人の家に連絡した。

 

しかし、誰も玲美の姿をみた人はいなかった。

 

午後9時を回った。玲美はいても立ってもいられず、上着を羽織ると外に出て玲美を探した。

 

「玲美、どこにいるの?」

 

暗い道を走りながら、久美は大声で叫んだ。しかし、玲美の姿はない。

 

外は氷点下10度を下回っている。大声を出すだけで、肺が痛くなってくる。それでも久美は叫び続けた。

 

なんで上着を着て出て行かなかったの?本当に死ぬつもりなの。お母さんはいや、ずっと玲美といたい。

 

どこかにいる。絶対探してあげる。

 

しんしんと降る雪の中、久美は大声で玲美の名前を呼びながら歩き続ける。しかし、その声は雪の中に消えていき、返事をしてくれるものは誰もいなかった。

 

玲美の目撃情報もない。

 

絶対に帰ってきてくれて、ごめんなさい、お母さん。そうなる事になると思っていた。

 

久美は玲美を探し、雪の中をずっと歩き続けた。

 

 

 

参考文献

娘の遺体は凍っていた

文春オンライン特集班

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本はこの小さな女の子の死を風化させては絶対ならない

 

        1  

 

玲美は、父親の顔を知らない。

 

物心ついたときからずっと母親の久美と2人暮らしだった。久美は、その事で心配することもあったが、玲美は明るく、そして優しい女の子に育っていった。

 

一人で玲美を育てることは容易ではなかった。玲美を保育園に預け、朝から晩まで働いていた。そんな母親の苦労を知ってか、玲美はいつも母親の前では笑顔を絶やさない子供だった

 

勉強も普通の子よりできた。いろいろな教科があるが、玲美は絵を描くのが好きな子だった。

 

友達を多く作り、みんなと遊ぶよりも、一人で静かに絵を描いたりする方が、玲美の性格にあっていた。

 

家に一人でいることが多い玲美を、母親は心配することもあったが、学校を休むことなく通っていたし、家ではいつも元気だったため、特に行動を起こすことはなかった。

 

母親は仕事で疲れてはいたが、休みの日はいつも2人で、仲良く買い物や遊びに出掛けた。

 

周りから見ると、仲のいい親子、姉妹のように映っていたかもしれない。

 

母親にとって玲美はかけがえのない、たった一つの宝物だった

 

すくすくと6年生まで成長し、卒業式を迎えた。玲美は、校長先生から名前を呼ばれると

 

「はい!!」

 

大きな声を出して壇上に上がり、卒業証書を受け取った。その堂々とした姿に、久美は小さかった頃の玲美を思いだし、ひとり親なのに、よくこんなに立派に育ってくれた。そう感激し、流れ出る涙をハンカチで押さえた。

 

卒業式の日が終わった後、久美は玲美に

 

「卒業式終わったから、美味しいものでも食べに行かない?」

 

そういうと玲美は

 

「焼き肉食べたい」

 

笑顔で答えた。

 

久美はその笑顔を見て、今日は卒業式だし、少し奮発して、いい焼き肉屋を予約した。そして、同じ席で向かい合い、これからの事を話した。

 

「これからは中学生ね、今はどんな気分?」

 

「不安の方が多いかな。だってクラスが全く変わっちゃうでしょ、せっかく仲良くなった人とも別れちゃうし、あんまり新しい人と仲良くなるの苦手なんだよね、私」

 

「玲美ならすぐ友達できるわよ。」

 

玲美は恥ずかしがり屋で人見知り、そんな傾向のある子供だった。あまり友人を家に連れてくる事はなく、運動音痴で、大勢の人と話すのを苦手としていた。

 

「玲美は将来なりたいものってあるの?」

 

「看護師さんになりたい」

 

恥ずかしそうに答えた。

 

「なんで?」

 

「病気になって苦しんでいる人に、優しい言葉をかけて、元気になってほしいから」

 

「偉いわね。頑張って勉強して、立派な看護師さんになれるといいわね、玲美の笑顔なら、苦しんでいる人も笑顔になれるわ」

 

「うん」

 

小さかったこの子が、こんな優しい夢をもつなんて。優しい子に育って良かった。

 

久美はその夢を絶対叶えてあげよう。そう誓った。

 

時が過ぎるのは早い。卒業式が終わり、あっという間に入学式の前日になった。

 

「お母さん、どう、似合う?」

 

「よく似合うわよ」

 

初めて中学校の制服に袖を通し、恥ずかしそうにしている玲美に、久美は笑顔で言った。

 

「写真館に行って、写真を撮ってもらうわよ」

 

「え~。やだ、恥ずかしいよ」

 

「七五三の時も撮ったでしょ。こんなおめでたい日なのに、写真を撮らないわけにはいかないわよ。」

 

久美は玲美の手を引いて、いつもの写真館に向かった。

 

「玲美ちゃん、もう中学生になるのか。時間の経つのは早いねえ」

 

昔からやっている写真館。店主は玲美の事を覚えている様子で、もの懐かしさを感じながら、写真を撮る準備をした。

 

「はい、撮ります。はい、チーズ」

 

2人は素敵な笑顔で写真に収まった。

 

次の日の天気は晴天だった。2人並んで歩いて中学校に向かった。最近はお父さんも一緒に来ている生徒も多く、久美はそっと玲美の顔を見たが、本人はさほど気にしていない様子だった。

 

「緊張して、胸が張り裂けそう」

 

「そんなに緊張することなんてないわよ。これから毎日通わなくちゃいけないんだから」

 

中学校は、家から歩いて15分程のところにある、全校生徒が500人はどの中規模な中学校。

 

他の生徒と共に、2人は校舎の中に入っていった。歴史ある中学校のためか、少し薄暗く感じた。

 

教室は1年2組。玲美はその扉をゆっくりと開けた。その中には同じクラスの生徒が、もう半分以上入って席に座っていた。

 

小学校から知った顔もあったが、残念ながら同じクラスの生徒はいない。

 

玲美は前から3番目の席に座った。

 

久美は後ろから、その様子を見つめる。小さかったあの娘が、もう中学生なんて。

 

玲美が子供の頃を思い出して、涙が出そうなのをぐっとこらえた。

 

10分後、若い女性が入ってきた。玲美の担任の先生になる人だろう。

 

「初めまして、これからみなさんの担任となる成沢といいます。これからよろしくお願いします」

 

「これからの日程について説明していきます。これから、簡単な自己紹介の後、荷物を整理してもらったら、卒業式のため、体育館に行きます。それまでに10分ほどしかありませんので、きびきび行動してください」

 

成沢という先生は無表情で、全員に言った。

 

感情がなく、人間味に欠ける。ロボットのような人だ。

 

玲美はそう感じた。一人ずつ名前だけ紹介すると、荷物を整理しすぐに教室を出た。

 

入学式が始めると、1年2組の列の後ろの方に玲美の姿があった。その姿は緊張していたが、心配していたより堂々とした様子だった。

 

これからの中学校生活で、玲美にいいお友達ができて、楽しい学校生活が送れますように

 

久美は心の中で祈った。

 

中学生活が始まった。玲美は部活には入ろうとしなかった。もともと運動が苦手なので、運動部は興味がなく、文科系の部活も入らなかった。

 

「玲美は絵が上手いから、美術部に入ったら?」

 

「お母さん、そんな部活ないんだよ」

 

玲美は残念そうに言った。恥ずかしがりやなので、合唱部も嫌だし、演劇部なんて絶対無理だろう。

 

久美はその事は心配したが、玲美は中学校での生活は、久美が仕事から帰ってくると、楽しそうに話した。

 

まだ始まったばかりだが、順調に学校生活はいっているらしい

 

「ただ、担任の先生がなんか嫌なんだよね。他の人も言っているけど」

 

「なにが嫌なの?」

 

「なんか、授業が分かりにくいし、教え方が悪いっていうか。あんまり表情かないからみんな幽霊みたいって言ってる」

 

「先生に向かって悪いこと言わないの」

 

久美は玲美をたしなめたが、実は久美もこの先生大丈夫かな、そう思うところはあった。

 

若いように見えるが、覇気がない。年齢不詳。知り合いの同じ中学に通う母親から聞いた話では、前回担当したクラスは、誰も成沢先生の言うことを聞かず、学級崩壊の状態だったという。

 

それでも、玲美が元気に通ってくれればそれでいい。

 

学校で起こったことを、楽しそうに話す玲美を久美は安心した心境で聞いていた。

 

        2

 

玲美は学校から帰ると、いい天気の時は近くの公園で本を読んだり、携帯のゲームをしながら時間を潰していた。

 

母親の久美は、玲美が中学生になって、少しでも収入を増やそうと、職場で働く時間を2時間ほど伸ばした。

 

パートという不安定な立場から、正社員となり、働くことを決意したからだった。

 

玲美も中学生、これからお金が沢山かかる年齢になってくる。正社員になればボーナスも出るし、以前より給料は上がる。

 

そのため、部活に入っていない玲美は、学校の授業が終わるとすぐ家に帰る。帰っても家には誰もいない。

 

玲美は一人で家にいるより、公園で時々一人で過ごすことにした。4月の夕方の空気はまだ肌寒い日もあるが、厳しい冬が終わり、暖かい春が来ることを、日に日に実感できる。

 

特に4月の下旬近くになると、外の空気が心地よく感じる事が多くなった。

 

いつものように、公園のベンチに腰を掛け、最近買った小説を読み始めた。その小説の内容は恋愛物語で、もうすぐ主人公が優しい男の子と付き合える。

 

玲美が胸を高鳴らせ読んでいると

 

「なに読んでんの、あなた1年生?」

 

突然声を掛けられた。玲美は驚いて上を見上げると、髪の毛を金髪に染めた同じ制服を着た女の子が立っていた。

 

金髪で、怖そうな女に声を掛けられた為、玲美は驚いて上を向いたまま声を出せずにいた。

 

「怖がらなくてもいいのよ。よく一人で公園のベンチにいるから、なにしてるのか、声をかけただけよ」

 

そう言ってその女の子は笑った。その表情を見て、玲美は少し安心し、

 

「本を読んでいるんです」

 

そう答えた。

 

「どんな内容なの?」

 

「えっと・・・恋愛小説です」

 

玲美は人付き合いがあまり得意ではない。特に外見が怖そうな年上の人と、どのように話したらいいかわからず、頭の中はパニックになっていた。

 

「そうなんだ、いつも一人なのね」

 

「そ、そうなんです。まだ学校に入ったばかりだから友達もいなくて・・・」

 

玲美の表情を見た金髪の女の子はニヤリと笑った。

 

「私の名前は、向井七海。3年3組。よろしくね。あなたは名前なんていうの?」

 

「玲美です。倉田玲美と言います。1年2組です」

 

「友達いないんだったら、私が友達になってあげる」

 

玲美は驚いた。友達は欲しかったが、こんな金髪の怖そうな年上の人と、友達になりたいとは思わない。

 

しかし、断るわけにはいかない。

 

「ありがとう」

 

ひきつった笑顔でそう答えた。

 

「ラインの交換しよう。そうすればいつでも連絡取れるし」

 

「ラインですか。わかりました」

 

断るわけにもいかず、玲美はスマホを取り出し、七海とラインの交換をした。

 

すると七海は、玲美の隣に腰掛けた。玲美は話すことが見つからず、頭の中は真っ白になっていた。

 

「暖かくなってきたね」

 

「そうですね」

 

「部活に入らないの?」

 

「運動が・・・苦手で」

 

「そうなんだ。私もそうなんだよ。なんで疲れることしなきゃいけないのか、わかんないんだよね」

 

七海は積極的に、玲美に話しかけてきた。中学生だというのに、ひどい匂いの香水をつけている。

 

早くこの場から立ち去りたかった。

 

しかし玲美にはそれができない。玲美でなくても、この状態から逃げることができる女の子はそうはいない。

 

「ちょっとその本見せて」

 

七海はそう言って玲美から本を取り上げ、パラパラと本をめくり出した。

 

「くだらなさそうな内容ね。しかも小説読むって。漫画の方が面白いじゃない」

 

「そうですよね・・・」

 

玲美はイラっとしたが、顔には出さず、七海の顔を見た。

 

しっかり顔を見ると、化粧も濃くしてあり、中学生とは思えない。笑っているようだが、目の奥が笑っていない。笑顔が怖く感じる。

 

絶対この人、性格悪い。

 

玲美は恐怖すら覚えた。

 

「こんなところで、一人でいるより、楽しい場所あるから、今度行こうよ」

 

「えっ、そ、そうですね」

 

困った展開になってしまった。こんな人と一緒にいるくらいなら、一人でいた方がよほどいい。

 

「おい、七海。こんなところでなにしてんだよ」

 

不意に男の声がした。声のする側を見ると、七海と同じような金髪の男が立っていた。

 

「ああ、翼。この子今日から私の友達なの。玲美ちゃんっていうのよ」

 

「そうなの、かわいいじゃん。俺とも友達になってよ」

 

その言葉に玲美は恐怖を覚えた。相手はどう見ても不良生徒。友達になっても、何一ついいことはない事は察しがついた。

 

しかし、相手は同じ学校の先輩。3年生。中学校に入ったばかりの玲美に、拒否をするという選択肢はないも同然だった。

 

中学校の3年生と1年生は、立場が全く違う。例えば自衛隊の上司と部下の関係のように、言われたことは絶対、拒否などしたらなにをされるかわからない。その関係に似ている。

 

「いいですよ・・・」

 

玲美が答えると、翼は七海と同じようなニヤリとした表情をした。

 

「じゃあ、ラインの交換をしようよ」

 

「わかりました」

 

本当に嫌だったが、この2人に囲まれ、恐怖に怯えていた玲美は、スマホを翼に渡した。

 

ラインの交換を終えると、辺りに雨が降りだした。玲美はチャンスだと思い

 

「雨が降ってきたので帰ります。家に洗濯物が干してあって、取り込まなければならないんです」

 

「そんなの親にやってもらえばいいじゃん」

 

「お母さん、仕事でいないので、家に誰もいないの。だから私が取り込まないと」

 

「そうなの、残念ね。じゃあまた」

 

「はい、失礼します」

 

洗濯物など外に干していなかったが、玲美はこのままではヤバイと、とっさに嘘をつき、その場を離れた。

 

走って家に帰る玲美を、2人はニヤニヤした表情で見つめていた。

 

玲美は家に帰ると、すぐに玄関の鍵を掛けた。そして、自分の部屋に閉じこもった。後悔が自分を襲ってくる。なんであんな人達とラインを交換してしまったのだろう。呼び出されたらどうしたらいいのか・・・

 

玲美は同じ年齢の、性格が大人しい、つまり玲美と同じような性格の友達が欲しかった。髪の毛を染めた、外見が怖そうな上級生とは、出来るだけ関わりを持ちたくなかった。

 

これから何度も呼び出されるのではないか。母親のいない家の中で独り、恐怖に怯えていた。

 

「雨降ってきたから帰る?」

 

「いや、ゲーセンでもいかない?」

 

「そうだな、暇だし」

 

七海と翼は、雨が降り、辺りが暗くなっても家には帰ろうとしなかった。中学生だというのに。

 

向井七海。玲美と同じ中学校の3年生。玲美が予想した通り、学校では問題児として、広く教師から認識されていた。

 

弱いものいじめがひどく、同じクラスの子以外でも気に入らない子供がいると、陰湿ないじめをする。

 

とにかく性格がきつく、同級生はみんな七海の存在を恐れている

 

中学2年の時から、学校をさぼり始め、最近では全く欠席することが多くなった。不良と思われる良くない仲間と一緒にいるところを、何度か同級生に目撃されている。

 

なぜ七海は、不良になってしまったという理由は1つ。頭が悪く、学校の授業についていけなかったからだ。

 

もともと勉強嫌いではあったが、中学になると、学習する内容のレベルは一段と上がる。他の生徒が普通についていっているのに、七海はついていけなかった。

 

本来ならこのような状態では、七海が馬鹿にされるのだが、その状況を本来の性格の悪さ、虚栄心で他の生徒を恐れさせ、今に至る。

 

時々学校をさぼるため、担任の先生も心配し、何度か自宅を訪れ、母親と交えて話をしたが、七海の母親は、七海より性格が悪い。七海がこんな風になったのは学校のせいだ。そう担任を怒鳴り付けた。

 

七海から、学校に行かないのは他の生徒にいやがらせをされるから。

 

そんな言い訳を本気に信じ込む、バカ親だった。自分の性格と娘の性格をしっかり認識すれば、普通の親なら娘が悪いと判断するはずだが、それができない。

 

時々学校にありもしない七海の言うことを信じ、怒鳴り込んでくる、モンスターペアレントだった。

 

学年全体の教師が悩む。そんな生徒だった。

 

小林翼。玲美と同じ学校の3年生。七海と同学年で同じように問題のある生徒だ。

 

子供の頃から、強い者には従い、弱い者をいじめる。小学校から同級生から煙たがられていた。

 

なぜ翼という名前なのかというと、父親が好きな漫画の主人公から付けられた。

 

翼はこの名前が大嫌いだった。顔はかっこよくないし、運動音痴。中学に入った時、翼という名前だけで、サッカー部に入らされることがあった。しかし、1年生の中で、ダントツにサッカーが下手くそで、上級生にからかわれ、1ヶ月も経たないうちに退部した。

 

努力せず、根性もない人間だった。

 

ただ、強い者の懐に入るのは天性の才能があった。1年生ながら、不良の3年生と仲良くなり、よく遊んでいた。

 

ほとんどパシリのような存在だったが、3年生は、翼を仲間に入れてくれた。

 

パシリとはいえ、上級生と仲良くしているため、中学1年のクラスでは、恐れられる存在だった。

 

この頃から、髪の毛を染め、制服をだらしなく着こなすなど、悪行が目立つようになる。

 

しかし、小学校からの知り合いは、強い者にヘコヘコする姿を知っているため、影でスネ夫と呼び、馬鹿にし、嫌っていた。

 

中学3年になると、上の人間がいないため、学校での態度が大きくなった。ただ、誰も翼を慕うものはいなかった。

 

ただ、七海だけが翼と性格が合い、よく一緒にいるようになった。こんな人間に、玲美は運悪く、目をつけられてしまったのだった。

 

 

「ただいま」

 

母親の久美が自宅に帰ってきた。

 

あれ、おかしいな。いつもなら、ただいまと言った途端、玄関まで玲美が笑顔で出迎えに来てくれるのに・・・

 

久美は玲美の部屋を覗いた。すると椅子に腰掛けながら、ぼ~としている玲美の姿があった。

 

学校で、なにかあったわね。母親の勘が働く。

 

「ただいま」

 

部屋に入り玲美の近くで言うと、玲美は驚いた様子で振り返った。

 

「お帰り、帰ってきたの気づかなかった。ごめんなさい」

 

「いいのよ。なにか嫌なことでもあったの?部屋の中で独り考え事をしていたみたいだけど」

 

「いや、なんにもないよ」

 

玲美は無理に笑顔を作る。その笑顔がぎこちなく、久美はなにか悩んでいる事があるなと思った。

 

小学校の時からそう。玲美は悩みがあると、すぐに元気をなくし部屋に閉じこもってしまう。

 

久美は夕御飯を作り、玲美呼んだ。すると覇気のない顔で、玲美は部屋から出てきた。

 

夕食の時間、昨日までの玲美は、ご飯を食べながら今日学校で起こった事を、久美に対して話すのが日課だった。

 

しかし、玲美はなにも言わず、夕御飯を下を向きながら食べていて、顔も合わせようとしない。

 

「学校で嫌なことでもあったの?お母さんに話してみて」

 

「いや、なんにもないよ。今日はちょっと疲れているだけ」

 

小学校の時と変わらない。自分の悩みを人に言うことがない子だった。その時は心配するが、2、3日すると元気になる。

 

久美は今回もそんな感じなのかな。

 

そう思った。ご飯も全部食べたし、様子を見ることにしよう。

 

当の久美も最近疲れきっていた。パートから正社員になったが、今までの仕事とは比べ物にならないくらい、質、量が増えていた。

 

今度は管理する側。今まで同僚だったパートの人やお客様に気を遣い、神経をすり減らす毎日だった。

 

仕事は午後6時まで。しかし最近はその時間では間に合わず、家に帰る時間も遅くなり始めていた。

 

暗い顔の玲美を見て、明日は早く帰らないといけないと思った。

 

次の日、玲美はいつものように学校に向かった。登校中、あの2人には絶対に会いませんように・・・

 

それだけを祈っていた。

 

学校につき、授業が始まる。幸運にもあの2人とは顔を会わせることはなかった。

 

学校ご終わると、すぐに家に帰った。

 

よかった・・・。

 

あんな怖い人にまた話しかけられたらどうしたらいいんだろう。その事ばかり昨日の夜考えていて、不安であまり寝付けなかった。

 

もう、あの公園には行かない。

 

そう思った時、ラインの着信音がなった。玲美の背筋に寒気が走る。

 

画面を見ると、七海という文字が映っている。

 

今、昨日の公園にいるんだけど、出てこれない?翼もいるよ。

 

この文章を読んだ時、玲美は心底怖くなった。しかしスルーするわけにもいかない。

 

今日は塾なんて無理です。ごめんなさい。

 

とっさに、嘘で返すと

 

塾なんていってんじゃねーよ。ふざけんな、そんなのさぼって出てこい

 

明らかに怒った感じの返信がきた。

 

そのラインの文字を見たとき、玲美は恐怖に震えた。昨日は優しく話しかけてくれたが、急に脅迫してきた。昨日笑顔でも目が笑っていない表情を見て、玲美はこの人絶対性格悪いと思ったが…その通りのような気がする。

 

どうしよう・・・

 

心の底から行きたくなかったが、相手は学校の先輩。しかも不良生徒だ。断ったりしたら次に会った時、なにをされるかわからない。

 

わかりました。今から行きます。

 

そうラインに打ち込み、震えながら送信ボタンを押した。

 

そして、走っていつもの公園に向かった。

 

公園につくと、昨日と同じベンチに腰掛けていた。遠目に見ても、2人とも機嫌が悪いのがわかる。

 

玲美はビクビクしながら近づいて行くと、2人は玲美を見つけ

 

「ちゃんと来たじゃん」

 

少し笑みを浮かべた。しかし目は笑っていない。その目を見て、玲美は恐怖で動けなくなった。

 

「なんか、用事でもあるんですか?」

 

「いや、俺たち友達じゃん。暇だから一緒に遊ぼうと思ってさ」

 

翼はそう言ったが、玲美は友達という言葉に寒気が走った。

 

こんな人と、友達になりたくない。

 

すぐに逃げ出したかったが、相手は先輩。どうすることも出来ない。怖くて泣きそうになるのをこらえる。

 

「ちょっとコンビニに行こうよ」

 

「コンビニですか?」

 

「ここじゃあ子供が多くてうるせえし」

 

確かにこの2人はこの公園には場違いだ。ただコンビニに行ってなにするんだろう?

