髙木 友ニ

ケアマネジャー兼小説家です

日本はこの小さな女の子の死を風化させては絶対ならない

 

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玲美は、父親の顔を知らない。

 

物心ついたときからずっと母親の久美と2人暮らしだった。久美は、その事で心配することもあったが、玲美は明るく、そして優しい女の子に育っていった。

 

一人で玲美を育てることは容易ではなかった。玲美を保育園に預け、朝から晩まで働いていた。そんな母親の苦労を知ってか、玲美はいつも母親の前では笑顔を絶やさない子供だった

 

勉強も普通の子よりできた。いろいろな教科があるが、玲美は絵を描くのが好きな子だった。

 

友達を多く作り、みんなと遊ぶよりも、一人で静かに絵を描いたりする方が、玲美の性格にあっていた。

 

家に一人でいることが多い玲美を、母親は心配することもあったが、学校を休むことなく通っていたし、家ではいつも元気だったため、特に行動を起こすことはなかった。

 

母親は仕事で疲れてはいたが、休みの日はいつも2人で、仲良く買い物や遊びに出掛けた。

 

周りから見ると、仲のいい親子、姉妹のように映っていたかもしれない。

 

母親にとって玲美はかけがえのない、たった一つの宝物だった

 

すくすくと6年生まで成長し、卒業式を迎えた。玲美は、校長先生から名前を呼ばれると

 

「はい!!」

 

大きな声を出して壇上に上がり、卒業証書を受け取った。その堂々とした姿に、久美は小さかった頃の玲美を思いだし、ひとり親なのに、よくこんなに立派に育ってくれた。そう感激し、流れ出る涙をハンカチで押さえた。

 

卒業式の日が終わった後、久美は玲美に

 

「卒業式終わったから、美味しいものでも食べに行かない?」

 

そういうと玲美は

 

「焼き肉食べたい」

 

笑顔で答えた。

 

久美はその笑顔を見て、今日は卒業式だし、少し奮発して、いい焼き肉屋を予約した。そして、同じ席で向かい合い、これからの事を話した。

 

「これからは中学生ね、今はどんな気分?」

 

「不安の方が多いかな。だってクラスが全く変わっちゃうでしょ、せっかく仲良くなった人とも別れちゃうし、あんまり新しい人と仲良くなるの苦手なんだよね、私」

 

「玲美ならすぐ友達できるわよ。」

 

玲美は恥ずかしがり屋で人見知り、そんな傾向のある子供だった。あまり友人を家に連れてくる事はなく、運動音痴で、大勢の人と話すのを苦手としていた。

 

「玲美は将来なりたいものってあるの?」

 

「看護師さんになりたい」

 

恥ずかしそうに答えた。

 

「なんで?」

 

「病気になって苦しんでいる人に、優しい言葉をかけて、元気になってほしいから」

 

「偉いわね。頑張って勉強して、立派な看護師さんになれるといいわね、玲美の笑顔なら、苦しんでいる人も笑顔になれるわ」

 

「うん」

 

小さかったこの子が、こんな優しい夢をもつなんて。優しい子に育って良かった。

 

久美はその夢を絶対叶えてあげよう。そう誓った。

 

時が過ぎるのは早い。卒業式が終わり、あっという間に入学式の前日になった。

 

「お母さん、どう、似合う?」

 

「よく似合うわよ」

 

初めて中学校の制服に袖を通し、恥ずかしそうにしている玲美に、久美は笑顔で言った。

 

「写真館に行って、写真を撮ってもらうわよ」

 

「え~。やだ、恥ずかしいよ」

 

「七五三の時も撮ったでしょ。こんなおめでたい日なのに、写真を撮らないわけにはいかないわよ。」

 

久美は玲美の手を引いて、いつもの写真館に向かった。

 

「玲美ちゃん、もう中学生になるのか。時間の経つのは早いねえ」

 

昔からやっている写真館。店主は玲美の事を覚えている様子で、もの懐かしさを感じながら、写真を撮る準備をした。

 

「はい、撮ります。はい、チーズ」

 