 

歩きだした2人の後ろを、玲美はついて行くしかなかった。

 

コンビニにつくと、2人は中に入り、アイスやジュースなどをかごに入れ、会計を済ませると、コンビニの裏側へと歩いていった。

 

玲美もついていくと

 

「はい、これ飲んで」

 

意外にも七海が先ほど買ったコーラを玲美に渡した。

 

「いや、おごってもらうの悪いんで、自分で買ってきます」

 

「いいんだよ、塾だっていうのに、急に呼び出しちゃったんだから、飲みな」

 

そう言うと、もっと玲美の方にコーラを近づけたので、玲美は仕方なく受け取った。ただ、玲美はコーラの炭酸が苦手で、あまり好きではなかった。

 

その後は翼と七海がずっとしゃべっているのを、ただ聞いていた。

 

今日学校で会わなくてよかったと思っていたが、2人は学校をさぼっていたため、会わなかっただけだった。

 

コンビニの客が、3人を冷たい目で見て通りすぎていく。誰かに助けて欲しかったが、視線を向けるだけで、話しかけてくる大人は一人もいなかった。

 

2人の会話の中で、学校で気に入らない人がいて、その人をいじめて学校に来ることが出来ないようにしたことを、武勇伝のように語る翼には、本当に嫌悪と恐怖を感じた。

 

しばらくすると突然七海が

 

「そろそろ帰ろう」

 

そう言って立ち上がった。翼も後に続く。

 

助かった・・・。

 

なんでも、七海はこれから高校生の彼氏とデートの約束があるらしい。

 

だったら呼ばないで欲しいと玲美は思ったが、時間潰しの相手をさせられてしまったらしい。

 

ただ、この2人に、呼ばれたらどんなことがあっても来る。そういう認識を持たせてしまったことは、これからの玲美の学校生活で、大きな影を落とすことになる。

 

「ただいま」

 

久美は山ほどある仕事を必死の思いで片付け、急いで家に帰り、玄関のドアを開けた。昨日の玲美の元気のない姿が心配で、仕事を定時で終わらせ帰ってきたのだ。

 

しかし、玲美は昨日同様、母親を玄関まで出迎える事はなかった。

 

玲美の部屋に行くと、独り椅子に座り、ボーとしている。昨日と同じく元気がない。

 

「今日も元気のない顔して、どうしたの」

 

久美は出来るだけ優しく声をかけた。その声に玲美は

 

「なんでもないよ。少し考え事をしていただけ」

 

無理に笑顔を作って答えた。

 

やはり昨日からおかしい・・・

 

母親の勘が働く。

 

「学校でなにかあったの?お母さんに話してごらん」

 

「なんにもないよ。大丈夫。それよりお腹空いた。ご飯食べたい」

 

玲美がそう言ったので、久美は仕方なくご飯を作り始めた。

 

母が部屋から出ていくと、玲美は大きなため息をついた。これからどうなっちゃうんだろう。そんな不安が頭の中を覆い尽くした。

 

でもお母さんに心配かけてはいけない

 

玲美は母親が仕事で正社員となり、大変な立場であるということを理解していた。心配させないためにも、お母さんの前では、元気に振る舞わないとだめだ。

 

そう心に決めた。

 

今日の夕食は母親手作りのオムライスだった。玲美は母の作るオムライスが大好物だった。

 

「嬉しい。オムライスだ」

 

そう言った後椅子に腰掛け、オムライスを食べ始めた。

 

「おいしい」

 

笑顔で、次々とオムライスを口に運んだ。

 

しかし、玲美は明日の事が不安で、食欲など全くなかった。しかし、お母さんに心配をかけたくない。その一心でオムライスを食べる。

 

ご飯を美味しそうに食べる玲美の姿を見て、母親の久美は少し安心した。玲美は人と上手く接することが難しい性格なのは自分が一番よくわかっている。

 

学校で上手く友達と接することが出来ないで悩んでいるのではないか、そう心配したが、今日の様子を見れば、取り越し苦労だったのかもしれない。

 

少し安堵の気持ちが身体を覆った。

 

 

次の日、小林翼は不機嫌の絶頂にいた。

 

学校をさぼり続けていることを担任から親にばらされ、2時間以上こんこんと怒られた。父親にはふざけんなと殴られ、これはまずいと学校に行く決意をした。

 

しかし、学校に行ってみれば、クラスメイトは、なんでいるんだこいつ。そんな視線を翼に向ける。

 

4月になり、先輩も卒業してしまい、翼と付き合う人間は全くいなかった。周りの人間は、強い者に従い、弱い者をいじめるという翼の最低な性格を知っていたため、来た途端迷惑そうな態度を、翼にわかるように行った。

 

金髪にして虚勢を張ってみたが、翼は喧嘩も弱く、気も小さい事は見抜かれていた。

 

そして、驚いたことに、勉強の内容も格段に上がっていた。

 

翼は頭が悪かった。なんとか勉強してようやくクラスで下から5番目。そんな人間だったが、3年生になってから、学校をさぼり始めた結果、授業で言われていることが全く理解出来ない。

 

気がつけばそんな状態になっていた。

 

翼は驚き、焦りを抱いた。翼に勉強を教えてくれるクラスメイトは思い当たらない。この状況に耐えきれず、またサボろうかと思ったが、また学校から家に電話されたらかなわない。

 

2年生まで、先輩の後ろに隠れながら、でかい態度をしていた翼に、友達などいるはずもなかった。

 

国語、数学、日本史と授業は続いていくが、翼は全くついていけない。

 

もうこんなに授業の内容は進んでいたのか・・・

 

当たり前の話だが、翼はここまでやばい状態になっていることを初めて理解した。

 

しかし、翼はなんとか1日の授業を終わらせ、家に帰ってきた。

 

今日1日起こったことが、翼の脳裏に浮かんだ。勉強についていけない事も、もちろん浮かんだが、久しぶりに登校してみて、周りの人間の態度の変化は、翼をイラつかせるには十分だった。

 

2年までは、廊下を肩で風を切るようにして歩いていた。

 

周りの人間は、自分と目が合うと恐れてすぐ目をそらした。

 

そんな毎日が当たり前だった。

 

しかし、今日は全く違った。うぜえのが来たよ。そんな表情を露骨に見せるクラスメイトもいたし、休憩時間には、全く存在しないような態度を取られてしまった。

 

翼に恐ろしいほどの屈辱が襲いかかってきた。かといって、クラスメイトと喧嘩する勇気もない。虎の威を借る狐だったが、虎がいなくなった途端、ただの狐になってしまった事を、翼は受け入れることが出来なかった。

 

スマホを取り出し、先輩にラインを送信してみる。しかし、全く反応がない。既読スルーばかりだ。

 

誰も、俺の相手をしてくれる人間がいない。翼が絶望に落ちかけた時

 

倉田玲美

 

ラインの中に、まだ翼の言うことを聞いてくれそうな名前を見つけた。

 

 

         3

 

玲美は家の中で不安に襲われていた。今日も七海先輩から、連絡が来たらどうしよう・・・。

 

何度もスマホをチェックしていた。時間はもうすぐ午後6時になろうとしていた。外も暗くなり始めている。

 

今日は先輩からなにも連絡が無さそうだ。

 

玲美が安心した時、スマホがブルブル震えた。音が出ないよう、バイブにしていた。

 

その音に玲美は震えた。そっと画面を覗き込むと、小林翼という文字が出ている

 

玲美の全身が震え出す。こんな時間に、また出てこいとでも言うのだろうか?

 

ラインの内容を恐る恐るチェックしてみる

 

玲美ちゃん、ひま?少し話があるんだけど

 

画面に写し出された文字を見て、玲美は恐怖を覚える。

 

話ってなんですか?もうこんな時間なんで、先輩のところに行くことはできません。

 

玲美は震えながら送信した。どうか返信は来ないように。玲美は祈ったが、その祈りは通じなかった。

 

別に今から遊ぼうってわけじゃないんだよ。明日俺と遊ばない?

 

玲美はその文字を見て、どうしようか考えた。もうこんな先輩と縁を切りたい。不安な毎日から解放されたい。

 

明日は塾なので無理です。

 

勇気を出して送信した。

 

じゃあ明後日は?

 

向こうもしつこく玲美を誘ってきた。

 

どうしよう。誘いに乗ったら、また以前のように急に呼び出されたりするかもしれない。先輩は金髪だし、明らかに不良。玲美は怖くて、この先輩に会いたくない。

 

明後日は友達と遊ぶ予定があるので、無理です。

 

玲美が送ると、すぐに

 

じゃあ次の日は?

 

翼から返信が来た。

 

なんなのこの人、しつこいにも程がある。玲美は恐怖と気持ち悪さで、さらに全身が震えた。

 

ちょっと、予定があって無理です。

 

もう勘弁して・・・。そう思いながら送信すると

 

てめえ、ふざけてんのか!!予定なんてねえんだろ!!なめてんじゃねーぞ!!!

 

翼から怒りに満ちた返信が帰ってきた。これを見た瞬間、玲美は泣きたくなるくらいの恐怖にかられた。

 

怒らせるつもりは全くなかったのに、どうしたらいいんだろう。頭の中が真っ白になり、全く動けないでいると

 

おい、無視すんなよ。これ以上イライラさせんじゃねえよ!!俺はおめえを学校に来させないようにすることなんて簡単なんだからな!!

 

本当は学校に来れなくなりそうなのは、小林翼の方なのだが、玲美にはその辺の事情は全くわからない。ただ、ただ恐怖でしかない。

 

ごめんなさい。許してください。無視しているわけでもありません。許してください。

 

玲美は慌てて送信する。しかし、翼からは

 

いや、許さねえ。マジで頭に来た。明日学校に来たら、おめえのところに友達連れて会いに行く。

 

小林翼に友達なんていない。しかし、そんなことはわからない玲美は、恐怖で涙がこぼれてきた。

 

先輩、許してください。本当にごめんなさい

 

絶対に許さねえ。俺を怒らせたらどうなるか、ひどい目にあわせてやる。

 

どうしたら許してくれますか?

 

玲美は泣きながら、ラインを送信した。

 

しばらくすると、翼から返信があった。そこには、目を疑うような言葉が並んでいた。

 

「裸の写真を送れ。そしたら許してやる」

 

玲美はそんなこと出来るはずがないと送ったが、翼は

 

送らねえんだったら、友達とお前の家に乗り込んでやる。お前の家はわかってるんだからな。

 

信じられないこの人、どうしたらいいの?翼という先輩の気持ち悪さに震え、涙があふれ出てくる。

 

本当に嫌です。他に許してくれる方法はありませんか?

 

藁にもすがるような思いで、玲美は送信した。翼の顔が頭に浮かぶ。金髪で柄が悪く、身長も玲美よりずっと高い。そんな相手に逆らうことが怖くて出来るはずがない。

 

いいから送れよ。そしたら許してやる。

 

それだけは嫌。本当に許してください。

 

いや、許さねえ。俺はマジで頭に来てるんだ。

 

なんでこんなことに・・・。玲美は何度も拒否するが、翼の怒りは治まる様子がない。その怒りが怖くて仕方がない。やりとりを10分以上続けたが、火に油を注ぐ結果となっている。

 

お前に家に怒鳴りこんでいくぞ!!

 

この言葉に玲美はもうだめだ、そう思った。家に来たらお母さんに迷惑をかけてしまう。

 

送ったら、本当に許してくれますか?

 

とうとう観念して送ってしまった。

 

送ったら許してやるよ。

 

その返信に泣きながら上着のボタンを1つづつはずし始めた。そして、Yシャツを脱ぐと、下に着ているシャツも脱いだ。

 

辛さで涙が止まらなかった。しかし、スマホを自分に向けると

 

パシャリ

 

写真を撮って、ラインで送った。屈辱と悲しみで、気が狂いそうになった。そして、自分の行ったことの重大さを感じ、絶望感が玲美を包んだ。

 

「ただいま」

 

それから30分ほどして、母親の久美が帰ってきた。呆然としていた玲美はその声を聞き、玄関まで迎えに出た。

 

先程の出来事を母親に相談しようと思った。しかし、なんでそんなことしたの?そう怒られるかもしれない。そう思うと、母親に相談できず、

 

「お帰り、お母さん」

 

そう言って、無理に笑顔を作った。

 

次の日、玲美は悲愴感に包まれながら学校へと向かった。なんであんなことを・・・。自分を責め、眠ることが出来なかった。

 

もし、翼先輩にあったらどうしてらいいのか。そればかり考えていた。

 

学校の授業もほとんど頭の中に入ってこない。後悔と恥ずかしさで、この場から逃げたかった。

 

昼休みが始まり、給食を食べ終えた後、意外な人物が玲美の前に現れた。

 

向井七海である。

 

七海は教室の窓から玲美をこっちに来て、そう手でジェスチャーをした。玲美はは席を立ち上がり、七海がいる廊下へと進んだ。

 

七海は誰もいないところまで、玲美を連れていくと

 

「あんた、なんてあんなことやったの?」

 

怒った様子で話しかけた。

 

「なんの事ですか?」

 

「裸の写真、翼に送ったでしょ」

 

「え!!」

 

玲美は絶句した。確かに昨日翼先輩に裸の写真を送った。でもなぜ七海先輩がその事を知っているのか・・・。

 

「翼のバカ、友達にその写真送ってるわよ」

 

七海の言葉に、玲美は強いショックを受けた。あの写真をばらまかれたら、この学校では生きていけない。

 

「女子は気持ち悪いってみんな言ってるけど、男子は盛り上がってるわよ」

 

「本当ですか?」

 

「本当よ、こんなこと嘘つくわけないじゃない」

 

「どうしよう。みんなに見られたら、私生きていけない」

 

「大丈夫よ。私がなんとかしてあげる」

 

「本当ですか。先輩、お願いします」

 

玲美は頭を下げた。この状態になったら頼れるのは七海先輩しかいない。

 

「今回の事はひどすぎるし、なんとか力になってあげる」

 

そう言って七海は3年の教室に戻っていった。

 

しかし、七海は力になるつもりは全くなかった。ただこの事実を玲美に伝え、どのような反応を示すか、その表情を見て楽しみたかっただけだったのだ

 

教室への帰り道、七海は玲美のショックを受けた顔を思いだし、声を出して笑った。

 

玲美はその後、不安と絶望感が身体を覆いつくした。おもいっきり泣きたかった。だが、教室の中で突然泣き出すわけにはいかない。

 

ぐっと耐えて、早く授業の時間が終わるのを待った。

 

放課後、男子校生と目が合うと、全身が震えた。もしかしたらあの写真を見たのではないか?

 

そんな思いが頭の中を駆け巡り、下を向きながら家に帰る道を急いだ。

 

家に帰ると、玲美は独り部屋の中で泣いた。今までに無いくらいの大きな声

 

なんでこんなことになるのよ!!私がなにか悪いことしたの!!

 

翼のあまりにひどい行動に、屈辱、怒り、憎しみが爆発した。翼の笑っている顔が頭の中に浮かんでくる。

 

玲美は部屋にあるクッション、ぬいぐるみを手当たり次第に壁に投げつけた。

 

許せない。

 

そう思うが、相手は上級生。しかも玲美よりずっと身体が大きい。思いきり、ひっぱたきたい気持ちになるが、力の弱い玲美ではどうしようも出来ない。

 

今頃あの写真はどのくらい広がっているのだろうか。全く予想が出来ない事が玲美を苦しめる。

 

誰か助けて!!

 

玲美はベッドにうつ伏せになり、泣き続けた。

 

「ただいま」

 

久美は仕事を終えて帰宅した。

 

しかし、玲美の姿はない。嫌な予感がした。久美は恐る恐る玲美の部屋のドアを開けた。すると目の前に、驚きの光景が広がっていた。

 

 

部屋の中はぐちゃぐちゃで、クッションやぬいぐるみが床に散乱している。

 

部屋の電気を付けると、玲美はベッドの上でうつ伏せになりながら泣いていた。

 

「玲美、どうしたの?なにがあったの?」

 

そう声をかけるが、玲美はなにもはなそうとしない。

 

「なにが起こったか、お母さんに話してちょうだい」

 

久美は話しかけるが、玲美は黙ったまま泣き続けている。

 

どうしたらいいんだろう・・・

 

久美が困惑していると

 

「お母さん・・・」

 

玲美が泣きながら声を出した。

 

「なに、どうしたの?」

 

「お母さん・・・私・・・死にたい」

 

玲美の絞り出すような声が聞こえた。

 

その声を聞いたとき、久美は驚愕した。先日まで元気で笑顔を絶やさなかった玲美が、急に死にたい、そんなことを言い出すなんて・・・。

 

「なにがあったの?お母さんに教えて。」

 

玲美に何度も尋ねたが、答えは帰ってこない。

 

どうしたらいいの?なにがあったかわからないのでは、対策がうてない。

 

ただ、この娘が学校で嫌なことをされている。いじめにあっているのではないか

 

いじめられている子は、ほとんど両親には相談しないと言われている。最近、元気がない事を久美は気づいていたし、心配してもいた。

 

ほとんどの子がいじめを相談しない中、玲美は私にサインを出してくれた。

 

このサインを見逃したり、放っておいては絶対いけない。

 

「玲美、起きなさい」

 

出来るだけ優しく久美は玲美に話しかけた。その言葉を聞いて、玲美はゆっくり起き上がった。

 

そして、玲美を優しく抱きしめると

 

「玲美、辛い目にあったねえ。大丈夫。お母さんが絶対守ってあげる」

 

玲美と目を合わせて久美は言った。

 

「お母さん!!」

 

玲美はお母さんに抱きつき、いつまでも泣いていた。

 

 

次の朝、久美は玲美に学校を休ませ、自分も仕事を休んだ。

 

そして、朝一番に中学校に電話した。

 

「1年2組の倉田玲美の母ですが、担任の成沢先生お願いしたいんですが」

 

そう伝えると長い保留音の後、

 

「はい、成沢です」

 

担任の成沢先生が電話口に出た。

 

「うちの娘の様子がおかしいんです。最近元気がないと心配していたんですけど、昨日仕事から帰ってきたら、部屋で大泣きしていまして」

 

「はあ、そうなんですね」

 

「最後は、私に向かって死にたいと言ったんです。私の考えでは、あの娘いじめにあっていると思うんですよ」

 

「そんなことはないと思いますけど」

 

「学校で変わったことありませんでしたか?」

 

「いや、そんな様子はなかったと思いますけどね」

 

久美はイライラしていた。娘が死にたいほど苦しい立場にいるからこそ、必死で訴えているのに、この教師はまるで他人事のような対応をしている。

 

「玲美になにがあったか、調べてください」

 

「わかりました。夕方までに調べて、お母さんに連絡します」

 

担任の成沢は電話を切った時、面倒くさい事が起こった。そう思った。ただでさえ学校の仕事で本人の手に余るくらい忙しく感じているのに、今度はいじめの調査をやらなければならなくなった。

 

こっちは猫の手も借りたいくらい忙しいのに、また仕事を増やして・・・。

 

成沢は少しイライラした気持ちで、教室に入っていった。成沢が入ってきたというのに、教室内の生徒はまるで存在を無視するように雑談している。

 

4月下旬になったばかりだというのに、学級崩壊が始まっている。

 

玲美の席を見たが、母親が言った通り誰も座っていない。

 

面倒くさい。成沢は心の中で思う。この教師には、生徒を教える、育てるという熱意が全くなかった。

 

いくつか大学を受験したところ、教育学部がある大学に引っ掛かり、そのままの流れで教師になった人間だった。

 

「今日、倉田さんがお休みするみたいだけど、心当たりのある人はいますか?」

 

生徒に問いかけてみる。すると、教室が静かになった。多分他の生徒も心配しているのだろう。そう察しがつく。

 

一応、クラスの仲の良さそうな女の子に聞いてみるが、全く心当たりがないという

 

これは、母親の思い過ごしだな。そう思い、玲美のいじめの件は片付け、成沢は授業を開始した。

 

久美はどうしようもないイライラの中にいた。なんなの、あの教師の態度は。玲美があれだけ泣いて苦しみの底にいるのに、あまりに事務的な態度をされたことに頭に来ていた。

 

玲美は朝からずっと寝ている。朝御飯も食べたくないと言った。昨日の夕御飯も食べずに寝てしまったので、丸1日何も口に入れていないことになる。

 

今の玲美に昔元気だった面影はない。無表情で、1点を見つめ、全く表情を変えない。

 

本人は何も言わないが、本当にひどい目に遭ったと想像できる。なのに、成沢の態度には、玲美を心配するような言葉が全くなかった。

 

しかし、母親1人で乗り込んでいってもなにもならない事は、久美でも理解している。今は担任の成沢から連絡を待ち、もしいじめられているとしたら、すぐに対応してもらわなければならない。

 

そろそろお昼ごはんの時間になる。久美はお粥と、消化にいいものを作り、玲美の部屋へと持っていった。

 

ドアを開けると、変わらず玲美は無表情で、上を向きながら寝ていた。

 

「玲美、お昼ごはんよ。お粥作ったから少しでいいから食べなさい」

 

枕元に料理を置こうとすると

 

「お母さん、ごめん。食欲なくて食べられない」

 

上を向きながら無表情で玲美は言った。

 

「いいのよ、食べられなくても。ここに置いておくから、食べたくなったら食べなさい」

 

そう言って、枕元に食事を置くと、ゆっくり玲美の部屋を出ていく。

 

久美はスマホを見るが、着信記録はない。

 

玲美がこんなに苦しんでいるのに、いじめている子は何事もないように学校生活を送っている。

 

その事実が、久美のイライラを増幅させた。まだいじめだと決まったわけではない。しかし、久美は玲美がいじめにあって、こんな状態になってしまっていることを半ば確信している。

 

小学校の時は明るく、学校が大好きな娘だった。こんなに精神的に追い込まれてしまうのは、いじめ意外にあり得ない。

 

母親の勘だった。

 

しかし、担任からはまだ何も連絡がない。早くいじめている子を特定してもらって、いじめをやめてもらわなければ。

 

その日の夕方、ようやく担任の成沢から連絡が入った。

 

「玲美をいじめている子はわかりましたか?」

 

「今日、クラスメイトに聞いてみたんですが、みんな心当たりがないと言っていまして」

 

「そんな馬鹿な、玲美は死にたいって言うほど苦しんでいるんですよ」

 

「お母さん、調べましたが、そのような事実はありません。明日学校に来るように言ってください。しっかりと玲美さんの様子を見ますから」

 

「そんな・・・」

 

久美の頭の中は混乱していた。玲美は別人のようになってしまっている。学校が原因としか思えない。

 

しかし、担任は調べた結果、いじめはなかったと話した。

 

どうしたらいいのか・・・。もっとしっかり調べてくださいとお願いした方がいいのか。

 

そして、担任が言ったように、明日学校に通わせた方がいいのか?

 

とりあえず、久美は玲美の部屋に行き、今担任から聞かされたことを話した。

 

「成沢先生から、クラスメイトが玲美が来ないことを心配しているそうよ。明日行ったらゴールデンウィークの休みになるから、学校に行ってみたら?」

 

私の問いかけに、玲美は無表情のままだった。

 

「でも、辛いなら学校に行かないで休んでもいいわよ」

 

玲美を気遣い、どちらでも選択できるように久美は言った。それでも玲美は全く反応を示さなかった。

 

いじめでもないのに、玲美はどうしてこんなにショックを受けてあるんだろう。

 

担任からいじめはないと言われたから、いじめはないのだろう。

 

なら、どうして玲美はこんなに苦しんでいるのか。久美には理解できなかった。

 

しかし、久美には、成沢が朝の朝礼の時に、クラスメイト全員に問いかけただけで、それ以外の事を全くしていないことを知るよしもない。

 

その日の晩、玲美がベッドから起き、部屋から出てきた。

 

「玲美、大丈夫?体調悪くないの?」

 

「良くなった。明日学校に行く」

 

「無理しなくてもいいのよ」

 

久美は心配してそう言ったが、

 

「大丈夫、ごはん食べたい」

 

そう言ったため、久美は少し安心した。

 

丸1日何も食べていない状態なので、お粥と消化に良さそうな物を食卓に並べた。

 

出された料理を半分ほど食べると、

 

「お腹いっぱいだから寝る」

 

そう言ってまた部屋の中に入っていった。久美は心配でたまらなかったが、玲美が学校に行くという気持ちが出てきたのは、少し嬉しくもあった。

 

玲美は決意していた。どんなに惨めでも負けたくない。部屋に引きこもっていてはだめだ。先生に今までの事を全部話してみよう。そしたら先生も力になってくれるかもしれない。

 

かすかな希望ではあるが、今玲美に出来ることはそれしかなかった。

 

次の日、学校に行く時間に玲美は起きてきた。

 

「玲美、大丈夫なの?」

 

心配になり、久美が声をかけると玲美は母親の目をしっかりと見つめ

 

「私、負けたくない。学校に行ってくる」

 

堅い決意をもった表情で答えた。その言葉を聞いて、久美は涙がこぼれそうになるのを必死でおさえた。

 

久美は昨日の夜、玲美の事が心配で一睡も出来なかった。辛かったら、学校になんか行かなくていい。朝、玲美にそう言うつもりだった。

 

しかし、玲美の決意した表情を見て、一番辛い思いをしているこの娘も闘っているんだ。私が不安になってどうする。

 

心の中でそう思った。

 

簡単な朝御飯を食べた後、玲美は学生服に着替えた。そして、時間になると

 

「お母さん、行ってきます」

 

そう言って玄関を出ていった。

 

「無理しちゃだめよ」

 

久美は玲美の後ろ姿にそう声をかけるしかなかった。

 

玲美は下を向きながら学校に向かう。もしも男の子と目があったりしたら、その時点で家に帰りたくなってしまうかもしれない。

 

苦しい思いに包まれながら、一歩一歩中学校に向かった。下を向いて歩いていたので、誰かと目が合うということもなく、教室にたどり着くことができた。

 

玲美は心臓が飛び出そうな気持ちになりながら、教室の扉を開いた。

 

全員の視線が玲美に向けられる。

 

1人の女の子が、玲美を見て近づいてきた。

 

何を言われるんだろうと、心臓が止まりそうになるほど緊張した。

 

「玲美ちゃん、学校休んでどうしたの?」

 

その娘は最近仲良くなり始めた女の子だった。

 

「熱が出ちゃって、もう大丈夫」

 

「本当に、よかった」

 

その娘の笑顔を見て、玲美は少し安心した。このクラスには、自分の写真が出回っていることはないらしい。

 

男の子も特に玲美を気にすることなく、談笑している。

 

よかった・・・。

 

このクラスには、玲美が体調を崩す前と同じ時間が流れている。自分の席に座り、カバンから教科書を取り出し、机の上に置いた。

 

しばらくすると、担任の成沢が前の扉から入ってきた。入ってきた途端、玲美と目が合う

 

成沢は玲美に近づき、

 

「大丈夫?」

 

そう声をかけた。玲美はその言葉に

 

「大丈夫です」

 

うなずきながら答えた。

 

なんだ、いじめはなかったのか。玲美の顔を見て、成沢は判断した。

 

全く大袈裟だ。母親は娘は死にたいと言っているなんて大事のように私に迫ったが、全くそんなことはなさそうじゃないか。

 

でも、変な仕事が増えなくてよかった。そう思いながら授業を始める。しかし、その授業を真剣に聞いている生徒は少なかった。

 

その日の放課後、玲美は強い決意のもと、職員室に向かった。そして、担任の成沢を見つけると、相談にのってもらいたいことがある、そう伝えた。

 

玲美の真剣な表情に、成沢は個室の中に玲美を案内した。

 

「倉田さん、相談にのってもらいたいと言ってたけど、どうしたの?」

 

本当はこんなことを担任とはいえ言いたくはなかった。でも玲美は先生なら味方になってくれると信じ、今まで起こった全てを話した。

 

夕方に公園のベンチで本を読んでいたら、突然3年生の向井七海先輩と、小林翼先輩に声をかけられたこと。

 

2人に突然呼び出され、断るとすぐ怒り、とても怖いこと

 

玲美の話を成沢は静かに聞いていた。

 

「先生、一番怖いのは、小林先輩にある日裸の写真を送ってこいと言われて・・・」

 

「裸の写真!!」

 

「そうなんです。何回も断ったんですけど、断れば断るほど、小林先輩が怒り出して」

 

「それで、もしかしてあなた・・・」

 

「小林先輩のことが怖くて・・・。自分の裸の写真を撮って送りました」

 

「なんてこと!!」

 

突然の告白に成沢は狼狽した。どう答えればいいのかわからない。事があまりにも異質すぎる。

 

「写真なんて送ったら、今の時代どこに流れていくかわからないのよ」

 

「でも、先生。私怖くて・・・」

 

玲美は涙を流し始めた。

 

「先日、向井先輩が教室に来て私に言ったんです。小林先輩が私の写真を友達に送ってるって。それ聞いて私本当にショックで・・・」

 

その言葉を聞いて、成沢は考え込んだ。部屋の中には、玲美のすすり泣く声だけがこだましている。

 

「わかったわ。上級生がすることでもこれはかなり悪質ね。小林君には私から強く言っておくから」

 

成沢がそう言うと、玲美は首を振った。

 

「先生、でも私怖いんです。小林先輩が。先生にチクったなんてわかったら、私どうなるかわかりません」

 

「じゃあこのままにしておくつもり?」

 

「それも嫌」

 

成沢は玲美の気持ちがわからない。もし玲美が言っていることが本当なら、すぐに上級生に出回っている写真を削除しなくてはならない。しかし、本人はそれを拒否している。

 

「今日は先生に相談できただけで十分です。先輩達には、言わないでください」

 

「あなたはそれでいいの?」

 

「はい、大丈夫です」

 

玲美は泣きながら答えた。玲美の頭の中も混乱していた。すぐにでも写真をこの世から消してほしい。しかし、上級生からの仕返しも恐ろしい。

 

成沢に話している途中、小林翼の顔がフラッシュバックのように頭の中を駆け巡った。そして、どうしたらいいのか自分でもわからなくなってしまったのだ。

 

「先生、とりあえず今日は相談だけということにしてください。絶対先輩に言わないで」

 

玲美の頭の中で、上級生からの仕返しが怖いという思いが勝ってしまった。

 

「わかったわ。倉田さんがそれでいいというのなら、今回のことは、私の胸の中にしまっておく。でも、事が事だから、何か手を打たないといけないわよ」

 

成沢は仕方なくこの場を納めることにした。

 

気持ちが落ち着いてから、玲美は学校を後にした。先生に話すことができた。それだけで今の玲美には大きな前進だった。

 

話す前まで、恐怖が全身を襲っていたが、今は落ち着いている。

 

明日からゴールデンウィーク。連休になる。学校に行かなくてもいいということが、玲美の心を軽くする要因の1つでもあった。

 

ようやく家に着き、玲美は自室に入った。その時、急に不安に襲われた。先生に相談したが、それがよかったことなのか?

 

今、私の写真はどのくらい広がっているのか、そんな感情が先程と同じくフラッシュバックとして玲美に襲いかかった。

 

私が何か悪いことをした?なんでこんな苦しい思いをしなくちゃいけないの?

 

そう思うと先程まで安定していた精神が、ガタガタと崩れ始め、また目から涙が流れ落ちた。

 

久美は仕事を終えると、すぐに家に帰宅した。

 

「ただいま」

 

ゆっくりと玄関を開けて、声をかける。心臓がバクバク音を立てるのが自分でもわかった。本当は仕事も休みたかったが、正社員となり、いろいろな仕事を任せられている状態で、何日も仕事を休むわけにはいかなかった。

 

「お帰り、お母さん」

 

玲美が部屋から出てきて、久美の前に立った。疲れきった表情をしている。私に心配をかけないために、部屋から出てきたことは、すぐに察しがついた。

 

「今日学校に行ってきたの?」

 

「うん」

 

そう答えた玲美を見て涙が出てきた。そして、玲美を抱きしめ

 

「良く頑張ったね」

 

玲美に言った。すると玲美は、

 

「大丈夫だよ。行ってよかったよ、お母さん、泣かないで」

 

泣いている久美を慰めるように答えた。

 

令和3年5月のゴールデンウィークの日の並びはとても良く、5連休だった。ただ、コロナウイルスご蔓延していたため、外出は自粛するようにと毎日のようにテレビ番組でアナウンサーが視聴者に向かい話しかけていた。

 

玲美は始めの2日は、部屋の中から出ようとしなかったが、その次の日になると精神的に落ち着いてきてのか、時々起きて母親と話すことも増えてきていた。

 

玲美が心配していた、小林翼や向井七海からの連絡が全くなかった事が、玲美の気持ちを安定させていた。

 

「せっかくの休みだから、外で美味しいものでも食べよう」

 

そんな様子を見た久美は、玲美に話しかけると

 

「いいよ。ハンバーグが食べたい」

 

笑顔で答えた。

 

久しぶりに、家族2人で外出できる。久美は嬉しくなり、化粧を整えると近くのファミリーレストランに行った。

 

玲美はハンバーグ、ドリンクバーを頼み、久美も同じものを頼んだ。

 

小学校の時は、玲美がここのハンバーグが大好きで、よく2人で行ったものだった。昔の事を思い出してしまう。

 

でも、玲美が少しづつでも元気になってくれる。それだけで嬉しかった。

 

玲美は残さずハンバーグを食べると、何度もドリンクバーでジュースを汲みに行った。

 

「コロナが落ち着いたら、どこかに旅行に行きたいね」

 

「夏になったら海に行きたい」

 

「そうね。今年必ず行こうね」

 

「お母さん、約束ね」

 

玲美は笑顔でそう言った。

 

誰もが感じると思うが、休みというのは時間がすぎるのはあっという間である。もう、次の日学校に行く日になった。

 

玲美は学校に行くつもりで、宿題も終え、準備を終えた。

 

しかし、心臓は自分でもわかるくらいどきどきと音を立てていた。不安が全身を包み込む。それでも、玲美は学校に行く決意を変えることはなかった。

 

次の日、玲美は以前と同じように、下を向きながら学校へと向かった。教室の雰囲気は連休前と変わらなかった。

 

その雰囲気に玲美はほっとしながら席に着いた。担任の成沢が入ってきたが、特に玲美に気にかけることもなく、授業は進んでいった。

 

玲美はこのまま何も起きませんように、そう心の中で祈ったが、授業が終わり、学校から帰ろうと思った時、心配していたことが現実となってしまう。

 

学校から出て、校門に向かう途中

 

「あの娘じゃね?」

 

男の声がして、玲美は声のする方に顔を向けた。すると、男子5人程がスマホを見ながら玲美を見ている。

 

「あの娘だよ、翼が送ってきた写真の娘」

 

5人の視線が玲美に集中する。その時、玲美は私が送った裸の写真写真を見ていると直感した。

 

七海先輩が言った通り、私のあの写真は、知らない人に送られていたんだ!!

 

七海はその視線から逃げるように、下を向きながら走った。恥ずかしさとショックで、頭の中は錯乱状態となった。

 

家に帰ると、ベッドの中に潜り込んで独りで泣いた。

 

知らない人が私の写真を見ている。それがどのくらい広がっているかわからない恐怖、恥ずかしさ。

 

「もう、死にたい!!」

 

玲美は布団の中で叫んだ。

 

もう、学校には行きたくない、というより行けない。外にも出たくない。玲美の頭の中には、近くにいる同じ中学校の生徒も、その写真を見ているのではないか。

 

そう考えると、誰とも会いたくない。

 

絶望感と希死念慮が頭の中を支配していた。

 

「ただいま」

 

久美が仕事から戻ったのは、午後7時を回ったところだった。少し仕事が長引いてしまい、遅くなってしまった。

 

玄関を開けたが、家の電気は全く付いていない。真っ暗な空間が広がっていた。

 

嫌な予感がした。玲美がまだ帰ってきていない。もしかしたら、学校で辛い目にあって、どこかに行ってしまっているのではないか。

 

「玲美、帰ったよ」

 

玄関の電気を付け、家の中に声をかけたが、全く反応がない。

 

すぐに玲美の部屋の中に入った。すると玲美は、ベッドの中で横になっていた。

 

それを見て久美は安心した。もしかしたら最悪の事態が起こっているかもしれない。その思いが頭をよぎったからだった。

 

「玲美、寝ているの?」

 

ベッドに向かって声をかけるが全く反応がない。久美は布団をゆっくりと持ち上げた。

 

「どうしたの、玲美!!」

 

ベッドには全く表情のない、人形のような顔をした玲美の姿があった。これはただ事ではない。玲美はそう感じた。

 

「学校で何かあったの?お母さんに話してみなさい」

 

声をかけるが、玲美の表情は全く変わらない。1点を見つめ、全く動こうとしなかった。

 

玲美はすぐに学校に連絡した。

 

「担任の成沢先生はいますか?」

 

そう電話に出た人間に聞いてみたが、成沢は10分ほど前に帰宅した。そう伝えられた。

 

私がもう少し早く帰ってきていれば・・・

 

久美は今日帰りが遅くなったことを心底後悔した。

 

次の日、久美は朝一番で学校に連絡を入れた。

 

「担任の成沢先生につなげてください」

 

そう伝えると、保留音に切り替わった。

 

昨日の夜、玲美はまった起きてこなかった。何度声をかけても、まるで人形に話しかけているように反応がない。当然夕御飯も食べなかった。

 

「はい、代わりました。成沢です」

 

「倉田玲美の母ですけれども、昨日からまた玲美の様子がおかしいんです。ベッドから全く起きようとしないし、食事も全く食べません。昨日、学校で何かあったんじゃないでしょうか」

 

「・・・何もなかったと思いますが」

 

「思いますがじゃあ困ります。玲美はひどいショックを受けているんですよ」

 

「そうですか。クラスメイトに倉田さんが昨日、なにかなかったか聞いてみます」

 

「お願いします。私はいじめられているんじゃないかと思うんですが、先生に心当たりはないですか?」

 

「いや、特にありませんね。これから倉田さんになにがあったか調べますので」

 

「お願いします。玲美が別人みたいに元気がないんです。どうか原因を突き止めてください」

 

「わかりました。調べが終わり次第お母さんに連絡します」

 

成沢はそう言うと、電話を切った。久美は相変わらず事務的に対応する成沢に、心底頭に来ていた。

 

ご飯も食べない、寝ているだけ。そういうことが自分の生徒に起こっているのに、心配になるという気持ちがないのか

 

玲美の状態を確認しに、家に来てもいいはずなのに

 

どうにも頼りにならない担任に対し、途方に暮れるしかなかった。

 

電話を切った成沢は、昨日の事を思い出していた。倉田さんに特に変わった様子はなかった。授業も真面目に取り組んでいたし、他の生徒にいじめられているような様子は見られなかった。

 

その時、成沢の脳裏に、先日倉田さんに相談を受けたことを思い出した。

 

そうだった、連休前に上級生にいじめられていると相談された。確か裸の写真を送るように脅され、怖くて送ってしまい、その事で悩んでいる、そういう内容だった。

 

連休中、恋人とお泊まりデートをしていたため、すっかり忘れていた。

 

また面倒なことが起こってしまった。とりあえず、あの2人に事情を聞いてみるか。

 

成沢は、玲美が先輩には言わないでほしいと言われたことをすっかり忘れ、2人に事情を聞くことを決めた。

 

放課後、成沢は2人を呼び出した。そして、相談室という個室で話を聞き始めた。

 

「何のようですか?私今日忙しいんですけど」

 

成沢に対し七海は刺々しい表情をした。翼も椅子に大きく股を開いて座り、面倒臭そうな表情をしている。

 

「倉田玲美さんのことなんだけど、最近体調が良くなくて休みがちなの。2人は何か知っていることない?」

 

成沢が問いかけると、2人は見つめ合い、薄ら笑いを浮かべた。

 

「いや、知らないっすよ」

 

翼は平然と答えた。

 

「倉田さんから相談を受けたの。あなた達2人にいじめに合っているって。倉田さんがあなた達とコンビニで話しているのを見たっていう生徒もいるの。知らないってことはないでしょう?」

 

2人はまた薄ら笑いを浮かべた。

 

「確かに私達は最近あったりしてますけど、いじめたりはしていません。友達です」

 

七海は平然と答えた。

 

「ラインで倉田さんの裸の写真を送らせたって本人はいってるけど」

 

「そんなことありません…証拠でもあるんですか?」

 

「証拠は・・・ないけど」

 

「そんなことしていません。私達と倉田さんは友達ですから」

 

七海に威圧的に言われ、成沢は後に続く言葉が出てこなかった。中学生なのになんて態度なんだ。どういう教育を受けたら、こんな出来損ないみたいな人間になるのだろう。

 

「私忙しいので、これで帰ります」

 

「俺も予定があるので失礼します」

 

「ちょっと待ちなさい。まだ話があるの」

 

成沢が止めるが、2人は無視するかのように部屋を出ていった。止める術を知らず、相談室の椅子に呆然と座っていた。

 

帰り道、2人はイライラしていた。自分達が悪いことをしたという感覚はない。なぜ玲美は担任にチクったりしたのか。

 

「頭来るわねあの娘。なんで先生にいうのかしら」

 

「まったくだ、友達がいないから遊んであげているのに。ふざけんなって感じだよ。」

 

「このままじゃあ、私達が悪者になっちゃう。なんとかしないといけないわね」

 

「そうだな、上級生をなめたら痛い目に合うってことを教えてやる」

 

完全に2人が悪いのだが、2人は自分が悪いことをしたという認識が全くない。人間的になにか欠けているものがある。それは生まれもったものなのか、教育が原因なのかわらない。多分その両方なのだろう。

 

相談室に取り残された成沢は、心底参っていた。玲美から先輩には言わないでほしいと頼まれていた事を、今になって思い出したのだった。その上、あのような形で終わってしまった。

 

もしも倉田さんが言っていることが本当だったら、火に油を注ぐ結果になったのは間違いない。

 

それにこれから玲美の母親に連絡をしなければならない。なんて言えばいいのか。頭を抱えていた。

 

しかし、ずっとこの部屋の中にいるわけにもいかない。重い腰を上げ、職員室に戻った。

 

深呼吸をした後、連絡を入れた。

 

「倉田さんのお母さんですか。担任の成沢です。ご連絡遅れて申し訳ありません」

 

「先生、なにかわかりましたか?」

 

「いや、特に倉田さんに対するいじめはないと、クラスメイトからもいじめの話はなくて・・・」

 

「上級生はどうなんですか、七海先輩と翼先輩については?」

 

「え?」

 

突然母親から上級生についての追求があり、成沢は驚いて言葉に詰まった。

 

「今日、玲美が枕元で何度も、先輩許してくださいって独り言のように言っていたんです。その2人について、なにか知っていることはありませんか?」

 

「・・・えっとですね。確かにその2人と仲良くしているようです。いじめの関係性はないと。仲のいい友達だと思います」

 

「玲美はうまく友達をつくれない性格なんです。人見知りひどくて。それなのに上級生が仲のいい友達なんて、信じられないんですけど」

 

「その辺りは調査しました。2人とも仲のいい友達で、倉田さんが体調不良で休んでいることを心配しているみたいです」

 

成沢はとっさに嘘をついた。母親から、あの2人について質問が来るのは想定外だった。

 

「玲美は体調が悪いので、しばらく学校を休ませます。早く玲美がこうなってしまった原因を調べてください。そして、早く学校にいけるようにしてください。お願いします先生」

 

受話器から母親のすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「わかりました。早く倉田さんが学校に行けるように、調査します」

 

そう言って電話を切った。

 

電話の後、久美は途方にくれていた。玲美は全くベッドから起きてこない。昼食も作って枕元に置いてはみたが、手をつけた様子は全くなかった。

 

玲美の事が心配で仕方がない。しかし、相談できる人間もいない。

 

しばらく学校を休ませると伝えたが、仕事はどうしたらいいのか。こんな状態の玲美を独りにさせておくわけにはいかない。

 

しかし、仕事をしなければ生活ができない。

本当にどうしたらいいのか。早く玲美がこんな状態になってしまった原因がわかり、元の明るい玲美に戻ってほしい。

 

 

久美は祈るしかなかった。

 

午後7時、久美は食事を作り、玲美の部屋に入っていった。

 

「玲美、ご飯を作ったわ。少しでいいから食べてちょうだい」

 

枕元に置こうとした瞬間

 

「いらない。食欲ないから」

 

玲美の小さな声がした。

 

「だめよ、今日何にも食べてないじゃない。このままだと死んじゃうわよ」

 

「もう、死んでもいい」

 

玲美の言葉に、久美はまた涙が溢れだした。

 

「玲美、お願いだからそんなこと言わないでちょうだい。あなたは私にとってかけがえのない宝物なの。あなたがもし死んでしまったら、お母さんも死ぬからね」

 

しばらく沈黙が続く。

 

「お母さん、ごめんなさい。もう死ぬなんて言わないから泣かないで」

 

玲美は起き上がり、枕元に置いてあった食事を食べ始めた。

 

この娘も頑張っている。1日も早く、元気を取り戻させたい。

 

久美は玲美を優しく抱き締めた。

 

その日の深夜、玲美のスマホが鳴り出した。ラインが送られてきたようだ。

 

玲美は画面に写し出された名前をみて、恐怖で震えた。

 

向井七海

 

七海先輩からだった。

 

震えながらスマホを操作し、ラインに書いてある文章のをみて、玲美は絶句した。

 

あなた、担任に私の事を悪く言ったわね。今日呼び出されて説教されたのよ

 

玲美の頭の中は真っ白になった。先生にあれだけ先輩に言わないでと言ったのに・・・

 

なんなの、気に入らなかったら私に直接言えばいいじゃない。ムカつくわよあんた。

 

ラインは続いた。

 

先輩、ごめんなさい。写真が出回っているのが怖くて。

 

知らないわよ。ラインを広めたのは翼でしょ。私は止めようとしてたのに、なんで私の名前を出すの?この裏切り者、許さないから

 

七海は全く止めようとしていない。広まっているのを楽しんでみていた。自分の悪いことは棚に上げ、人を非難する最低の人間だった。

 

許してください。お願いします。

 

わかった、あなたの話を聞いてあげる。明日の朝4時に、公園に来なさい。

 

朝の4時ですか?

 

そうよ私も行くから必ず来なさい。

 

わかりました。行きます。

 

玲美はそう返信するしかなかった。

 

それを見た七海は、携帯の電源を切り

 

「おやすみ~」

 

と独り言を言って、部屋の電気を消した。

 

久美が物音で目が覚めたのは、午前3時半。誰かが歩いている音がする。なんの音だろう。久美はゆっくり起き上がり、音のする方へ歩いていった。

 

真っ暗だが、誰かの姿がある。驚き電気をつけると、そこには玲美の姿があった。パジャマから洋服に着替えている。

 

「どうしたの玲美、こんな時間にどこかに行くの?」

 

「先輩が公園に来いって。私行かなきゃならない」

 

「だめよ、こんな時間に。誰がいるかわからないし、危ないじゃない」

 

「でも行かなきいけないの」

 

そう言って玄関から出ていこうとする玲美を、久美は腕をつかんで必死に止めた。

 

「だめ、独りで行くなんて危なすぎる」

 

「でも行かないと、先輩に怒られるの」

 

久美が必死に止めた為か、玲美は外出するのをあきらめた。

 

ほっと胸を撫で下ろすと共に、玲美をいじめているのはその先輩だと、久美は確信した。

 

月曜日、久美はまた学校に連絡を入れた。

 

「成沢先生いますか?」

 

「はい、少々お待ちください」

 

短い保留音の後、成沢の声がした。

 

「代わりました、成沢です」

 

「倉田ですが、わかったことがあるんです。玲美をいじめているのは、やはり上級生だと思います。一昨日、午前4時に公園に呼び出されたらしく、家を出ていこうとしたので必死に止めました」

 

「そうですか。ただ、私もその生徒から話を聞きましたが、友達のようです」

 

「友達って、午前4時に呼び出す人間が友達と言えますか?」

 

「・・・確かにそうですけれど、あの子達はおバカだからいじめはしませんよ」

 

「そんな理由でいじめじゃないなんて、私には信じられません」

 

成沢自身、あの2人がいじめの主犯各ということはわかっていた。

 

しかし2人のあの態度をみると、私が注意してもいじめはひどくなるばかりになるだろう。もうあの2人とは、接したくない。

 

情けない話だが、成沢程度の能力の教師では対応できない問題になっていた。

 

「家庭環境に問題があるんじゃないですか?」

 

成沢はなんとかその場から逃れようと、話をすり替えた。

 

この言葉を聞いて、久美は激怒した。

 

「確かにうちは母子家庭です。でも玲美を大切に育ててきたし、上級生からいじめを受けている事は間違いないじゃないですか。確かに私は仕事で遅くなることはあります。でも本人は先輩に嫌なことをされたって言っているんですよ」

 

「まあ、落ち着いてください。玲美さんが学校に行けるようにしますので。すいませんこれから教室に行かなくてはいけませんので失礼します」

 

成沢は一方的に電話を切った。

 

まずいことを言ってしまった。ただこの電話から逃げようと言ってしまったことだったが、火に油を注ぐ結果となってしまった。

 

どうしたらいいのよ・・・。

 

もう一人では対応できない状態になっていたが、成沢には、誰か他の教師に相談しようという発想はなかった。もはや誰が見ても教師には向いていない人材と言わざるをえない。

 

しかし、1週間後、同学年の担任が集まり、会議が予定されていた。その会議は2ヶ月に1度。各クラスの担任、教頭の鬼頭先生が集まり、今のクラスの現状を伝え、全クラスの状態を把握する会議だ。

 

もちろん成沢もその会議に出席しなければならない。

 

その日までに倉田玲美が学校に来てくれないとその話が、必ず議題に上がる。それまでにいじめを解決しなければならないと思ったが、玲美は1週間後も学校に来ることはなかった。

 

その日を迎え、放課後職員室で会議が始まった。各クラスの担任から、今の生徒の状況の報告が次々にされる。

 

次は成沢の番になった。成沢はこの会議で玲美の事は触れずに報告を済ませようと、淡々と差し障りのないことを話していると

 

「成沢先生のクラスに不登校の生徒がいるとのことですが、実際どうなんでしょうか」

 

他の担任が突然、成沢の話を遮るように質問した。

 

「その件につきましてはですね・・・」

 

成沢は言葉に詰まった。

 

不登校の生徒がいるだと?本当かね成沢先生」

 

静かに聞いていた教頭の鬼頭は驚いた様子で成沢に詰めよった。

 

「教頭先生、すいません。実はうちの生徒の中で、学校を休みがちな生徒がおりまして」

 

「成沢先生駄目じゃないか。そういうことがあったら私に報告する義務があるだろう」

 

鬼頭はイライラしながら言った。

 

「申し訳ありません。ただ家庭の事情が関係しておりまして、母子家庭の御宅ですのでいろいろと家庭内で問題があるようなんです」

 

「本当かね、いじめが原因とかそういう可能性はないのか?」

 

「私の方で調べましたが、そのような事実はありませんでした」

 

「本当かね・・・」

 

本来ならここでいじめの事を話し、対策を打たなければならないはずだったが、成沢は身の保身に走り、真実を隠そうとした。

 

教頭の鬼頭は、成沢の表情を見て、何か隠していると直感したが、それ以上追求しても仕方がないと、その話題を切り上げ次に進めた。

 

会議が終わると、教頭の鬼頭は成沢を別室に呼び出した。

 

成沢は今年この中学校に来て4年目の教師、しかも新卒だ。初めに担当させたクラスは、すぐに学級崩壊となり、その対応をしたのが鬼頭だった。

 

その経験から、成沢のクラスがうまくいっていない事は想像がついていた。

 

成沢を前に座らせ、先程の件について追求した。

 

不登校の生徒の事だが、いじめではないのかね?」

 

「それは違います。先程も申し上げましたが、家庭内の問題がありまして」

 

「家庭内の問題?それは虐待とかの話しかね」

 

「それは違います」

 

「家庭内の問題だからといって、学校に来なくていいというわけではないだろう。その理由はなんなんだ」

 

「調査しています」

 

「わかった。その調査が終わり次第すぐに報告しなさい。1日も早くその生徒が学校に来られるように対応すること」

 

そう言って成沢をさげさせた。成沢が出ていくと、鬼頭は大きなため息をついた。

 

なんでこの女を採用したのか・・・

 

成沢の面接を担当したのは、他でもない鬼頭だった。鬼頭は面接が進むにつれ、この人は教師に向いていない、そう感じた。

 

ずっと無表情だし、質問しても人間味のない答えが返ってくる。

 

しかし、鬼頭は成沢を採用した。いや、採用せざるをえなかったのだ。

 

この中学校があるR市は、地方の人口が10万人ほどの都市だ。この都市の教育会には昔からの習わしがある。

 

地方都市では珍しく、公立のR市立教育大学が存在する。R市で働く教師の8割以上はこの大学の出身者。

 

この大学卒業生の結び付きは、恐ろしく強い。他の都市では理解できないほど。

 

仮に旧帝大を卒業し、R市で教員を始めたとしても、出世はほとんどできない。R市立教育大学出身者が次々に出世はしていく。

 

もちろん鬼頭もR市立教育大学出身者である。

 

大学とR市の教育会の癒着も強い。卒業生を受け入れる代わり、天下りの席を用意しておく。持ちつ持たれつの関係であった。

 

当時のR市立教育大学の教授から、成沢を採用してほしいと頼まれていたのだった。

 

採用してみて、これ程後悔した人材は他にはいない。

 

鬼頭は席を立った。校長に報告しなければならない。校長の名前は大前といい、昨年までR市の教育委員会を勤めていた。

 

期限を終えてこの中学校に来たが、R市教育会のドンと呼ばれるほど、この世界での力は強かった。

 

少し緊張しながら、校長室のドアをノックした。

 

「入りたまえ」

 

奥から重厚感のある声が聞こえた。

 

「失礼します。大前校長にご報告がございまして」

 

「何かね」

 

「実は、1年2組女子生徒が、不登校になっている様子でして・・・」

 

「なに!!」

 

大前校長の表情が厳しくなる。

 

「それはいじめが原因かね」

 

「担任の話によると、家庭内の問題だとのことですが」

 

「家庭内の問題だからといって、不登校でいいというわけではないだろう」

 

鬼頭が先程成沢に言ったことを、そのまま校長に言われる

 

「担任はその原因を調べるといっていますので、報告を待ちたいと思います」

 

「そんなのんきなことを言っていていいのかね。問題が起こったら、君の校長試験にも響くことになるよ」

 

鬼頭教頭は近々校長試験を受けようとしていた。その試験において、この教育会に多大なる権力を持つ大前校長に気に入られれば、ほぼ合格したも同然。

 

そのため、鬼頭は大前の機嫌をとる努力を怠らなかった。

 

「そのようにならないよう、万全の体制で臨みます」

 

「頼みますよ、鬼頭教頭先生」

 

その言聞いた後、鬼頭は深く頭をさげ、校長室を後にした。

 

        5

6月に入った。

 

6月に入っても玲美の不登校は続いた。時折学校に行くと言うこともあったが、朝になると

 

「お腹が痛い」

 

と言って休んでしまう。

 

玲美は母親に心配をかけたくないと学校に行くと決意するが、朝になると学校で起こったことが、フラッシュバックのように頭の中を襲い、どうしても学校に行くことができなかった。

 

そんな姿を見て、久美は玲美をいくつかの病院に連れていった。しかし診断はいつも精神的なものでしょう。異常は見つかりません。

 

そう答えられた。

 

精神科に行ってみると、極度のストレスが招くPTSDではないか、そう診断をうけた医師から話があった。

 

薬を処方され、家に帰ると、久美はすぐに学校へ連絡した。

 

担任の成沢に、病名の事を伝え、相談したいから今日の放課後、学校で相談できないかと

伝えると、

 

「すいません、今日は彼とデートなので他の日にしてもらえませんか?」

 

耳を疑うような答えが帰ってきた。玲美はご飯も食べられず、日に日に痩せていっている。それなのに彼氏と楽しく遊びたいから他の日にしてほしいって・・・

 

あきれてしまい久美は電話を切った。

 

毎日ご飯も食べない。このままでは玲美は死んでしまうのではないか。

 

そんな久美の心配が的中する事件が起こってしまう。

 

担任の成沢は、相変わらず玲美のいじめに対し、有効な手段を打たずにいた。なんとかなるだろう。そう考えていた。

 

鬼頭の思っていた通り、成沢には人の苦しみを感じることができない。玲美や久美の苦しみが、あまり理解できない人間だった。

 

そのため、時折鬼頭から不登校の事を問われることはあっても、口を濁しなんとかその場を回避していた。

 

自分のクラスの対応で手一杯の成沢にとって、玲美の対応する余裕がなかった。

 

それに、いじめをしている上級生を説得できる自信がない。とにかくあの2人が卒業すればなんとかなる。

 

そんな浅い希望を持ちながら、毎日の業務に取り組んでいた。

 

6月の中旬を越えたあたりになると、小林翼、向井七海の2人も苦しい立場に立たされていた。

 

翼は今まで以上に勉強についていけず、お前に行ける高校はないとまで担任に言われていた。その様子を見て、2年まで翼を怖がっていたクラスメイトが、逆に翼を馬鹿にするような態度をとるようになった。

 

七海もほとんど状況は同じ。学校をさぼってばかりいたためか、全く勉強についていくことができない。

 

持ち前の気の強さでなんとか取り巻きを作っていたが、その生徒も七海と付き合っていたらやばいと感じるようになったらしく、七海もクラスでほとんど相手にされない存在になっていた。

 

2人は時折公園で、たむろすることがあったが、集まって来るのは小学生ばかり。

 

同年代の人間はほとんど2人を避けていた。

 

この状態は2人にとって予想外だった。自己顕示欲が強く、常に中心でいたいと考える2人にとって、この状態は屈辱以外の何者でもない。

 

「はぁ~イライラする」

 

小学生しか相手をしてくれない状況に、七海と翼はつぶやいた。

 

もともと頭の悪い2人が、今から勉強を頑張ったとしても、成績が上がるはずはないと、2人とも理解している。

 

「ねえ翼、面白いことない?」

 

「つまんね~ことばかりで、ほんとに参るわ」

 

学校に行ったら、馬鹿だとクラスから思われ、公園で弱そうな人間に声をかけようとしても、相手をしてくれるのは小学生だけ。

 

「そういえば、あの娘どうしてるのかな」

 

「あの娘って誰?」

 

「翼に裸の写真を送ってきた娘」

 

不登校で学校に来てないらしい。せっかくいじめるターゲットが見つかったかと思ってたのに」

 

「その娘、呼び出してみない?」

 

「呼び出したところで、楽しいことないだろう」

 

「今の状態より、楽しいことになるんじゃない?」

 

七海はニヤリと笑った。

 

その頃の玲美は、まだベッドから起き上がれずにいた。精神科から処方された薬をのんでも、突然襲ってくるフラッシュバックに悩まされていた。

 

周りの人間が、私の裸の写真を見ながら笑っている。そんな風景が突然玲美の頭の中を襲い、怖くて動けなくなってしまうのだった。

 

久美はそんな玲美のことが、心配で仕方なかったが、仕事を休むこともできず、久美が帰ってくるまで、玲美は家に独りで過ごすことが多くなっていた。

 

横になっていた時、玲美のスマホが鳴った。画面を見ると、小林翼と表示されている。

 

その文字を見た時、玲美はなにも感じなかった。絶望、食事を取らないための栄養不足、精神安定剤の為、思考がほとんど働かなくなっていた。

 

近所公園にいるから来て

 

ラインにはその文字が並んでいた。玲美はなんの感情もなく、服を着替えると公園に向かった。

 

公園に着くと、2人がニヤニヤしながらまっていた。回りには数人の小学生の姿も見える。

 

「なんのようですか?」

 

頭の中に霧がかかったような状態だったが、なんとか言葉を出した。

 

「なんのようですかじゃねえよ。毎日学校を休んでいるみたいだから、心配で連絡したんだよ」

 

そんな気は全くなかったが、翼は玲美に向かっていった。

 

その言葉を聞いたとき、突然玲美の中に怒りが湧き出した。

 

「先輩があの写真を他の人に送るからいけないんじゃないですか!!本当に許せない。あの写真を消してください。じゃないと私、死にます!!」

 

翼にむかって大声で叫んだ。

 

「死ぬ気もねえのに、死ぬ死ぬ言うんじゃね~よ。だったら死んでみろよ。そしたら写真を消してやる」

 

翼の言葉に、玲美は一瞬躊躇した。しかし玲美の精神状態はもう崩壊していた。

 

死ぬことで、楽になるのではないか。たった独り、そう毎日考えていた。

 

公園の脇に流れている川に向かった。翼、七海は笑みを浮かべながら着いてくる。興味本位で小学生の何人かも後に続いた。

 

玲美は川を囲んである柵に手を掛け登っていった。川の岸までそこから約5メートルほどの高さがある。

 

しかし、玲美は躊躇なく飛び降りた。足から腰に掛けて、強い衝撃が走った。痛さに顔をしかめた。

 

痛みが治まると、玲美は1歩ずつ川の方に向かった。

 

その時、玲美に恐怖が襲いかかった。

 

やっぱり死にたくない。

 

玲美はポケットからスマホを取り出すと、中学校に連絡を入れた。出た人間に対し、

 

「助けてください!!先輩に川に飛び込めと言われて、公園の脇にある川に、これから飛び込みます。助けてください」

 

必死で訴えた。

 

「なに電話なんかしてんのよ。早く飛び込みなさいよ!!」

 

後ろから七海の声がきこえた。振り返ると笑いながら玲美を見ている。

 

その姿を見た後、玲美は頭から冷たい川に飛び込んだ。

 

冷たい川に流されている最中、玲美の耳には、大きな笑い声が聞こえてきた。

 

       6

 

仕事中の久美のスマホが鳴り出したのは、久美が一段落し、すこし休憩している時だった。

 

スマホには中学校の文字が表示されている。

 

久美は嫌な予感がした。

 

「もしもし、倉田ですけど」

 

「玲美さんのお母さんですか?すぐに公園に来てください。たった今、玲美さんから公園の川に飛び込むと学校に連絡がありました」

 

「えっ。どういうことですか?玲美は家で寝ているはずですけど」

 

「詳細はわかりませんが、すぐに教員を向かわせています。お母さんもすぐに来てください」

 

その報告を聞いて、久美はすぐに自分の車に飛び乗ると、公園に向かった。

 

玲美は川の下流約10メートルほどのところで駆けつけた教師に助けられていた。

 

玲美が飛び込んだ川はそれほど幅がなく、深さもなかったため、命に別状はなかった。

 

ただ錯乱状態になっており、教師に抱えられながら

 

「死にたい、もうやだ!!」

 

そう言いながら暴れ続けた。

 

その時、

 

「ウ~ウ~」

 

パトカーのサイレンが鳴り響いた。誰かが警察を呼んだらしい。

 

警察官2人がパトカーから降り、七海のところに歩いてきた。

 

その瞬間、七海は震え動けなくなった。まさか警察が来るとは思いもしなかったのである。

 

「君、状況を見ていたの?なんでこの娘は川に飛び込んだかわかる?」

 

一人の警察官が七海に聞いてきた。七海は驚きと恐怖で頭が真っ白になった。

 

「この娘、母親から虐待されてて、それが嫌で川に飛び込んだんですよ」

 

七海の横から声がした。翼だった。

 

「僕たち今日、相談を受けてたんですけど、急にあの娘が柵を乗り越えたんです。そして川に飛び込んじゃって。僕たちは止めたんですけど」

 

翼はへ以前と答えた。

 

「そうか、それはいけないな」

 

一人の警察官が答えた時、翼は小さ笑みを浮かべた。

 

その時、久美が現場についた。教師に抱きかかえられながら、死にたい、死にたいと叫ぶ玲美をみて、すぐに玲美に駆け寄ろうとした。

 

その時、なぜか久美は警察官に止められた。

 

「何ですか?私はあの娘の母親です」

 

「お母さんですか、これからこの娘を病院に運びます。お母さんは別のパトカーで来てください」

 

「なんでですか!!娘の近くにいさせてください」

 

「詳細は後でお話ししますので」

 

久美はその言葉に困惑した。警察官の言っている意味がわからない。なぜ一緒にいてはいけないのか?

 

「おまわりさん、これはいじめだよ」

 

急に横から声がした。見ると年配の女性が立っている。

 

「私が一部始終を見て警察に連絡したんだよ。あの娘が川に飛び込んだ後も笑いながら携帯電話で写真を撮って、助けようともしなかったからね」

 

どうやらこの年配の女性は、すぐ近くに住んでいて、警察に連絡してくれた人らしい。

 

「そうなんですか・・・」

 

警察官は困惑した表情を浮かべたが、その年配の女性の言うことを信じたらしく、久美も一緒に行くことを許可してくれた。

 

一部始終を見ていて、警察にことの説明をしてくれたこの女性がいなかったら、その後久美は警察でどのような調査を受けることになったかわからない。

 

結局、玲美は搬送された精神病院に入院となった。川に飛び込んだ行為が、自傷行為

判断されたためだった。

 

なんでこんなことに・・・。病院のソファーに座り、久美は流れ出る涙を何度もハンカチでぬぐった。

 

 

その頃、玲美が通う中学校は騒然となっていた。急に玲美から連絡があり、鬼頭はすぐに男性教師を向かわせた。

 

命に別状はないと聞かされ、ほっと胸を撫で下ろしていた時、警察から連絡が入り、いじめの可能性が高く、調べてほしいと連絡があったのだった。

 

大前校長と鬼頭教頭はすぐに成沢を呼び出し、話を聞いてみると、ここでようやく成沢は白状した。

 

以前から倉田玲美にいじめの相談を受けていたこと。いじめている人間は3年生の小林翼と向井七海。

 

小林翼に裸の写真を送れと言われ、送ってしまい、その写真が他の生徒にまわっている。

 

母親からは精神科を受診した時、医師からPTSDと診断された事

 

「その話をなぜもっと早く報告しないんだ!!」

 

大声で叱責したが、成沢はすいません、すいませんと泣くばかりで話にならない。

 

まずいことになった。鬼頭は思った。もしこの事が表に出たら、R市教育会にすぐに知れわたってしまう。

 

そうなると、この中学校の教頭をしている鬼頭の成績がかなり減点される。これから受けようとしている校長試験にもかなりの影響が出るだろう。

 

この事が他の中学、そして教育委員会に知られなければいいが・・・

 

鬼頭は成沢を怒鳴りつけたが、結局は自分の身の保身を最重要に考えていた。

 

生徒を第一に考えなければならない立場は成沢と同じはずなのだが、結局は自分が第一。

 

成沢と鬼頭は結局のところ、同じ穴の狢だった。

 

久美は玲美に付き添い、ずっと病院にいたが、病院から玲美は落ち着いていると言われたため、渡された荷物を持ち、一端家に帰った。

 

長い入院になりそうです。主治医からはそんな言葉が伝えられた。

 

 

久美は一人家に帰り、渡された荷物を見た。着ていた服はびしょびしょに濡れていた。

 

「あれはいじめだよ。川に落ちた女の子を他の子供たちは笑いながら携帯で写真を撮っていたからね」

 

年配の女性の言葉を思い出した。

 

なんで玲美が川の中に落ちているのに、笑っていることができるの?

 

本当に人間が出来ることなの?

 

玲美はどれほど辛い思いをしたんだろう

 

そう考え、濡れている服を見ると、涙が止まらなかった。

 

病院に入院することになったが、玲美はこんなことされて元気になるのだろうか

 

久美はいじめている子に激しい怒りを覚えたが、怒鳴り込むわけにもいかない。

 

玲美、辛い思いさせてごめんね。

 

濡れた衣服を抱きしめながら、その場で嗚咽した。

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キヌガサさん (老人医療の過ち)

 

          1

特別養護老人ホームとは、正式には介護老人福祉施設という。基本的には寝たきりの人が入所できる施設

 

要介護3以上でないと入所はできない。しかし現状では、安く入所できる点などで、希望者が多く、ほとんどの特別養護老人ホームは入所待ちの人が100人越えは当たり前

 

そのためか、要介護3では、ほとんど入所対象にはなりません。最低でも要介護4から入所の対象になるのが現実です

 

では、要介護4、5とは、どのような身体状態の方が認定されるのでしょうか?

 

それは完全に寝たきりであること

 

寝たきりで、排泄はおむつ、認知症の方はだいたい、要介護4、5に判定されます

 

つまり、特別養護老人ホームで生活されている人はほとんどの人、いや、ほぼ全員の方が寝たきりなのです

 

私がまだ介護現場で働いていた時、忘れられない方がいました

 

その話をしようと思います

 

 

         2

 

私の勤める特別養護養護老人ホームに一人のおじいさんが入所されていました

 

名前は衣笠さん、私の中でそのおじいさんのことを、鉄人と心の中で呼んでいました

 

衣笠さんは珍しい名字で、今は亡き、元広島カープの鉄人衣笠祥雄さんと同じ

 

日本プロ野球記録、2215試合出場した方と同じようにこの方は、鉄人だと私は思っていました

 

いや、ここにいる衣笠さんは、プロ野球選手、鉄人衣笠より鉄人なのです

 

その理由は既往歴。つまり今までどのような病気を患ってきたのか。それがすごい種類なのです

 

まず60代で胃癌、70代で肺癌、心筋梗塞、80代で脳出血、胆石、胆管炎、80代後半で脳出血の再発。90代で前立腺癌、心不全誤嚥性肺炎、大腿骨骨折

 

それ以外でも基礎疾患として、糖尿病、高血圧、腎臓病、、尿管結石、認知症・・・

 

衣笠さんはそれらの数えきれないほどの、大病を乗り越え、現在の年齢98歳まで生きています

 

そして、私の勤める特別養護老人ホームにいるのです。

 

これらの病気を乗り越えて生きてきているのです。この人を鉄人と呼ばず、誰を鉄人と呼ぶのでしょうか?

 

ただ、身体状態は寝たきりで、話しかけてもほとんど反応はありません

 

5年ほど前に胃瘻の手術をしており、ご飯はこの5年間食べれていません

 

寝たきりのため、1日中ベッドの上での生活をしています

 

当時私の上司の介護主任が、

 

「せっかく98歳まで生きたんだから、みんなで力を会わせて100歳まで生きてもらいましょう」

 

何て意味のわからないことを言っていました。

 

まだ介護を始めたばかりの私にとっては

 

この状態であと2年も生きなくてはならないのか・・・地獄だな

 

私は心の中ではそう思いましたが、決して口には出しませんでした

 

衣笠さんは、3ヶ月に1度、必ず誤嚥性肺炎になり、病院に入院しました

 

胃瘻でご飯を全く食べていないのに、どうして誤嚥性肺炎になるんだと不思議に思う方もいると思いますが

 

本人の唾液、痰や胃液の逆流で、誤嚥性肺炎になってしまうことがあるそうです

 

入院するとき、私は衣笠さんと会うのは最後かな、年齢や体力を考え、いつもそう思いました

 

しかし、衣笠さんは2週間ほどすると、何事もなかったこのように退院してくるのです

 

本当に鉄人だ

 

退院してくる度に、私はそう思わずにはいられませんでした

 

衣笠さんには一人娘がいました。週に1度は必ずここを訪れ、洗濯物を取りに来たり、顔を見に来ていました

 

娘さんといっても年齢は70代後半。足が悪く、歩く時は足を引きずりながら歩いていました

 

娘さんはお見舞いに来ると、衣笠さんに必ず話しかけます。

 

認知症が進んでしまっている衣笠さんでしたが、娘さんの事はわかるようで、娘さんが顔を出すと、声にならない声を出して、娘さんに話しかけていました。

 

内容はほとんどわかりません。

 

でも施設職員が、何度も話しかけても、全く反応すらしない状態でしたから、娘さんの事は絶対わかっていたのだと思います。

 

このような状態になってしまうと、家族の事も忘れてしまう。そんな認知症の人が多いのに・・・

 

その、声にならない声を聞くたびに、やはり衣笠さんは鉄人だ

 

そう私は思いました。

 

娘さんが、なぜ足を引きずるように歩いているかというと、10年程前まで、衣笠さんを自宅で介護していたそうです。

 

ただ、男性は年を取っても体重が重く、介護が大変。数年が経過した時、腰椎すべり症になってしまい、強い腰の痛みが、襲うようになってしまいました。

 

もう、その頃の衣笠さんは脳出血の後遺症で、ほとんど今の状態と同じように、寝たきりの生活だったといいます。

 

長い介護生活が、娘さんの腰を蝕んで行ったのでしょう。しかし、衣笠さんの介護のため、強い腰痛を我慢してしまった結果、手術をしても、あまり回復せず、足を引きずるような歩き方になってしまったそうです。

 

その話を娘さんから聞いたとき、私は驚きました。

 

衣笠さんは、10年以上前から、寝たきりの生活を送っている方だったのです。

 

子供が生まれ、小学校3年生になっているその膨大な時間を、ベッドの上だけで過ごしているというわけです。

 

介護主任の

 

「衣笠さんは、あと2年で100歳。それまで頑張って介護していきましょう」

 

という言葉は、娘さんの話を聞くと、余計違和感を感じてしまうのです。

 

脳出血脳梗塞くも膜下出血などの脳血管疾患は、とても恐ろしい病気です。

 

脳の細胞が壊死してしまうと、体の半分が動かなくなってしまいます。

 

ベッドから起きられない、歩けないから始まり、言葉がうまく話せない、視界の半分が見えなくなる。ご飯が食べられなくなる。性格が変わり怒りっぽくなる。

 

娘さんは、脳出血の後遺症で、怒りっぽくなってしまい、時折暴力を振るわれる事があり、それが介護している中で、腰痛より辛かったそうです。

 

何度か娘さんとお話ししているうちに、仲良くなり、

 

「衣笠さんて、元気な時はどういうひとだったんですか?」

 

私は娘さんに聞いてみました。

 

介護を仕事としている人なら、寝たきりになったとしても、その人がどのような人生を送ってきたということは、気になるものです

 

私の質問を聞いた娘さんは、顔を下に向け、少し悲しそうな顔をしました。

 

その表情を見て、私はいけないことを聞いてしまったのかな?

 

そう思い、緊張しました。

 

「すいません、変なことを聞いてしまいましたかね」

 

個人情報保護がうるさいこの時代、その人の個人情報を、気楽に聞いてしまったことを私は後悔しました。

 

しばらく沈黙が続いた後、

 

「実はね、私が物心ついたときには、お父さんはいなかったの」

 

娘さんは下を向きながら言った。

 

「えっ。いなかったってどういう事ですか?」

 

「母や兄弟から聞いた話なんだけど、父は仕事もせず、ギャンブルばかりしていて、時には母親や兄弟、私に対して暴力を振るっていたの。つまり虐待ね」

 

「本当ですか?」

 

「それで、私が物心ついたときには、他の女の人をつくって、蒸発しちゃったのよ」

 

「嘘でしょ」

 

人間のくずじゃないか

 

私は衣笠という珍しい名字のため、広島カープの鉄人衣笠さんみたいに、人に感動や勇気を与え続けていた人生を送ったのだと勝手に思っていたが、本当は真逆の人生。

 

「でも、蒸発してしまったのなら、どうして娘さんが介護してるんですか?」

 

「それがね、突然役所から電話が掛かってきて。父が80歳の時に、脳梗塞になったの。まあ、その時は、軽いものだから後遺症は残らなかったけど・・・」

 

「でも、父はお金を持ってなくて、病院の入院費が払えなくて、病院の人が親族を探したらしいわ。役所には戸籍謄本があるでしょ。それで、私のところに連絡後来たの」

 

「それで、入院費は払ったのですか?」

 

「私には兄が2人いてね。相談したら、あんなくそ親父の入院費なんて一切払うな。そう突っぱねられたけど、私にとっては唯一の父親だから、仕方なく払ったわ」

 

なんていい娘さんなんだ。もしも同じ立場だったら、私は間違いなく払わない。

 

「それで、会って話を聞いたんだけど、びっくりしたわ。一緒に蒸発した女性からは逃げられ、窃盗とか犯罪を繰り返していたの」

 

「は、犯罪ですか・・・」

 

時々刑務所にも御厄介になったらしい。正真正銘のくずだ。私の衣笠さんのイメージは完全に崩れ去った

 

娘さんが、引き受けず放ったらかしていたら、生活保護に加入出来ていたかもしれない。

 

しかし、私はその考えを頭の中から消し去った。元気な時は好き勝手やっておいて、年を取ったから税金で暮らさせてくれ

 

私はそう言う人が大嫌いだったからだ

 

生活保護を受けることは否定しない。頑張って生きていても、今の世の中、どうしても貧困から抜け出せない人も多いだろう。そういうひとが受給するなら文句は言わない

 

当時の私、今もそうだが、安い給料から社会保障費が天引きされ、頭に来ている一人だった。

 

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娘さんからその事実を聞いてから、私の衣笠さんに対する対応は大きく変わった。以前は尊敬する人生の先輩のように、ひとつひとつの介護を、慎重、丁寧にやっていたが、最近は丁寧にやる気もなくなり、とにかくスピードを重視し、介護がおおざっぱになった。

 

ここは特別養護老人ホーム自治体からかなりの補助金が出ているし、衣笠さんは、要介護5だから、月に30万円位の介護保険料が自治体から支給される。

 

安く生活出来るため、入りたい人は大勢いる。

 

頑張って生きてきても、年金は国民年金6万円なんて人も多い。

 

そんな人は普通の老人ホームでは高くて生活できない。

 

特別養護老人ホームに入れず、介護難民なんて人も多くいる。

 

なぜこんな、若い時に好き勝手やっていた、犯罪までおかした人が、ここで生活を送れるのか。

 

私には意味がわからなかった。

 

介護主任がよくいう、100歳まで頑張って生きてもらいましょう。

 

その言葉は以前より意味がわからなく感じた。

 

早く死んでしまえばいいのに・・・

 

そう思うこともあった。子供達を虐待し、その上蒸発。それから犯罪をしながら生活を送っていた人を、なぜ私達は、高齢で寝たきりになったからといって、大切に扱わなければならないのか。

 

当時は本当に疑問だった。

 

衣笠さんが、もうすぐ99歳を向かえようとした時、娘さんの様子が徐々に変わってきた。

 

以前よりも歩く時、足を引きずるようになり、歩くスピードも極端に落ちている。

 

「どうしたんですか。足の調子悪くなってしまったのですか?」

 

私が心配になって聞いてみると

 

「前は腰が痛かったんだけど、今度は足も痛くなってきたの。整形外科の先生に見てもらったら、坐骨神経痛も併発したんじゃないかって」

 

坐骨神経痛ですか。それは大変ですね。私も罹ったことありますけど、めちゃくちゃ痛くないですか?」

 

「そうなのよ」

 

坐骨神経痛。介護を始めて私もすぐになってしまった。

 

坐骨神経は脊髄から太ももにかけて走っている神経で、脊髄が狭まると、坐骨神経が圧迫され、動いた時に腰から足にかけて激痛が走る。

 

どのくらい痛いかというと、腰や膝を曲げると激痛が走るため、酷いときにはパンツを履くことが出来なくなる。

 

靴下を履くのが一番きつい。

 

さすがにパンツを誰かに履かせてもらうわけにはいかないので、激痛に耐えながらパンツを履いたことを思い出す。

 

「痛みが治るまで、家で静かにした方がいいんじゃないですか?」

 

その痛みを経験している私は心配になり、娘さんにそう言ったが

 

「父の着替えも取りに来なければ行けないし、顔を見せないと寂しがると思うから」

 

娘さんはそう答えた。

 

しかし、99歳の誕生日を迎えた日から、娘さんは全く姿を見せなくなった。

 

この施設では、入所している方の誕生日会を必ず行う。

 

その時、足を引きずりながら、娘さんと職員で、衣笠さんの誕生日を祝った。

 

介護主任が

 

「100歳まであと1年ですね」

 

笑顔で娘さんにそう言った。しかし、娘さんはなんとも言えない悲しそうな顔をしていた。

 

私もその言葉を聞くたびに、嫌な気持ちになるのだけれど。

 

100歳まで生きる。この事になんの意味があるというのだろう。

 

日本には100歳を越える人が、5万人もいるそうだ。たいして珍しくない。

 

 

私は健康で、笑顔で生活しながら100歳を迎えるということは素晴らしいと思っている。

 

しかし、衣笠さんのように、寝たきり、認知症、胃瘻で100歳まで生きることになんの意味があるのか?

 

全くわからない。

 

(いや、何歳だろうと寝たきり、認知症、胃瘻で生き続けなければならない意味がわからない)

 

自分の子供を虐待し、無責任にも他の女性と蒸発した挙げ句、犯罪に手を染め、今に至る人ということも、疑問に拍車をかける。

 

体調が悪いのだろうか、そう心配していた私の耳に驚くべき情報が入ったのは、それから1ヶ月位経過してからだった。

 

         

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私を驚かせた情報というのは、娘さんが今入院中であるということだった。

 

病名は癌。

 

しかも元は胃癌であったが、進行し、足の骨に転移している状態らしい。

 

つまり末期の状態。

 

先日娘さんの旦那さんが、施設に洗濯物を取りに来て、その話をしたそうだ。

 

そして、主治医から余命はもって3ヶ月と言われてしまったそうだ。

 

娘さんは、最近かなり足の痛みを訴えていた。坐骨神経痛と言っていたが、まさか癌が転移しているなんて・・・。

 

義兄に相談したが、衣笠さんに会った途端、虐待されていた事を思い出してしまうので、会うのは絶対に無理だと言われ、旦那さんは頭を抱えているという。

 

私は言葉にはならない悲しさを覚えた。

 

衣笠さんは、娘さんが生まれてから死ぬまで娘さんに迷惑をかけてしまうんだな。

 

衣笠さんを引き取って、自分で介護しなければ、腰を痛めることもなかったし、もしかしたら癌になることもなかったのかもしれない。

 

この人は、始めに言った通り、信じられないほどの病気に罹り、その都度復活してきた。

 

私はすごいと始めの頃感じていたが、復活せず、死んでしまった方がよかったんじゃないか?

 

そう思うようになってしまった。

 

長寿大国日本。

 

最近、健康寿命なる意味のわからない言葉が生まれている。

 

ちなみに男性の平均健康寿命は男性が74歳だそうだ。

 

日本の男性の平均寿命は81歳なのだから、約7年間も健康ではない生活を送り、死に至る事になる。

 

恐ろしい統計だ。

 

健康ではなくても、7年間も生きていかなければならない。いや、進みすぎた医療により生かされなければならない。

 

衣笠さんも例外なく、進みすぎた医療によって生かされている人間だ。しかも25年も。

 

考えただけでゾッとしてしまう。

 

そして、心配していたことが現実となった。

 

それから1ヶ月後、娘さんがお亡くなりになった事を知ったのだ。

 

その事実を知ったとき、娘さんがあまりにもかわいそうで、仕事をしながらではあるが、悲しくて泣いてしまった。

 

役所から父を介護してくださいと連絡があったとき、娘さんはどれほど葛藤しただろう。本当は、他の兄弟と同じように、引き取りたくなかったのではないだろうか?

 

しかし、自分の良心に従い、父親を引き取ったことで、自分の首を絞めることになってしまった。

 

そう考えると、悲しくて涙を止めることは出来なかった。

 

日々は流れていく。

 

娘さんが亡くなって1週間が経過した。衣笠さんは、寝たきりのため、娘さんの葬儀に出席することは出来なかった。

 

娘さんが死んでしまったことも知らない。

 

言ったところで、認知症によりいつもコミュニケーションが取れない衣笠さんに伝えたとしても、理解できるかわからない。

 

その事が私達、介護している職員は言葉に出来ない空虚感に襲われていた。

 

そして、1ヶ月が経過した時だった。衣笠さんは体調を崩した。

 

微熱や咳などの症状が続き、経験上から誤嚥性肺炎を患っていることが推察できた。

 

その時、施設の看護師は、いつものように病院に運び、治療を受けさせるという決断をした。

 

意味がわからない。本当に意味がわからない。

 

私は言葉に出さなかったが、心の底からそう思った。

 

もう衣笠さんに会いに来る人はいない。兄弟は2度と会いたくないと言っている。

 

娘さんの旦那さんは、その事で頭を抱えている。

 

そんな人を高い治療費を使い、治療する必要があるのだろうか?

 

その高い治療費は、私達の税金から支払われる。

 

この人は健康寿命は、とうの昔に終え、平均寿命も越えている。

 

何度もいうが、誤嚥性肺炎が治ったところで、ベッドでの生活は変わらない。

 

こんな医療になんの意味はあるのか!!!

 

しかし、冷静になり違う考えが浮かんできた。

 

もしかしたら、娘さんが迎えに来たのかもしれない。

 

このタイミングで肺炎を起こすということは、その可能性もあるのではないのか?

 

施設の車で、衣笠さんを病院に送り出した。

 

その時、私は本当にこれが衣笠さんと会うのが最後だと、なぜか確信に似た思いが、心の中を占めていた。

 

頭を下げ、発進する車を見送った。

 

そして、2週間が経過した。

 

衣笠さんは、私の働いている特別養護老人ホームのベッドの上にいる。

 

いつもは退院するのに2週間位かかるが、今回は1週間で完治し、施設に戻ってきたのだった。

 

戻ってきた時、私はこのようにして人間を生かしておいていいのだろうか。これは老人虐待ではないのか。

 

そんな恐ろしい考え方が頭に浮かんだ。

 

衣笠さんは、無事100歳を迎えた。

 

衣笠さんはずっと娘さんが来るのを待っていた。

 

        完

 

       最後に

 

高齢化社会を迎える日本。社会保障費の削減は喫緊の課題である。

 

しかし、この話のような寝たきりのお年寄りが、何度も病院に入院し、多量の抗生剤を投与され回復し、退院を迫られる。

 

こんな状態が日本中、どこでも行われている。

 

このようなことをしていては、医療費、社会保障費が莫大に増えるのは当然である。

 

お年寄りの医療は、若者と違い、良くならない。ということを、医者だけではなく、私達も十分理解しておかなければならない

 

健康寿命を越え、そして平均寿命を越えてしまい、寝たきりになり回復することはほとんどない。

 

この物語において、主人公のお年寄りに対する医療は間違いであり、なんの意味もないことだと私は思う。

 

人がこの世を去るときに笑顔で、あの世に行けるようにみんなで考えなければならない。

 

日本政府には是非とも安楽死の導入をお願いしたい。

 

※この物語はフィクションです。物語に登場する人物名などは、作者が脚色したに過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

権力との闘い

 

        1

私の名前は織田和真。43歳。会社をいくつか経営している。つまり社長。

 

私の会社は始めこそ経営が苦しかったが、今は増収、増益。

 

周りの社長からも一目置かれる人間だ

 

大学はもちろん赤門。赤門の大学以外は大学ではない。

 

車はレクサス。キャッシュで買った。

 

金には最近困ったことがない

 

結婚して、子供も2人いる。妻は会社一の美人。家に帰ればいい夫、いい父親を演じてはいるが、愛人が3人いる。

 

愛人はもちろん、性の対象としかみていない。つまり遊び。

 

 

2人は会社でも1、2を争う美人。もう一人は銀座のホステスだ。

 

 

社長の上、顔もかっこいいから、女にはもてる。向こうから言い寄ってくる。仕方なく付き合ってやっている。そんな感じだ。

 

俺には弱点などない。

 

今日も分単位で仕事をこなしていく。

 

時計はロレックス。着ているスーツは、ドルチェアンドガッパーナ。靴はサントーニを履いている。車もそうだが、俺は一流の物しか買わないようにしている。

 

なぜなら俺は一流の人間だからだ。

 

一流の人間は、一流の物しか身につけない。常識的な考え方だ。

 

今日も朝から会議がある。愛車のレクサスを運転しながら、会場に向かう。

 

一流の人間は時間にルーズであってはならない。私は遅刻することが大嫌いだし、遅刻する人間は付き合いたくない。

 

だから、誰よりも会議場につくことをモットーとしている。

 

車を運転している途中、

 

「ピーーー!!」

 

突然大きな笛の音がなったかと思った瞬間、突然人が飛び出してきた。

 

慌ててブレーキを踏み、車を止める。

 

急に飛び出してきた人間は、どうやら警察官らしい。

 

なんのようだ?シートベルトは着けているし、スピードも出していないはず。

 

織田が車を止めると。前に出てきた警察官がゆっくり織田の車に近づいてきた。

 

窓を開けると、警察官は織田に向かい

 

「運転手さん、前の交差点で、一時停止してないね」

 

一時停止していない。ルームミラーで後ろを確認した。確かに一時停止の標識があった。

織田はそれを確認し、一時停止をして、左右を確かめて車を前に出したはず。

 

「いや、一時停止しましたよ」

 

織田か反論すると

 

「いや、運転手さん。確かに一時停止しているんだけど、停止線を越えてから止まったよね。それだと違反になっちゃうんだよ」

 

「は?停止線の前で止まってますけど」

 

「いや、ちゃんとこちらも確認して声をかけているわけだから間違いないよ」

 

ここの交差点の停止線は、少し手前に引いてあり、そこで止まったとしても、左右が安全か確認が難しい。

 

だから停止線を少しだけ越えていたのかもしれない

 

多分警察は、そこを熟知していて、一時停止した車でも、少しでも停止線から出ていたら、根こそぎ捕まえるため、ここでネズミ取りをやっていたのだろう。

 

 

ここで止まった、止まらないの水掛け論をしていても仕方がない。

 

織田は諦めて、渡された書類にサインをした。

 

サインをしている最中も、次々に他の車も捕まっていく

 

きたねえなぁ

 

そう言いたいが相手は警察。喉まででかかった言葉を飲み込んだ。

 

「運転手さん、2点の減点と、反則金7千円、銀行に振り込んでください」

 

「わかりましたよ」

 

そう言って車を出した。

 

一時停止違反の対応をしていたため、結局会議には、5分ほど遅刻してしまった。

 

会議が終わると、一人の社員が話しかけてきた

 

「社長、今日は珍しく遅刻しましたね。何かあったんですか?」

 

「実は近くの交差点で、一時停止違反で警察に捕まってね。それで遅くなったんだ。悪かった」

 

「社長が捕まった交差点って、この先にある交差点ですか?」

 

「そうだよ」

 

「やっぱり、災難でしたね。あそこはよく警察が張っていて、みんな捕まりますよ」

 

その社員によると、私の思った通り、停止線が手前に引いてあるため、そこで止まらず、少しだけ進んだところで止まり、左右を確認する車が多い。

 

それを警察がどんどん取り締まっているという。

 

「じやあ、あそこの交差点で捕まらないようにするには、どうしたらいいんだ?」

 

「まず、停止線の前で3秒とまります。その後ゆっくり車を出しながら、左右を確認して、道を渡るんですよ」

 

「そんな馬鹿な話があるか!」

 

「警察も必死なんですよ。反則金が入ると見込んで一年の予算を立てていますから。ノルマみたいのはあるんじゃないですか?」

 

その話を聞いて、また気分が悪くなった。

 

予定を変更し、愛人のホステスのところに向かった。

 

行為はイライラのためか、相手も困惑するほど荒っぽかった。

 

        2

 

 

織田は、首都高を走っていた。もちろん会議があるためだ、しかし、運転している織田の表情は固く、額からは汗がにじんでいる。

 

「いったいここはどこなんだ?」

 

首都高の中で迷子になっていた

 

自分には弱点はない、そういったが、方向音痴ということが、織田和真にとって唯一の弱点だった

 

すごいスピードで走りながら、行く先を瞬時に判断しなければならない

 

京橋から首都高に乗り、横浜を目指すはずだったが、同じようなところをぐるぐる回っているだけで、全く横浜に向かっている気がしない

 

首都高を走り始めて1時間が経過している。東京を出てもいい時間なのに・・・

 

前を凝視しながら運転していると、信じられない標識が織田の目に飛び込んできた

 

浦安まであと30キロメートル

 

さすがに慌てる。このままでは千葉にいってしまう。全くの逆方向だ

 

仕方なく、葛西インターで、一旦首都高を降り、逆に進むことにした

 

降りてすぐの交差点で、Uターンをし、また高速に乗ろうとした瞬間

 

「ウ~ウ~」

 

すぐ後ろで音がした。ルームミラーを見ると白バイがすぐ後ろについている

 

なんだろう・・・

 

そう思いながら、車を道の脇に寄せた

 

白バイ隊員は、織田の車に近寄ると

 

「運転手さん、あそこの交差点ね、Uターン禁止なの。標識見えなかった?」

 

そう聞いてきた。

 

こんなところ初めてなので、そんなことわかるはずはないか、後ろを見ると、確かにUターン禁止の標識がある

 

「2点減点と、7千円の反則金

 

織田が書類を書いているときに、白バイ隊員は言った

 

納得がいかない。

 

多分自分のような首都高を走りなれていないドライバーが、間違えて千葉方面に行ってしまうことに焦り、ここのインターで一旦降りて、この交差点でUターンする人が多いのだろう

 

それがわかっているため、この白バイ隊員は張っていたのだ

 

迷路のような首都高。こうやってUターンするドライバーも多いだろう

 

もはや入れ食い状態

 

自分が悪いのは十分納得しているが、なぜか腹が立つ

 

「運転手さん、安全運転で」

 

そう言われたが、織田は無視して車を発進させた

 

        3

 

ある日、織田は額に大汗をかけながら車を走らせていた。苦悶の表情で、歯を食い縛っている

 

自分の弱点は方向音痴しかない、そう以前言ったが、お腹が弱いというのも弱点のひとつだった

 

ほんの数分前までは、全く普通に運転していたが、突然の腹痛に襲われ、いつ漏らしてしまってもおかしくない

 

そんな緊急事態に襲われていた

 

そういうときに限って、通過する信号には必ず引っ掛かり、額の脂汗もポタポタとたれている

 

これから大事な会議だ。絶対漏らすわけにはいかない

 

気持ちは焦るが、前の車は全く進まない

 

下の圧力も増してきている

 

もはや万事休す・・・

 

「仕方がない」

 

織田は左に曲がった。裏道を進む

 

こういう時のために、織田の赤門出身の頭脳には、コンビニや公衆トイレなどの場所が、叩き込まれている

 

この道を真っ直ぐ進めば、少し先にコンビニがある

 

そこまでの我慢だ

 

そう言い聞かせ、アクセルを強く踏む

 

もう残された時間は数分もない。早く行かなければ

 

 

「ピーーーー」

 

その時、大きな笛の音が聞こえた。そして数メートル前に警察官が現れ、車を寄せるように右手に持った棒を横に振る

 

しまった

 

あまりの下痢の激しさにスピードを出しすぎていた

 

警察官が近寄ってくる

 

「おまわりさん、違うんだ。お腹の調子が悪くて、スピードを出さないと間に合わない」

 

今の織田には恥も外聞もない。とにかく43歳なのに、ウンコを漏らすわけにはいかない

 

「ハイハイ、そう言って言い逃れする人、結構いるんだよね」

 

必死に訴えているにも関わらす、警察官は無表情。全く織田の話を聞こうとしない

 

税金で飯食っているのに、何て態度だ!

 

「本当なんだ、今この瞬間出ても不思議じゃない!!トイレだけ行かせてくれ!!」

 

織田は必死に懇願した。

 

「ハイハイ、免許証みせて」

 

その状態でも警察官は全く異に介さず、話を進めようとする

 

「25キロ超過、反則金は1万五千円」

 

「ちょっと、こっちの話も聞いてくださいよ!!」

 

そう、大声を出した瞬間、織田のお尻から何かが少し出た感覚がした

 

もう・・・だめだ

 

「おまわりさん、パトカーの中で書類書いてもいいかな?」

 

「なんで?」

 

「車を、人にみられるのが困るんだ。けっこう目立つし」

 

「そうか、じゃあこちらに来なさい」

 

警察官の誘導のもと、織田はパトカーの後部座席に乗り込んだ

 

そして、ゆっくりベルトを外し、ズボンを下ろす

 

「ぶりぶりぶりぶり~~」

 

不快な音が後部座席に響き渡った

 

「貴様、パトカーの中でなんてことを!!」

 

彼の権力との闘いは続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある老人保健施設の1日

介護保険制度の中で、老人保健施設という老人ホームがあることをご存じだろうか?

 

入所費用は安く、おむつも施設負担。そんな施設が存在する

 

当然、入所費用は安いため、他の施設より人気がある。

 

介護保険制度の老人保健施設の役割は、病院と自宅の間の存在。

 

病気で入院して、身体状態が下がってしまった。例えば入院中寝てい時間が多く、体力、歩行状態が下がってしまったため、老人保健施設で、リハビリをして、自宅に戻る準備をする、そんな役割をしている。

 

 

老人保健施設に入所する目的はあくまで、自宅に帰ること。

 

 

最近介護保険料金の増加によって、入所期間が厳しくなり、入所して介護度の低い人は3ヵ月、重い人でも6ヶ月以内には、老人保健施設を退所しなければなりません。

 

老人保健施設の役割、そして介護の矛盾を皆様に知ってもらうために、老人保健施設のある日常をみてもらおうと思います。

 

 

     老人保健施設の日常

 

「長井さん、今日もリハビリ頑張りましたね。歩くのも少しずつ安定してきてるじゃないですか」

 

理学療法士の百瀬は、最近入所してきたおばあちゃん、長井さんに向かい、笑顔でそう話しかけた。

 

「ありがとう」

 

長井さんはそう言って部屋に戻っていった。理学療法士の百瀬はここの老人保健施設に入って約1年。まだ新人の部類に入る

 

この仕事が楽しくて仕方がない。お年寄りが少しでも元気になるお手伝いができる

 

お年寄りには先生、先生と呼ばれ、感謝されるし、毎日が充実していた。

 

先ほどリハビリをしていた長井さんというおばあちゃんは、1ヶ月前に自宅で転んでしまい、左足を骨折してしまった。

 

病院へ救急車で運ばれ、すぐに手術をした。

 

結果は成功。無事に手術ご終了したが、最近、病院の入院日数は恐ろしく短い。

 

手術をして、足の痛みがまだ引かないうちに、退院するように主治医から言われてしまった。

 

まだ足も痛く、歩ける状態ではないため、家には帰ることはできない。

 

退院の時期になったが、まだ歩ける状態ではないので、老人保健施設に入所し、リハビリをして歩けるようになったら家に帰る。そういう予定である

 

ただまだ骨折して間がなく、歩くのもふらついてしまう状態だったので、平行棒を何度か往復するくらいからリハビリを始めたばかりだ。

 

理学療法士の百瀬は、自分のデスクに戻り、パソコンで個別リハビリ計画書の作成を始める。

 

介護の世界は、訪問介護やデイサービスなどの介護保険サービスを受ける場合、必ず個別のサービス計画書を作らなければならない。

 

リハビリも例外ではなく、3ヵ月後歩けるようなっていることを目標とし、それまでにどのような運動を、どのくらいするかなどの計画書を作る

 

計画書を作ったからといって、それを達成しなければならない、というわけではない。あくまで計画書。これはケアマネが作るケアプランも同じ。

 

 

80歳を超えて、骨折してしまい歩けなくなったのに、3ヶ月後にはなかったかのように歩けているほど、お年寄りの回復力は強くない。

 

個別リハビリ計画書を作りながら、百瀬は少しでも歩けるようになって、家に帰ることができるようになるといいな

 

そう思った。

 

その日の午後3時40分ごろ。その施設に1人の男が職員入り口から施設に入ってきた。

 

その男の名前は木嶋。もうすぐここで働きだして3年目を迎える介護士だ。

 

とにかく老人ホームは人の出入りが激しい。この老人保健施設も例外ではなく、入って仕事を覚えたと思ったら、すぐ辞めていってしまう。

 

木嶋は3年目ではあるが、この施設職員の中では中堅の部類に入る職員だ

 

ステーションにつくと

 

「だり~よ、帰りてえ」

 

働いてもいないのに、働いている職員に言った。

 

木嶋の今日の勤務は夜勤。午後4時から仕事が始まり、終わるのが次の日の午前9時。かなりの長丁場だ。

 

木嶋が勤める2階にはお年寄りが30人生活している。夜勤者はたった1人。

 

夜勤はとにかく大変。落ち着いている時はいいが、体調不良者が出たり、認知症の人が徘徊したり、コールが鳴りやまない時、1人で対応しなくてはならない。

 

入所者が夕食を食べ終え、遅番の職員と一緒に全員をベッドに寝かせる。

 

今日の遅番は、中津というおばさん。木嶋よりずっと年上で性格もきつい。介護主任の大山とも中がよく、気に入らない職員をいじめ、何人も辞めさせている、

 

全員をベッドに寝かせた後、遅番と2人で一緒にご飯を食べる。相手が中津なので、しゃべることなく沈黙が続き、気まずい空気が流れる。

 

なんでこんなババアとディナーなんだ?若い子なら、楽しい時間なのに・・・

 

木嶋は中津が大嫌いなので、仕事中最低限の会話しかしない。

 

ピロリロ、ピロリロ

 

入所者からのコールが鳴る。中津は当然のように席を立とうとしないため、仕方なく木嶋が対応する

 

「どうされました?」

 

「便が出て、代えてくれや」

 

おじいさんが木嶋に言った。

 

こっちは食事中なのに・・・

 

そう思ったが代えてあげなくてはならない。

 

新しいおむつに交換するとすぐに席に戻り、途中だった夕食を食べ始めた。

 

昔は便を処理した直後の食事は抵抗があったが、いまはカレーでも余裕で食べられる。

 

「さあ、始めましょうか」

 

食べ終えて、少し休憩した後、寝る前のおむつ交換に入る。おむつ交換が終わった部屋から電気を消し、消灯となる。

 

この時、パジャマに着替える人もいるので、この時間は結構忙しい。

 

集中しながらおむつ交換をしていると、後ろに人の気配がした。

 

ゆっくり後ろを振り返ると、今にも転びそうなほど、ふらふらしながら1人のおばあさんが歩いていた。

 

先日入所したばかりの長井さんだった。

 

「長井さん、歩いて転んだら大変だよ。どうしたの」

 

ふらふら歩いている長井さんに素早く寄り添い、体を支える

 

「トイレに行きたくなって」

 

「それならコール押してくださいよ。すぐに手伝いに行きますから」

 

「忙しそうだし、迷惑だと思って・・・」

 

長井さんは申し訳なさそうに言った。その時

 

「どうかしたの?」

 

中津の野太い声がした。やばい、木嶋は瞬時にそう思ったが遅かった。

 

すぐに中津が部屋に入ってきて、2人の状態を確認する。

 

「先日入った長井さんなんですけど、歩いてトイレに行こうとしていました。コールがなかったので気がつかなかったですけど」

 

木嶋の言葉に、中津の眉間にシワが徐々に寄ってくるのがわかった。

 

「ちゃんと見てないとダメじゃない。ヒヤリ、ハット書きなさいね」

 

ヒヤリハットですか・・・」

 

ヒヤリ、ハットとは、介護業界では多く使われる言葉。文字通り、見たことがヒヤリとしたり、ハッとすること。その場面に立ち会った職員は、ヒヤリ、ハット報告書を書かなければならない。

 

転倒などの事故になると、事故報告書という一段階上がる書式になる。

 

内容は、

なぜそのような行動を起こしたか

なぜ気づくことが出来なかったのか

これからどうすればそれを防ぐことができるか

 

基本的にこの点を詳しく記載しないといけない。

 

ただ、その人がなぜそんな行動を起こしたかなんて、読心術を使える人間ではないとわかるわけはないし、介護士は30人を対応しているわけなので、1人に付きっきりというわけにはわけにはいかない

 

おまけにどうすれば、防ぐことができるかなんて、各部屋に防犯カメラをつけても不可能に近い

 

 

つまり、報告書に書くことが大変なのだ。

 

「明日の朝までに、ヒヤリ、ハット報告書を書いて大山主任に提出しなさい」

 

中津は遅番の仕事が終わると、木嶋にそう言い、帰っていってしまった。

 

木嶋は頭を抱える。介護主任の大山は、ヒヤリ、ハット報告書を提出しても、絶対に

 

「ここの詰めが甘い、どうしたら事故にならないかもう少し考えないと」

 

そう言って、せっかく提出しても突き返してくる、そんな細かい性格の人間だった。

 

トイレに行きたいなら、1人で行かせていいじゃん。

 

そう木嶋は考えるが、事はそんな単純ではない。

 

転んでまた骨折でもしてしまったら、もう取り返しがつかない。

 

その上、転んだのは職員が見ていなかったからだ。慰謝料よこせ!!

 

信じられないが、そんなことを言ってくる家族もいる。だったら自分で介護しろよと言いたくなるような、非常識な家族も実際にいる。

 

中津が帰り、1人になった木嶋は机に向かった。

 

ヒヤリ、ハット報告書を取り出し、机に置く。

 

原因は、トイレに行きたい。職員が忙しそうだったのでコールを押さず、1人で行けると思った。

 

こんな感じかな・・・

 

なぜ気づくことが出来なかったのか

 

ここを記載するのが一番困る。

 

人の行動なんて、わかるはずはない。その時はおむつ交換もしていたし、他の部屋で何が起こっているかわかるはずはない

 

木嶋は髪の毛をむしった。夜勤の他の仕事をしなければならないのに、こんなふざけた報告書に時間を割かれるとは・・・

 

 

なんで俺の前を歩いていたのか。中津が第一発見者になれば、あいつが書く書類なのに

 

お年寄りが歩いていました。みんなで気を付けて見守りましょう。

 

それでいいじゃないか、なんで書類が次から次へと増えていくんだ?

 

ペーパーレスの時代なのに。

 

なぜ気づかなかったかなんて、おむつ交換をしている最中に周りの事なんてわかるか?後ろに眼がついてる訳じゃないし、漫画のキャラクターのように、人の気配なんてわからない。

 

排泄介助に入っていたため、他の人の見守りを怠った。

 

こんな言葉しか浮かんでこない。

 

対策として、見守りを頻回に行う。歩く時は歩行器を使ってもらう

 

「これでいいわ」

 

もはやなげやりの感じで、報告書を書くのをやめた。他に仕事は山ほどある。

 

まずは全ての部屋の見回りだ。もしかしたら体調不良で苦しんでいる方や転んでいる方がいるかもしれない。

 

 

1つ1つの部屋を確認していくと、真っ暗の部屋の中に人影が見えた。

 

木嶋は恐る恐る近付いていくと、長井さんが、1人立ち尽くしていた。

 

「長井さん、どうされました?トイレですか?」

 

これを中津に見られたらと思うとゾッとする。転倒して怪我でもされたら困る。今度は事故報告書を書かなければならない

 

「ここはどこかしら。家に帰りたいんだけど」

 

小声で長井さんが呟く。

 

「ここは施設ですよ。長井さんがしばらく生活するところです」

 

「そうだったかしら」

 

長井さんは納得の行かない表情を見せたが、木嶋の誘導でベッドに戻ってもらう。

 

そういえば長井さんは、うまく歩けないから、歩行器を使って歩いているという申し送りだったが、2回とも歩行器を使わずに歩いていた。

 

そして先ほどの発言・・・。

 

認知症がある方なのか?でもまだ入所してきたばかりで、情報がない。

 

全員の部屋の見守りを終えると、夜中のおむつ交換の時間になっている。

 

準備をし、おむつ交換に入ろうとした瞬間、廊下を生まれたての小鹿のようにガクガクしながら移動しているおばあさんを見つけた。

 

長井さんだ。

 

 

「ちょっと長井さん、困るよ。歩く時は歩行器を使って、転んでまた骨折したらどうするの?」

 

「家に帰ろうと思って。」

 

「今日はおうちには帰れませんから、ここに泊まっていってください」

 

木嶋は優しく声をかけ、自室のベッドに案内する。

 

もし、中津がいたら、3枚目のヒヤリ、ハット報告書を書かなければならなくなる。

 

「今度起きるときは、このコールを押してください」

 

そう伝え、部屋を後にし、おむつ交換を始めた。

 

1人、2人と音を立てないようにしながらおむつ交換を進めていく。

 

あと少しというところで、また長井さんが廊下に出て来ている姿を見つけた。

 

もう勘弁してくれ・・・

 

「長井さん、いい加減にして下さい。今何時かわかりますか?いいから寝てください」

 

疲れと眠気で、何度も起きてくる長井さんに対し、イライラした口調で言ったあと、またベッドまでつれていく。

 

 

素早く、おむつ交換を終わらせると、また長井さんが、ガクガク足を震わせながら、部屋から出てくるのが見えた。

 

本当に勘弁して。

 

はっきり言って、放っておけばいいのだが、転んで怪我をすると、施設側の責任になる。

 

職員がよく見ていなかった。

 

結局はそう言う結論になってしまう。3年の施設介護の経験で、そんな場面は何度も目にしてきた。

 

認知症の人は周囲の変化に弱い。混乱して落ち着かなくなるのはよくあること。

 

多分長井さんもその状態なのだろう。

 

病院では、こういう場合はすぐに身体拘束される。つまり、ベッドに寝かせ、ベルトを巻き、起き上がれなくすること。

 

しかし、老人ホームでは、身体拘束はしてはいけないことになっており、長井さんのような転倒の危険が高い方でも、身体拘束は極力しないことになっている。

 

なんで病院は身体拘束をしているのに、老人ホームはだめなのか。意味がわからん。

 

その夜、木嶋は何度も長井さんを見つけては部屋に連れ戻すことを繰り返した。

 

仮眠もとれず、神経はすり減り、体が鉛のように重い。

 

転倒しなかったのが唯一の救い。でもいつ転んでも不思議ではない雰囲気だった。

 

早めにやって来た介護主任の大山に、ヒヤリハット報告書と、昨日起こったことをかいつまんではなした。

 

大山はこの内容でいいわ

 

そう言って、書類に印鑑を押した。

 

木嶋は意外に思ったが、その後、大山は長井さんの状況を話してくれた。

 

長井さんは夫と2人暮らし。数年前から認知症の症状がでて、最近は1人で外に出ていってしまい、家に帰ることが出来ず、警察のご厄介になることもあったそうだ。

 

夜中にも出ていきそうになってしまってから、介護している夫は体調を崩してしまった。

 

ちょうどその時、自宅で転倒して左足を骨折して、手術を受けて、ここに来たの。介護している夫がとても介護できる状態じゃなくなった。

 

でも、ここには3ヵ月しかいることが出来ない。今の歩き方じゃあ、住んでいた自宅に帰れないの。

 

もう90歳だから、リハビリしても、歩けるようになるのは絶望的。

 

「3ヶ月後、この人はどうなるのかしら。いい施設があるといいけど、あんまり金銭に余裕がないみたいだから、普通の老人ホームには入れない。でも家にも帰ることが出来ず、ここにも制度的にいることが出来ない。子供達は、介護を拒否している」

 

「長井さんはどうなるのでしょう?」

 

「わからない。でも最近思うことなんだけど、介護保険制度が出来てから、介護の事は、介護の事業所に任せてしまえばいい。そんな風潮が社会に浸透している。結果、家族や近所の方が介護するって考え方が希薄になってる。自宅で家族と過ごすこと、施設で過ごすこと。どちらがお年寄りにとって幸せなのかしら?」

 

大山はため息をつくと、ゆっくり立ち上がり仕事に向かった

 

木嶋は思う

 

長井さんの介護は大変だった。たった1日でも木嶋は根をあげそうになった。ずっと介護していた旦那さんが体調をくずしてしまうのもよくわかる

 

ただ、長井さんだって認知症になりたくてなったわけではないわけで・・・

 

旦那さんに迷惑をかけようとしているわけではない

 

子供達は、なぜ介護の手伝いをしてあげないのだろう

 

今は、介護サービスがあるから、なんとかなると思っているのだろうか?

 

お年寄りと若い人達。高齢化社会が進むにつれて、関係が疎遠になってしまっているのはなぜだろう?

 

普通は比例して関係が密になっても良さそうなものなのに、今は反比例しているように距離が遠くなっている

 

大変なら、施設に預ける。それでいいのだろうか?

 

木嶋も大きなため息をついた

 

その時

 

「長井さん、今日も頑張ってリハビリしましょう」

 

理学療法士の百瀬の声がホールに響いた。

 

木嶋は、お年寄りになぜリハビリをさせるのか、不思議で仕方なかった。

 

若い人間ならわかるが、80歳を越えた人が、少しくらい運動したところで、回復するはずはない

 

それに施設において一番困ることは、入所しているお年寄りの転倒、骨折だ。

 

もしリハビリをして、自分が歩けるようになったと思い込み、1人で歩いて転んでしまったら元も子もないし、骨折してしまったら施設の責任問題となる。

 

しかし、今回の長井さんをみて、また歩けるようになってほしいな、そう思った。

 

徘徊してしまうまでの回復は望まない。

 

 

ただ、長井さんが、老人ホームをたらい回しにさせられる、介護難民には、なってほしくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺伝という宿命

 

生きている人間は誰しも、自分では絶対に抗うことができない宿命と闘いながら生きている

 

その宿命とは、遺伝。

 

 

両親から産まれた時ゆずられたもの。

 

人間は容姿や性格、運動神経等が猿や豚と違い、1人1人全く違っている。

 

人間は与えられた遺伝と闘いながら、毎日を生きていると私は思っている

 

 

人には必ず容姿において、触れてほしくない悩みがある。

 

 

なぜそんなことで悩んでいるのか、と他の人には全くわからない事で、悩んでいる人間は意外と多い

 

 

生まれ持った、顔、身体、性格、運動神経、出身地、名前、血液型・・・

 

 

数え上げたらきりがないが、自分ではどうしようもない、変えることか出来ないもの

 

遺伝(自分ではどうしようもない)で悩む事をいくつか挙げてみる

 

目が一重まぶた、前歯が出ている、アゴがしゃくれている、薄毛、肌の色などの外見的なものから、内気な性格、不器用、病気、血液型などさまざまだ

 

 

逆に、パッチリ二重で、歯並びがよく、背も高くて、陽気な性格な人もいる

 

 

この場合は、あまり悩む人もいないだろう。本当に幸せな人だと思う

 

 

遺伝から来る容姿の悩みは他人では絶対理解できない。例え実の親でも

 

 

急に人から、君の目付き悪いよね。

 

 

そう言われて、どうしても気になって仕方なく、自分の目が嫌いになっている人も多くいるだろう

 

 

そういう親からの遺伝は、子供の頃に悪口となって自分に襲いかかることが多い

 

 

チビ、デブ、ブス、のろま、サル、ゴリラ・・・

 

 

これら見た目の問題は、自分自身で解決することはほぼ不可能。特に若い人間には(学生など)。

 

 

言った人間はそれほど傷ついていると思わない、しかし解決出来ないからこそ、言われた人間は深く傷つく

 

 

子供の頃だけではなく、大人になっても解決できず、苦しんでいる人は多い

 

 

二重まぶたで目がパッチリとし、歯並びがよく、笑顔が素敵で、血液型がO型の男性と、一重まぶたで、出っ歯、はげ、血液型がB型の男性、同じ年齢でどちらと親しくなりたいだろうか?

 

 

そんなの二重まぶたで歯並びがよく、O型の男性と久しくなりたいに決まっている

 

 

人間は、他の動物と違い、外見など人それぞれ。生まれもって既に不公平な生き物なのだ

 

 

「生まれ持ったものだからしょうがねえじゃねえか、悩んだって変わらねえんだから」

 

 

なんていえる人間が私は、心からうらやましく感じる。

 

 

それは親からもらったものが、自分の人生において、あまり足かせにならない人間が言えること。

 

 

つまり、優性遺伝の人間だから言えることなのだ

 

 

学校で必ず習うメンデルの法則。その内容は私には全くわからなかったが

 

 

優性、劣性の法則という言葉はよく覚えている。

 

えんどう豆を丸くするのが優性遺伝、シワを作るのが劣性遺伝

 

 

優性遺伝、劣性遺伝・・・

 

 

嫌な言葉だ。私にとって世の中で一番嫌いな言葉だと胸を張って言える

 

 

なぜなら、今まで45年間生きてきて、私は劣性遺伝の人間だということを、嫌というほど経験してきたからだ

 

 

私は周りの人間から、なぜ他の人が出来るに、お前はできないのか

 

 

何度も何度も言われ続けてきた

 

 

私もその言葉は当然の事と受け止め、なぜできないか悩み、苦しみながら、回りの人間に着いていこうと、必死で生きてきた

 

 

いや、必死で生きてきたというのは、表現が過ぎるかもしれない。それなりにがんばって生きてきた

 

 

しかし40代に差し掛かってみると、急に自分のことを客観的に見れるようになってきた

 

 

自分の能力や限界・・・

 

 

その時、私には、普通の人に比べると圧倒的に劣っているものがあると気づいた

 

 

それは圧倒的な自己肯定感の欠如であった

 

 

10、20代の若者ならまだわかるが、私は40歳を越えても、自分を肯定する能力が備わっていない

 

 

自己肯定感が欠如しながら生きていくというのは本当に苦しいことであり、また40歳を越えても自己肯定感が全くないというのは、はっきり言って絶望の中を生きているような気分になる

 

 

そこには、やはり自分は劣性遺伝の人間だからという、普段は心の奥底に眠り、突然心の中で目を覚まし、私を苦しめる思想が、間違いなくあるからだ

 

 

 

      幼少期、学童期

 

私の名前は、竹沢俊彦。45年前に田舎の町に生まれた。子供の頃の思い出ははっきりいって覚えていることなどほとんどない。

 

ただひとつ覚えていることは、ひどい慢性鼻炎で、鼻呼吸ができず、いつも口をポカンと開けて生活していたことである。

 

父親からは、おい、口を閉じろ。そう言われたが、鼻炎で鼻呼吸が出来ないのに、口を閉じてしまっては、呼吸が出来ず死んでしまう。

 

子供心にそう思い、親の前では口を閉じ、30秒ほど経過してから、トイレにいって、ハァ、ハァと激しく息をした。

 

母親は心配して近所の耳鼻科に連れていってくれたが、田舎町にある、一件だけの耳鼻科が、名医であるわけがなく、治療を受け、薬を飲んでも、私の慢性鼻炎は全くよくなることがなかった。

 

そのためか、私には集中力というものが欠如していた。なにかやろうとしても、最後までやりとげることができない

 

 

本なんて、1ページ読むことが苦痛で仕方なかった。集中しようとすると息苦しくなる

 

 

だから勉強なんて全くできない。なにかしようとしても、詰まった鼻の奥が気になって、人目に隠れて、鼻くそをほじり、見つからな

いように、教室の床に捨てていた

 

 

鼻くそが取れたとしても、鼻づまりが治ることはなく、集中力が続かず、物を深く考えることができない。勉強は全く出来なかった

 

 

人の話を聞くのも苦手で、忘れ物が多く、宿題もほとんどやっていかなかった

 

先生にはよく怒られた覚えがある。その時は反省して頑張ろうと思うが、そのうち忘れてしまう。そして、また怒られるなんて言うパターンを繰り返していた

 

 

そして私は運動神経も全く備わっていなかった。手先が不器用過ぎて、野球やバスケットなどは全くできない。

 

 

足も遅く、サッカーなんて本当に下手だし、全く取り柄のない子供だった

 

 

なのにある日突然、少年野球チームに入らされた

 

スポーツといわれるものが苦手で、野球の試合では、まずレギュラーにはなれない。たまに気を利かせて、コーチが代打などで試合に出してもらうが、絶対三振するのがわかっていたので、バッターボックスに立つのが本当に嫌だった

 

 

どうでもいい時に出してくれるのはいいが、チャンスの時に出され、三振すると、チームから白い目でみられる。

 

自分から出たいと言ったことは一度もないのに・・・

 

 

人間関係を作る事が苦手で、上級生に、なにもしていないのに怒られたり、怒鳴られたり、そして殴られたりした。

 

 

理由は目付きが気に入らない。生意気だ

 

 

確かそんな理由だった。

 

 

私は好きでこんな細い目になったわけではない!!!

 

 

 

大声でその先輩に言いたかったが、そんなことを言う勇気はない

 

 

ただ理不尽な暴言、暴力には黙って耐えるしかなかった

 

 

そんな日々が続き、俊彦は内気な少年になった。この時、何度も鏡を見たことを覚えている。

 

 

自分の顔はどうしてこんなに不細工なんだろう・・・

 

 

違う顔だったら、少し自信が持てたのに・・・

 

 

鏡を見ながら何度も考えていた。

 

 

ナルシストというわけでは全くなく、鏡を見続けていた記憶がある。この顔、この細い眼をどうしたら変えられるのか。毎日考える。

 

 

俊彦は、自分の顔が大嫌いだった。

 

 

そして、性格面でも内向的で、同学年の人間にも、どうやったら仲良くなれるのかわからず、ただ相手の思うことを否定せずついていくような少年だった

 

 

金魚の糞のように

 

 

自分からこうしよう、ああしようというという意見は出来るだけ内に秘めた。

 

 

体育の授業が大嫌いだった。他の授業はただ机に座り、話を聞いていればよかったのに対し、

 

 

「はい、2人1組になってください」

 

 

先生からこの言葉が発せられると、私に背筋に震えがくるほどの恐怖が俊彦を襲った。

 

 

誰も俊彦と組んでくれる人がいなかったのである。毎回同じように一人取り残されるにもかかわらず、体育の先生は、毎回俊彦の存在を無視するかのように、その言葉を繰り返した。

 

 

今考えれば、あまりにもその先生はデリカシーがないと思われるが、小学生の体育の時間で、誰も私と組んでくれないほど、俊彦は、小学校のクラスに適合できていない子供だった

 

 

人とうまく話すことができない。人と上手く付き合うことが出来ない。

 

 

これは俊彦が酷い運動音痴だからという理由も大きかった。周りの子供達と遊んでも、全く楽しくない。鬼ごっこでは必ず鬼役をずっとやらされる事になるし、スポーツをしても、絶対に足を引っ張るので楽しくない。1人でいた方がよほど楽だった。

 

 

引っ込み思案で、人と話せない。慢性鼻炎で集中力がほとんどなく、勉強が全くできない。

 

友達もほとんどいないまま、俊彦は中学校に上がる。

 

 

中学に上がることで、これ以上の遺伝という宿命、残酷さが、恐ろしい程俊彦の身に降り注ぐことになる

 

 

        思春期

 

学童期から思春期にかけて、人はいろいろなことを勉強する。学問はもちろん、人との接し方、そして異性との恋愛

 

 

俊彦も中学になると、小学校の頃の知り合いが、クラスであまりがいなかったから、友達と呼べるような人間が、少しずつ出来始めた。

 

 

慢性鼻炎は中学生になっても治らなかった。

 

 

そのため集中力の欠如は全く治らず、中学になっても勉強もほとんど着いていくことが出来なかった。

 

 

中学に入ったからといって、突然運動神経ががよくなるはずもなく、バレー部に入ったが、全く着いていけず、3ヶ月でやめた。

 

 

本当に長所もないし、根性もない。そんな情けない人間だった。

 

 

しかしやることもないので、個人で出来る卓球部になんとかいれてもらった

 

 

当時の卓球は本当に運動神経が悪く、性格も暗い人間がやるようなスポーツだった

 

 

(今は違うと思いますが・・・)

 

 

その中で、なんとかスポーツに汗を流しながら、一年が経過した頃の事だった。

 

俊彦に対し、周りの人間の態度が、変わっているように感じる事が、多々起きるようになり始めた。

 

 

クラスの中でも同じような変化を感じるようになることが増えた。初めは気のせいかと思ったが、日に日に違うことに気づく。そよそしく、そして避けるような態度をクラスメイト、部活の人間が、俊彦に対し露骨に取るようになってきた。

 

俊彦は嫌われ者にならないように、他人の表情や行動には注意を払っていた。小学生の頃、人に馴染めず、いじめられていた経験もあったからだと思う

 

 

だからクラスメイトなどと接するときは十分注意しているつもりだった。

 

 

しかし、気軽に話してくれる友人も、俊彦と話したがらなくなった。

 

 

俊彦を避けるように徐々に人が、突然周りからいなくなっていった。その理由は当時、全くわからなかった。

 

気のせいというわけではなかった。1日誰とも話さない。そんな日もあった。

 

 

数日間、もやもやとした気持ちで、学校に行っていたある日、自分に対し、よそよそしく周りがなった理由がわかった

 

 

俊彦が、廊下で一人立っていたとき、

 

 

「ねえ、竹沢君、今日も臭くない?」

 

 

「うん、臭い、臭い」

 

 

突然女子2人が、俊彦がいないと思って、目の前で、臭い、臭いと聞こえるように言ったのだ

 

 

その直後、その2人は俊彦の存在を見つけ、やばいという表情をしながら、走っていった

 

 

その2人のやばいという表情は、30年程経過した今でも俊彦の脳裏に焼き付いている

 

 

俺が・・・臭い・・・。

 

 

頭の中が真っ白になった。

 

 

そうか・・・。それで周りの人が、私から遠ざかって行ったのか・・・。

 

 

不幸なことに、俊彦は子供の頃から慢性鼻炎を患っており、鼻呼吸が出来ないため、嗅覚が鈍く、匂いというのは全くわからない

 

 

よく、帰り道カレーの匂いがするなんて友達が言ったりしたが、その感覚ははわからなかった

 

 

そのため、自分からどのような臭いが発せられているのか、全くわからない。

 

 

真っ白な頭の中で、俊彦は脇の下に手を入れ、擦り合わせると、その手を自分の鼻に持っていった

 

 

「うわっ、くっさ!!」

 

 

慢性鼻炎でほとんど臭いがわからないはずの鼻が強烈な異臭をとらえた

 

 

生卵が腐ったような悪臭。いい表現で言うなら、温泉の硫黄のすごい強い臭いが鼻についた

 

 

こんな臭いが自分から発せられていたのか

 

 

全身が凍りついた。

 

 

洗面所に行き、蛇口にあるミカンを包んであった網の中に入っている石鹸を手に取り、何度も手のひらで擦り合わせた。

 

 

泡の状態になると、すぐに脇の下に手を入れ、一生懸命洗った。

 

 

すぐ隣の女の子が、手を洗わないで、脇の下洗ってる・・・

 

 

そんな白い目を気にせず、一心不乱に脇の下を洗い続けた。

 

 

しばらくして、脇の下の臭いを嗅いだ。その時は、腐った卵のような臭いも消え失せ、石鹸のいい匂いが残っていた

 

 

教室に帰ると、私を見たクラスメイトが、全員目をそらした。

 

 

最近モヤモヤしていた原因がわかった瞬間だった。自分が臭かったからだ。

 

 

ただ、私はこれからどうしたらいいのかわからず、教室の椅子に腰掛け、下を向き、授業が終わるのを、目立たないように待つしかなかった。

 

 

授業が終わると、すぐに家に帰った、卓球部に行かなければならなかったが、そんな気分に全くなれなかった。

 

 

家に帰ると、部屋でボーとしていた。

 

 

よくよく考えると、うちの親父はワキガで、時々臭いと思うことがあったが、自分は臭いがわからないので、それほど気にはしなかった

 

 

でも俊彦が臭いと感じるということは、普通の人ではかなりの異臭を感じているはずである。

 

 

実は自分がワキガなのではないかという兆候は、少し前から現れていた。白いシャツの脇の部分が、少しだけ黄色く変色していたのに気づいた

 

 

ただ、臭いがしないため、(自分でわからなかっただけなのだが)自分はワキガではないと微かな望みを抱いていた

 

 

しかし、その微かな望みは今日粉砕された。

 

 

すごい臭いを発しているのに、自分は鼻が悪く、それが気づかないのが、恐怖を倍増させた。

 

 

人並みに嗅覚があれば、自分の臭いに気づくことが出来るかもしれない。

 

 

しかし、子供の頃から慢性鼻炎だった私の嗅覚は壊死しているといってもいいほど臭いがわからなかった

 

 

明日学校に行くのが怖かった。

 

 

テレビを付けると、ファブリーズだのビオレだの臭いを消すCMが何度も流れる。

 

白人のおばさんが美人の脇の臭いを嗅ぎ

 

グッド!!

 

と言っているCMが流れた。

 

 

もし、私の脇の臭いを嗅いだら、あの白人おばさんは

 

 

オーマイガー!!!

 

 

そう叫び、卒倒するだろう。

 

そのくらい俊彦の臭いは強烈だった。

 

 

現在の日本において、体臭が酷い人間は、周りの人間に嫌われる。確実に。

 

 

毎日お風呂に入り、身体をしっかり洗っていた。なのにこんな体臭がするとは・・・

 

 

寝る前にお風呂に入り、石鹸を山ほどつけ脇の下を徹底的に洗った。

 

 

学校に行きたくない・・・

 

 

お風呂から上がり、布団に潜り込んだが、いつまでたっても明日に対する不安が襲ってきて、眠ることが出来なかった。

 

 

次の日、鉛のような身体をなんとか起こして学校に向かった

 

 

教室につくと、いつもと雰囲気が変わっていることに気づく。クラスメイトが、私に視線をわざと外しているような、そんな気がする

 

 

ため息をつきながら自分の席に座った。

 

 

しかし、その瞬間違和感に気付いた。昨日、机の中を整理して帰ったはずなのに、机の中が乱雑になっている

 

 

不思議に思い、引き出しからノートを取り出した。

 

そのノートの惨状をみて、俊彦は声を失った。

 

 

臭いんだよ

 

学校来んじゃねえ

 

風呂は入れよ

 

生ゴミみたいな臭い、なんとかしろ

 

 

私のノートに汚い字で、数ページに渡り、俊彦への誹謗中傷が書いてあった。

 

 

俊彦はノートに視線を向けているが、何人かの人間が私を見て、ニヤニヤしているのを感じる

 

全身から血の気が引くのがわかる。このノートは先日買ったばかり。なんでこんなことをするんだ?

 

 

俊彦は顔を上げた

 

 

するとクラス全員が視線をそらした

 

 

俊彦は信じられない現実を飲み込むことが出来ないまま、座ったまま担任の先生が来るのを待った

 

 

その日は、時間が経過するのがとにかく遅かった。

 

そして、授業の間の休み時間になると、水道の前に立ち、石鹸を手に取ると、ごしごしと泡を立て、脇の下を洗った

 

 

自分の嗅覚は全く信用できない。

 

 

もはや自分は臭いんだという強迫観念にとらわれていた。

 

 

周りの目はその時、ほとんど気にならなかった。水道で、必死に脇の下を洗っていて、他に生徒がいたというのに。

 

 

長い、長い学校の時間が終わった。今日、俊彦に話しかけてくれる人間は全くいなかった。

 

 

これからどうしたらいいんだ・・・。

 

 

下を向きながら、家へと続く道を重い足取りで歩いていると

 

 

「おい!!」

 

 

後ろから声がかけられた

 

 

驚いて振り向くと、知らない男子学生が5人ほど立って私を見ていた

 

 

「なんの用ですか?」

 

 

なぜ声をかけられたかわからない。その人達に語りかけた。

 

 

「なんの用ですかじゃねえよ、お前風呂入ってんのか?くせーんだよ」

 

 

男達にいきなり言われ、動揺していると

 

 

「ちょっとこっちこい!!」

 

 

そう言って俊彦を、人気のないところに連れ込んでいった。多分この状態を見た人が何人かいたはずだが、声を出したり、助けてくれる人は誰もいなかった。

 

 

俊彦も突然の事で、声を上げることができず、ついていくしかなかった。

 

 

「何ですか、僕はあなた達に気に障ることは全くしていないと思いますが」

 

 

なんとか勇気を振り絞り、相手に向かってそういうと、一人の男が思い切り俊彦の足を蹴ってきた。

 

 

「くせえんだよ!お前は。それだけでも迷惑なんだ」

 

 

体格からすると、上級生のようだ。ただ、会ったことも話したこともない

 

 

「初対面ですよね、あなた達に迷惑をかけた覚えはない」

 

 

「頼まれたんだよ。お前があまりにも臭いから、学校に来ないように出来ないかってな」

 

 

「それは誰ですか」

 

 

「そんなこと言うわけねえだろ」

 

 

そう言われた瞬間、俊彦の頬に激痛が走り、勢いで後ろにひっくり返った。殴られたのだ。

 

 

「もう明日から学校に来るんじゃねえぞ」

 

 

そう捨てゼリフを残し、男達は去っていった。

 

 

俊彦はその声が、静かになるまで、ずっと倒れたままの姿をしていた。

 

 

しばらくして立ち上がり、ベンチに腰掛けた。口からは血が流れている。しばらく呆然としていた。

 

身体中の痛みから、先程あったことが現実というのはわかる。

 

 

しかし頭の中がそれを受け付けない。一種の錯乱状態になっていた。

 

 

なぜ殴られないといけないのか

俺は殴られるほど悪いことをしたのか

あいつらに俺を殴れと言った奴は誰なのか

それほど俺は臭いのか

 

 

ゆっくり立ち上がり、倒れた時に服についた砂を、パン、パンと払った。その時不意に両眼から涙が出てきた。

 

 

痛かったからではない、今の状態を客観的に見た時、情けなくて、悔しくて仕方がなかった。

 

 

今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った

 

 

教室に入った時のクラス全員から注がれる白い視線。落書きだらけのノート。突然呼び止められ、知らない人間から暴力を振るわれる。

 

 

ゆっくりと家に向かって歩き始めた。

 

 

たった一人歩く自分がみじめだった。

 

 

頭の中は錯乱状態が続いていたが、なぜか親に今の状態を伝えよう、担任の先生に相談しようという発想はなかった。

 

 

格好悪い。

 

 

ブライドとは違う、他の人に自分がいじめにあっている事を知られたくないという考えが、頭の中を占めた。

 

 

実際のところクラスメイトのほとんどが、いじめにあっている事を知っているということは、わかっている。

 

 

でも知られたくない。言葉では説明できない奇妙な考え。

 

 

親に言ったところで問題は解決しない。担任に言ったら、いじめがこれ以上ひどくなる。そして、誰も助けてはくれない。

 

 

なぜなのか・・・。

 

 

俺は人に嫌われたくない、そして人を傷つける事もしたくない。そう考えて生きてきたのに。

 

 

なぜ嫌われなければならないのか。

 

 

家に入る時は、静かに音を立てないようにしながら、玄関を開けて素早く自分の部屋に入った。

 

 

いじめ、カッコ悪い

 

 

かなり昔、有名なサッカー選手がいっていたが、今の自分には、いじめられる方がカッコ悪い。そんな風に言っているように感じてしまう。

 

 

 

 

そんなはずはない!!。会ったこともない人間に対し、俺は一人なのに大勢で暴力を振るう方が余程格好悪いはずだ!!

 

 

大声で叫びたくなった。

 

 

しかし、運動神経悪い、顔もカッコ悪い、そして体臭がひどい。そんな自分も悪いのではないか

 

 

そんな自分の存在を全否定するような考え方の方が、今はどうしても自分の心の中を支配してしまう。

 

 

暴力を振るわれたことより、人を不快にする自分の方が悪い。

 

 

いじめる人間より、いじめられる人間の方が悪い。

 

 

その考え方が心を縛り付け、俊彦は叫ぶのをやめた。

 

 

(※ここがいじめの一番怖いところ。いじめは集団で一人の人間を攻撃する。その時いじめられている人間は、自分が悪いからいじめられていると思ってしまう

 

はい、よく聞いて!!ここ大切、テストに出ますよ!!!

 

孤独だし、今まで友達だと思っていた人が離れていってしまう。これは本当につらい

 

 

でもいじめられている人間は悪くない。

 

 

これからいうことはもっと重要、テストに出ます。確実に!!!!!

 

 

人間は、いじめられる、人に嫌われるのを極端に恐れる。それでは自分が嫌われないようにするにはどうしたらいいのか?

 

 

その答えは簡単。自分より弱い立場の人間を、嫌われものにし、いじめられる人間に仕立て上げ、自分の立場を守ること

 

 

この答え、センター試験にも出るからしっかり暗記すること

 

 

自分をいじめから守るためには、他の人間を犠牲にするしかない

 

 

いじめられる人間は、そんな他人をおとしめることしか出来ない弱虫の罠にはまっている。

 

 

つまり答えは、いじめられる人間は、卑怯な人間の罠にはまっているだけで、いじめられている人間はは何一つ悪くない!!

 

弱虫の罠にはまっているだけなのに、苦しんだり、最悪大切な命を絶とうなんて本当にもったいないよ。

 

 

例え、自分に自信がなくても、他の人も同じ。自分に自信がない人ばかり。いじめに会う人はカッコ悪くない。いじめをする人間が本当に小心者でカッコ悪く、ダサい。

 

 

君は、小心者の罠にはまっている。その事に早く気付こう!!)

 

ということで、話を続けます。

 

 

俊彦は自分の部屋のベッドに座り、ただ呆然としていた。

 

その時になっても、今日起こったことを親や担任に言おうとは思わなかった。

 

 

言って解決できるはずはないし、騒ぎが大きくなるのが怖かった

 

 

怖いし、他の人に知られたくない。なぜか、いじめられていることが俊彦の中で恥ずかしく感じた。

 

 

なにもやる気が起きなかった。なにかやろうとすると、涙が出てきそうでベッドに横になった

 

 

天井を見ながら、暴力を振るってきた人間が言ったことを思い出した。

 

 

「頼まれたんだよ。おめえがあまりにもくせえから、学校に来ないような出来ねえかってな」

 

こんなことを上級生に頼む奴は誰なんだ。全く心当たりがない。

 

 

自分で言ってくればいいじゃないか。俺なんて運動神経も悪い、身体はやせ形で力なんてない。喧嘩になっても、絶対俺は勝てないのに。

 

心当たりがないという恐ろしさ、そして頼んだ奴の卑怯さ・・・。

 

 

俊彦は、不気味さと腹立たしさで頭をかきむしった。

 

 

なんも考えられないし、なにも考えたくない。時間だけがゆっくりと進んでいく。

 

 

夕御飯の時間になった。ゆっくりベッドから身体を起こし、食卓についた。いつもと変わった雰囲気を出さないように気をつけながら、ご飯を口に運ぶ。

 

 

本当は食欲など一切なかった。でも食べないと親に余計な心配をかけることになる。

 

 

殴られた時に口の中を切ったためか、食べ物を口に入れる度に痛みが走る。しかし、それを周りに気付かせないために、表情には出さない。

 

 

両親とも特に俊彦について気付く事はなかったようで、特に指摘されることがなく、夕食を食べ終えた。

 

 

「ごちそうさま」

 

 

箸を置いて席を立ち、自分の部屋に入って行った。

 

 

その後すぐにお風呂に入った。殴られて転んだためか、膝や肘に擦り傷ができていて、湯船に入ると滲みて痛い。

 

 

毎日風呂に入っているんだけど、なぜ臭いんだろう。

 

 

湯船から出ると、脇の下を入念に何度も洗った。いつもは1回洗う程度だが、皮がむけるくらいの強さで俊彦は洗い続けた。

 

 

風呂から上がると、ベッドに横になった。お風呂に入る前まではほとんど気にならなかったが、殴られた頬、肘や膝の傷が痛みだした。

 

しかし、傷の手当てをする気が起きない。

 

 

明日学校に行きたくない。

 

 

心の中はその思いが支配していた。傷の痛みより。

 

 

でも明日学校に行かなくてはならない。親に変な心配をかけたくない。

 

 

苦しみながら、眠れぬ夜を過ごした。

 

 

次の日、太陽の光が部屋の中に差し込んで来ても、俊彦は眠ることが出来なかった。

 

 

起きる時間になり、ゆっくり身体を起こした。

 

 

胃が鉛のように重く、吐き気がする。そんな状態でも学校に行かなければならない。

 

 

腕を脇の下に入れ、少し擦った後その手を自分の鼻に持っていく

 

 

微かに臭う・・・

 

自分の嗅覚はほとんどあてにならないが、臭いがするような気がして、すぐに洗面所に行き、脇の下を洗った。

 

 

洗いながら、不安で押し潰されそうになる。今洗ったからといって、学校に着く頃にはまた臭い始めるのではないか・・・

 

自分は臭いという強迫観念が、俊彦を押し潰す。

 

 

朝ごはんを食べ、歯を磨くと制服に着替えた。砂の汚れがないか確認し家を出た。

 

このまま学校に行かずに、どこかに行ってしまいたい。そんな誘惑に駆られるが、いつもの道を進んでいく。

 

 

学校が見えた途端、吐き気が襲ってきたが、なんとか耐え、クラスの前に立った。

 

 

ゆっくりと扉を開けて、教室に入る。すると、ざわざわしていた教室の中が、しんと静まり返った。

 

俊彦は自分の席に座り考えた。この中に、昨日上級生に俺を殴れと頼んだ奴がいる。

 

 

その卑怯者は誰なんだ!!

 

 

そいつを探しだしたい。心の中では思うが、行動に移す勇気が出てこない。見つけようにも証拠がない。

 

そして、この中で俊彦の味方になってくれる人間は誰もいない。騒ぎを起こせば、もっと嫌われてしまう。

 

悔しいが、歯を食いしばり耐えるしかなかった。

 

授業が始まっても、自分が臭くないか、この事が気になって集中できない。嗅覚が鈍いという点も不安に拍車をかける。

 

ひそひそ話が気になる。自分の悪口を言っていそうな思いに駆られる。

 

 

体育の授業は以前から苦痛でしかなかったが、今日は苦痛の上、汗をかいてまた臭くなるのではないかという心配に押し潰されそうになる。

 

 

体育の授業が終わった途端、すぐに水道に行き、石鹸をつけて脇の下を洗う。臭いとか臭くないとかもはもはや関係ない。不安と強迫観念から逃げたい一心だった。

 

 

 

少し前までは、こんなことはなかった。クラスメイトともうまくやっていたし、別に学校に行くことが嫌ではなかった。

 

 

しかし、今はうまくやるどころか、誰も俊彦に話しかけてすらくれない。目が合うだけで、嫌な顔をされるようになった。

 

 

朝は学校に行きたくなくて、吐き気をもようしていたが、今は学校にいるのが嫌で、吐きたくなる気持ちになる。

 

 

1日が終わると、すぐに家に帰った。今日、俊彦に話し掛けた人間は誰一人いなかった。

 

 

その後も辛い毎日が続いた。

 

 

家でも学校でも、自分の臭いに細心の注意を払い、以前のようなワキガ臭がしないように努めた。

 

だから、変な臭いはしないはずだった。しかし、以前のようにクラスメイトから話し掛けられることはほとんどなかった。

 

まるで幽霊のように、誰も話し掛けてくれない日々が続いた。

 

そんな状態でも、担任や他の教師、そして親には今の状態を相談することはしなかった。

 

 

先生に言ったとしても、この状態が改善される保証はなく、逆に状態が悪くなってしまう可能性の方が高い

 

親に言っても同じこと。

 

俊彦の頭の中は、このような状態になってしまったのは、自分が悪いからだという考え方が占めていた。

 

改善されるかもしれないという希望も、もはやほとんどなくなっていた。

 

 

なんでこんな状態なのに、学校に行かなければならないのだろう。

 

もう学校に行かず、休み続けることご出来たら、どれ程救われるのだろうか。

 

しかし、休まず通い続けた。

 

クラスメイトにとって、自分はどのような存在なのだろうか。気色悪い、目障り、居てほしくない。そんな存在なのだろう。

 

こんな日々が本当に意味があるのか。

ここにいる意味があるのか。

私がいなくなった方が、クラスメイトは喜ぶのではないのか。

 

そんな思いが、頭の中を駆け巡るようになってきた。

 

 

そんな日々を過ごしていたある日の帰り道

 

「おい、待てよ」

 

後ろから声をかけられた。俊彦の背筋が凍りつく。以前聞いた声だ。頼まれたからという理由で、俊彦に理不尽な暴力を振るってきた、ろくでなしの声だとすぐにわかった。

 

しかも前回と同じ場所。周りには同じ道を帰る生徒が何人かいた。ここはすぐに人目のつかない空き地に連れていくことができる。

 

後ろを振り向くと、以前と同じく体格のいい5人の男が立っていた。

 

以前は戸惑いで顔もしっかり把握できなかったが、今回は冷静で、よく顔を観察できる。5人全員頭の悪そうな顔をしていた。

 

「何ですか、また頼まれて、私を殴りに来たんですか?」

 

声をかけてきた男は、俊彦と同じクラスの女子と付き合っていた。かわいい顔をしているが、性格は悪く、頭も悪い。俊彦と同じくらいの成績だ。

 

あるきっかけで、その女がこの男と付き合っていると耳に入った。

 

こいつらに告げ口をしたのはこの女だと思ったとき、文句の一つでも言いたい気持ちになったが、証拠がない。その時は諦めるしかなかった。

 

「うるせえよ。いいからこっちへこい」

 

一人が俊彦の服をつかみ、無理やり空き地に連れ込もうとした瞬間、俊彦はその手を思い切り振り払った。

 

「なんですか、また俺に暴力を振るうんですか。こんなみんなに嫌われて、たった一人。力も仲間もいない人間に対し、5人がかりで!!!」

 

周りに何人か人がいる中、俊彦は大声で叫んだ。周りの人間が、びっくりしてこちらを見る。

 

「恥ずかしくないんですか、人として。私があなた達の立場だったら恥ずかしくて外も歩けない。自分より弱いとわかりきっている人間を傷つけて喜んでいる。もはや人間のクズだと言っても過言じゃない!!」

 

 

「なんだと、てめえ!!」

 

5人の表情が怒りに変わった。いつもなら奴隷のように服従する俊彦だったが、その時、なぜかわからないが、イライラしながら歩いており、そのイライラが爆発した。

 

なんで俺がこんな思いをしなければならないのか、なんで誰も助けてくれないんだ。

 

最近そんなイライラ感じていたし、もう失うものはなにもない。とことんまで落ちてみよう。そんな諦めの感情が合わさり、自分でも信じられないような大声と、暴言が口の中から吐き出された。

 

「この野郎、ふざけんな!!」

 

そう言った直後、俊彦の身体は後ろに倒れた。殴られたのだ。

 

 

「キャー!!」

 

後ろを歩いていた女の子の悲鳴が轟いた。

 

俊彦はゆっくりと立ち上がった。

 

「いいか、あんた達と違って、俺にはプライドがある。それは絶対に人を傷つけない事だ。どれ程自分が傷ついたとしても。そしてどれほどみじめだったとしても。それが俺の誇りだ。お前らみたいな人を傷つけて楽しむようなクズを見ると、吐き気がするんだよ!!!」

 

そう言った直後、俊彦は立ち上がった時に拾った、落ちていた石ころを思い切り相手に投げつけ、殴られた相手を逆に殴り付けた

 

しかし、その直後、あっという間に相手に囲まれ、周りからボコボコに殴られた。

 

すぐに倒され、今度は足で踏みつけられる。

 

激痛に耐えながら、落ちている石を掴むと、相手に向かって投げつけた。

 

その場は騒然となった。

 

周りに石ころもなくなり、蹴られ続け、もうダメだと覚悟した時、車に乗っていた大人達が次々と車を止めて、俊彦に暴力を振るう人間を押さえつけた。

 

体格のいい中学生とはいえ、大人の力には勝てず、次々に抑えられていき、その場は治まった。

 

すぐに学校にも連絡がいったらしく、先生が何人も慌てて走ってくるのが見えた。

 

俊彦は身体中の痛みに耐えながら立ち上がった。大人達に抑えられている5人を見ると、投げた石がちょうど顔に当たったらしく、血を流している人間もいた。

 

「ふざけんなよ、てめえ。覚えとけ。次はマジで殺してやる」

 

大人に抑えられながら、俊彦に殴られた男は言った。

 

「もう一度言うが、俺はお前らみたいな小者の上、クズ人間が大嫌いだ。お前の顔も性格も悪くて、ブサイクな彼女にもそう言っとけ!!」

 

 

喧嘩でボコボコにされ、着ている服はボロボロ。誰が見ても負けているのに、それでも相手に対し、高圧的な言葉を俊彦は投げつけた。異様な空気が辺りを覆う

 

その後すぐに、教師に全員押さえつけられ、学校に連れ戻された。

 

その後、学校で事情聴取を担任から受けた。担任は状況から俊彦は悪くないと判断した様子で、

 

「なぜこのようなことになったか正直に言ってみろ、力になるから」

 

そう優しく言ってくれたが、俊彦は真相を話そうとはしなかった。ただ突然、生意気だと絡まれ、喧嘩になった。そう答え続けた。

 

 

俊彦は本当の事を言いたかった。

 

自分はワキガで、一時期不快な臭いを漂わせたことがきっかけで、クラスメイトからほとんど無視されている。

 

新しく買ったノートには誰が書いたかわからない、私の悪口で埋め尽くされている。

 

今回喧嘩した相手は、以前にも私に対し暴力を振るったことがある。

 

これらの言葉が喉のすぐ近くまで出てきているが、言葉として出てこない。

 

ここで本当の事を言っても、騒ぎが大きくなるだけで、何の解決にもならない。

 

ワキガで臭い自分が悪い

 

その思いが事実を担任に伝えることを拒否していた。

 

結局、最後まで本当の事を話すことはなかった。保健室に連れていかれ、傷の手当てをしてもらった。

 

何ヵ所か殴られたため、顔は腫れていて、膝にも擦り傷があった。

 

しかし、前回とは違う。前回は殴られただけだったが、今回は相手に反抗した。

 

身体の痛みは前回よりひどいが、なぜかすっきりとした気分が俊彦を包んでいた。不思議な気持ちだった。

 

親が迎えに来て、学校を後にしたのは、午後7時を越えていた。

 

 

家に帰ると、ご飯が用意されていた。家に着くのが遅くなっているため、もう冷たくなっている。

 

両親も心配で食べていなかったため、まず母親はご飯を電子レンジにいれて温め始めた。

 

「全然帰ってこなかったから心配したぞ」

 

前に座った父親が、俊彦に語りかけた。その言葉に俊彦は無言を貫いた。

 

「なんで喧嘩なんてしたんだ?最近お前が元気がない様子でいたから、お母さんと一緒に心配していたんだ。」

 

 

自分に元気がないことに両親は気付いていたのか。俊彦は両親に心配をかけたくないといつもと同じように家では生活を送っていたはずだったのに。

 

「しかも上級生5人相手に喧嘩なんてして、いったい何があったの。正直に話してちょうだい」

 

母親がレンジで温め直したご飯を、食卓に並べながら言った。

 

「ご飯を食べながらでいい、何が起こったか話してくれ」

 

父親に言われ、俊彦は観念した。今まで起こったことを、両親に話そう。少し心の中にある鉛のような物が軽くな感じがした。

 

「実は、最近学校に行っても誰とも話していない。みんなに無視されているんだ毎日が本当に辛いんだよ」

 

下を向きながら、ゆっくりと話し始めた。

 

「春までは、何とか周りの人間ともうまくやっていたんだ。でもある日を境に、多分6月の終わりくらいだったかな・・・。急に俺のクラスメイトがところを避けるようになって・・・」

 

 

そこから言葉がつまって出てこなくなった。そして、涙が溢れだしてきた。

 

なんで言葉が出てこないんだ・・・。自分の苦しい胸の内を、人に話すことがこんなに難しいことだったなんて。

 

しばらく沈黙が続いた。すると父親が口を開いた。

 

「そういうふうになってしまった心当たりはあるのか?」

 

俊彦は、涙を流しながら、本当に心の中の苦悩を伝える決心をした。

 

「ワキガだからだよ。俺が臭いからみんな遠ざかって行ってしまった。今でも自分が臭くないのか、本当に心配で、本当に毎日が苦しいんだよ」

 

 

それを聞いた両親は絶句していた。意外に思えたが、そんなこと全く考えていなかったようだ。

 

自分にはどうしようもない遺伝という宿命。

 

俊彦は別になにも悪いことはしていない。人を傷つけることを言ったりすることはなかった。なのにワキガで臭いという、どうしようもない理由で、理不尽にもいじめのターゲットになってしまっていた。

 

「考えすぎじゃないのか?」

 

父親が口を開いた。

 

「えっ?」

 

俊彦は耳を疑った。

 

「実は父さんもワキガなんだ。俊彦はわからなかったかも知れないけど」

 

「父さんがワキガだって知ってるよ。変な臭いがしているときもあるし、シャツの脇の下は黄色いシミができているじゃないか」

 

父親がワキガでなければ、自分に遺伝することはない。ワキガは遺伝病だ。そんなことはとっくに調べてわかっている。

 

 

「父さんの時代は、男なんて臭くて当たり前だったんだよ。男はみんな汗臭かった」

 

平気な顔でそんなことを言う父親に、俊彦は心の底から幻滅した。

 

「父さんの時代と今の時代を一緒に考えられちゃ困る。テレビCMは、人が臭いのは完全に悪。消臭剤をつけろと何回も流れているじゃないか。風呂に入ってなくて、臭いのは悪いとは思うけど、俺みたいにどんだけ気をつけても臭いを発する人間も、同じくバイ菌扱い。それが今の日本なんだよ!!」

 

 

今の日本、本当にワキガなどで体臭がきつい人間は生きづらい世の中になっている。テレビCMで、臭い人間を貶めるような内容のものは必ず1日1回は目にする。体臭のきつい人間は、そのCMのお陰で辛い思いを以前よりするようになっている。

 

「なんで俺がこんな目に会わなきゃいけないんだよ。こんな体質遺伝させてくれていい迷惑なんだよ!!」

 

「なんだと!!親に向かって言う言葉か!!」

 

俊彦もこんなことを父親に言いたくなかった。しかし、父親の他人事みたいな態度に、つい、いつも思っていたことが、口から出てしまった。

 

 

「もう放っておいてくれ」

 

 

俊彦はそう言うと、食卓にあった夕ごはんに手をつけず、立ち上がり、自分の部屋に入っていった。

 

両親とも、俊彦の部屋にはその日入ってこなかった。

 

俊彦は、自分が本当に悩んでいることは、他人には絶対わからない。例え親であっても。

 

相談しても、相手にとってはどこまで行っても他人事。

 

心の底から思った。

 

 

次の日の朝、起きると身体中に激痛が走った。上級生5人に、ボコボコにされたわけだから、当たり前のことではある。必死に起きて、洗面台の鏡に映った自分を見て、息を飲んだ。

 

右眼、唇が腫れ上がっている。他にもあちこちに青あざができていて、とても人に会えるような顔ではない。

 

学校を休もう。そう思ったが、昨日両親と喧嘩もしたし、家にも居づらい。

 

もうどうなってもいいや・・・

 

家に居るより、学校に行った方がいい。半ば諦めの気持ちで学校の準備をして、家を出た。

 

出来るだけ人に見られないように、下を向いて歩く。こんな状態なのに、行かなければならない学校って何なのか。

 

教室に着くと、クラスメイトが全員俊彦の顔を見た。いつもは目も合わせてくれないのに。

 

不思議な感覚で、席に座った。

 

 

「おい、どうしたんだよその顔」

 

 

隣に座っていた由井という男のクラスメイトが突然話し掛けてきた。俊彦は突然の事に驚いた。

 

由井は、以前は時々話す関係だったが、最近は全く俊彦の事を全く無視していた。

 

「ちょっと喧嘩してな」

 

「誰と?」

 

「上級生でいつも5人でつるんでるアホいるだろ。あいつらと」

 

「マジかよ、1人でか?」

 

「そうだよ、俺と一緒に喧嘩してくれる人間がいると思うか?」

 

由井は驚いた顔をして、静まり返った。その会話を聞いていたのか、クラス全員が俊彦の顔を見る

 

その視線の中に、あの女の視線があることも気付いた。その女の名前は、春日といい、かわいい顔立ちのため、スクールカーストでは一番上の存在

 

 

俊彦は、その女に向かって思い切りにらみ返した。春日の視線がそれるのがわかった。

 

 

俊彦と違い、春日は顔がいいため、クラスでも中心的存在だ。そして、性格も悪いため、この女の言うことに逆らう人間はいない。

 

まさに俊彦と全く逆の存在。

 

相手が視線をそらした瞬間、俊彦はゆっくりと立ち上がり、そして春日の方にゆっくりと歩きだした。

 

 

周りの人間はどうしたのかと、俊彦を全員凝視した。

 

 

そして春日の前に立った

 

「おい、あまりにも卑怯なんじゃないのか?お前のやっていることは」

 

急に話し掛けられた春日は驚いて

 

「何の事?」

 

狼狽しながら答えた。

 

「わかってるんだよ、全部。お前の脳みそ足りない彼氏に、俺に喧嘩をするように仕組んだだろう」

 

周りの雰囲気が凍りついた。俊彦のあまりの剣幕に、春日の友達も怯えている。

 

「そんなことするわけないじゃない」

 

「お前みたいな性格も悪く、馬鹿な人間以外、誰がこんなことをするんだ。」

 

「何ですって!!」

 

「こちらには証拠も揃ってる。お前が指示を出したという証拠がな!!」

 

そんな証拠はひとつもない。状況証拠の積み上げでしかない。しかし、あまりに俊彦が自信に満ちた表情で言ったため、相手は黙り込んだ、

 

 

「いいか、よく聞け、少しぐらい他の人間より優位な立場にあるからって、その立場を利用して弱いものいじめをする人間は、俺はクズ人間だと思っている。いや、実際お前は人間のクズ、カスだ!。その程度の人間のくせに、これ以上調子にのって勘違いするな!!」

 

そう言った後、俊彦はゆっくりと来た道を進み、席に座った。

 

クラスメイトは誰も話さず、どうしたらいいのかと困惑の表情を浮かべていた。

 

 

俊彦は、もう終わった・・・

 

心の底から思った。今までひどい状態の中、なんとか通ってきた。しかしこんなことを起こしてしまったら、今以上のひどい生活が待っている。

 

かっとなると、自分でも制御が効かなくなる人間なんだ・・・。

 

今までほとんど怒ったことなどない俊彦にとって、昨日からの自分の行動は、意外としか言いようがない。

 

起こしてしまったことが、あまりにも自分の性格とかけはなれているため、俊彦自身も驚いていた。

 

起こしてしまったことはどうしようもない。今までの苦しみに満ちた生活より、少しでも状況後よくなってくれることを祈った。

 

 

 

しかし、その後不思議なことが次々起こった。由井をはじめとした何人かのクラスメイトが、俊彦に話しかけてくれたのである。

 

 

「由井、俺なんかと話して大丈夫なのか?クラスの嫌われ者の1人になっちまうぞ」

 

「いや、俺もあいつらの態度には疑問が多かった。お前以外にも、気に入らないって意味わからん理由でハブられていた女の子もいたしな」

 

「そうなのか、知らなかった」

 

「ただ、このクラスを支配していたのはあの女達だった。春日はヤンキーの彼氏がいたし、誰も文句を言えなかった」

 

 

しばらく、沈黙が続いた

 

「お前はすげえよ。たった1人で、立ち向かった上、自分の言うことをしっかり言える。俺じゃあできねえ。情けないけどな」

 

「頭にきてたからな、相手が卑怯すぎて」

 

「もう、学校じゃあ噂になってる。お前を襲おうとしたヤンキー5人組、今日から一週間の停学だってよ」

 

「そうなのか。俺には何の罰もないけどな」

 

「これから気をつけろよ。みんなの前であんな屈辱を与えられた春日が、黙っているわけもないし、あのヤンキーどもだって、黙っていないだろう」

 

「そうだな・・・」

 

俊彦が暗い顔をすると

 

「だだ、お前のやったことは間違いではない。ちょっと言葉が過ぎた気がするが、見ているこっちもすっきりした。俺以外にも、お前を見直した人間もいる」

 

由井が優しく話しかけた。

 

「ありがとう」

 

俊彦は少し笑顔で言った。

 

 

その日は意外にも平穏に終わった。由井以外にも何人か俊彦に話しかけてくれたし、逆に春日達は特に俊彦に関わらず時間が流れた。

 

授業が終わると、俊彦は1人家に帰ったが、変な人間に声をかけられることもなかった。

 

 

そして家の前に立った。昨日の出来事を思い出す。家に帰りたくない。

 

心の中に鉛が入っていような状態で、玄関のドアを開けた

 

「お帰り」

 

帰ってきた俊彦を母は笑顔で迎えた。後ろには父親の姿もある。

 

 

「昨日は悪かった。父さん、急に言われたからなんて話したらいいかわからなくて」

 

「いや、いいよ。俺も酷いこと言って悪かった」

 

意外だった。父親から頭を下げてくるとは想像もしていなかった。

 

「父さん、今日仕事休みとってな、いろいろ買ってきたんだ」

 

机の上に何かがたくさん入ったビニール袋が置いてあった。俊彦が中身を見てみると。

 

 

ファブリーズ、リセッシュ、agデオドラント、ギャッツビー等の消臭スプレーがぎっしり入っていた。

 

どれもCMを見るとへこむ商品だった。

 

「わからないから、店にあるもので、それっぽいものをみんな買ってきた」

 

「あ、ありがとう」

 

ビニール袋に入った消臭剤を部屋の中に持っていった。

 

CMでは、見たくもない物だったが、父親が選んで買ってきてくれたと思うと嬉しかった。

 

 

その中で、一番体臭にうるさいCMのファブリーズを取り出す。

 

こいつのお陰で、どれほど辛い思いをしてきたか。一時期、このCMを作った奴に殺意を覚えたことを思い出す。

 

俊彦は自分の脇の下の臭いをチェックした。鈍い嗅覚が、不快な臭いをとらえる

 

「くっさー」

 

学校では定期的に、脇の下を石鹸で洗っているのに・・・

 

暑い日は、学校から家まで帰る時の汗で、短時間でも脇から臭いが発生される。

 

俺はワキガの中でも重症の部類に入るようだ

 

上半身の服をぬぎ、ファブリーズを脇の下に吹き掛けた。ファブリーズのいい匂いが、部屋の中を包み込む。

 

脇の下の臭いをチェックする。あの不快な臭いは消えていた。

 

もっと早く買っておけばよかった。

 

俊彦は久しぶりに勉強机に座り、宿題を始めた。昨日より心の中にあった鉛が、少し軽くなったような気がしたからだった。

 

最近勉強どころではないほど落ち込んでいたため、以前より勉強について行けなくなっている。

 

本当にいじめられ、無視される生活を送っていた時は、勉強なんてやる気もおきなかった。

 

辛い毎日が頭の中を覆いつくし、考えることといったら、明日学校行きたくない。それだけだった。

 

しかし、今日何人かの人間が私に声をかけてくれた。ひどい目に遭ったが、その事で少し希望が見えてきたような気がする。

 

 

数日が経過した。学校では、由井以外も俊彦に話しかけてくれる人が、徐々に増え始めた。

 

ただ心配なこともあった。父親が買ってきてくれたデオドラントスプレーのほとんどが効かない。

 

ワキガとスプレーの臭いが混ざりあい、以前より独特な臭いを発生させる時が時々みられた。

 

やはり、石鹸で脇の下を洗うのが一番臭いを抑えられる。日進月歩の科学の力でも、俊彦のワキガに勝てる商品は、まだ現れていないようだ。

 

俊彦は、休み時間になると、誰もいない水道に行き、脇の下を洗う生活を続けるしかなかった。

 

自分の嗅覚が信じられないから、自分が臭いことがわからない。

 

せっかく、クラスメイトの中で仲良くなれそうな人ができ始めてきたのに、また異臭を放っては、その人が離れていってしまうかもしれない。

 

そんな不安を日々抱えながらの生活は辛かった。

 

先日、母親からワキガの手術について聞いた。頼んでもいないのだが、母親が近所の皮膚科の先生に聞いたらしい。

 

 

方法としては、脇の下に2本の線を入れ、その中から匂いの元となるアポクリ汗腺というものを取り除く必要があり、結構大変な手術だそうだ。

 

必ず手術の後が残り、再発する可能性もあるという。

 

再発する可能性・・・。

 

それを聞くと、あまり手術をしようとは思わない。

 

ずっと付き合っていかなければならない、先天性の病気なのか・・・

 

 

世の中には本当に苦しく、命の危険がある遺伝病に苦しんでいる人も多い。

 

 

だから五体満足で産んでくれたことを感謝しなければならない。

 

例え俊彦のように顔がブサイクで、運動神経も悪く、ワキガの人間であっても。

 

でも他の人間も、遺伝という宿命から逃れられず、必死で生きている人間はたくさんいる・・・。

 

それが現実だ