2人は素敵な笑顔で写真に収まった。

 

次の日の天気は晴天だった。2人並んで歩いて中学校に向かった。最近はお父さんも一緒に来ている生徒も多く、久美はそっと玲美の顔を見たが、本人はさほど気にしていない様子だった。

 

「緊張して、胸が張り裂けそう」

 

「そんなに緊張することなんてないわよ。これから毎日通わなくちゃいけないんだから」

 

中学校は、家から歩いて15分程のところにある、全校生徒が500人はどの中規模な中学校。

 

他の生徒と共に、2人は校舎の中に入っていった。歴史ある中学校のためか、少し薄暗く感じた。

 

教室は1年2組。玲美はその扉をゆっくりと開けた。その中には同じクラスの生徒が、もう半分以上入って席に座っていた。

 

小学校から知った顔もあったが、残念ながら同じクラスの生徒はいない。

 

玲美は前から3番目の席に座った。

 

久美は後ろから、その様子を見つめる。小さかったあの娘が、もう中学生なんて。

 

玲美が子供の頃を思い出して、涙が出そうなのをぐっとこらえた。

 

10分後、若い女性が入ってきた。玲美の担任の先生になる人だろう。

 

「初めまして、これからみなさんの担任となる成沢といいます。これからよろしくお願いします」

 

「これからの日程について説明していきます。これから、簡単な自己紹介の後、荷物を整理してもらったら、卒業式のため、体育館に行きます。それまでに10分ほどしかありませんので、きびきび行動してください」

 

成沢という先生は無表情で、全員に言った。

 

感情がなく、人間味に欠ける。ロボットのような人だ。

 

玲美はそう感じた。一人ずつ名前だけ紹介すると、荷物を整理しすぐに教室を出た。

 

入学式が始めると、1年2組の列の後ろの方に玲美の姿があった。その姿は緊張していたが、心配していたより堂々とした様子だった。

 

これからの中学校生活で、玲美にいいお友達ができて、楽しい学校生活が送れますように

 

久美は心の中で祈った。

 

中学生活が始まった。玲美は部活には入ろうとしなかった。もともと運動が苦手なので、運動部は興味がなく、文科系の部活も入らなかった。

 

「玲美は絵が上手いから、美術部に入ったら?」

 

「お母さん、そんな部活ないんだよ」

 

玲美は残念そうに言った。恥ずかしがりやなので、合唱部も嫌だし、演劇部なんて絶対無理だろう。

 

久美はその事は心配したが、玲美は中学校での生活は、久美が仕事から帰ってくると、楽しそうに話した。

 

まだ始まったばかりだが、順調に学校生活はいっているらしい

 

「ただ、担任の先生がなんか嫌なんだよね。他の人も言っているけど」

 

「なにが嫌なの?」

 

「なんか、授業が分かりにくいし、教え方が悪いっていうか。あんまり表情かないからみんな幽霊みたいって言ってる」

 

「先生に向かって悪いこと言わないの」

 

久美は玲美をたしなめたが、実は久美もこの先生大丈夫かな、そう思うところはあった。

 

若いように見えるが、覇気がない。年齢不詳。知り合いの同じ中学に通う母親から聞いた話では、前回担当したクラスは、誰も成沢先生の言うことを聞かず、学級崩壊の状態だったという。

 

それでも、玲美が元気に通ってくれればそれでいい。

 

学校で起こったことを、楽しそうに話す玲美を久美は安心した心境で聞いていた。

 

        2

 

玲美は学校から帰ると、いい天気の時は近くの公園で本を読んだり、携帯のゲームをしながら時間を潰していた。

 

母親の久美は、玲美が中学生になって、少しでも収入を増やそうと、職場で働く時間を2時間ほど伸ばした。

 

パートという不安定な立場から、正社員となり、働くことを決意したからだった。

 

玲美も中学生、これからお金が沢山かかる年齢になってくる。正社員になればボーナスも出るし、以前より給料は上がる。

 

そのため、部活に入っていない玲美は、学校の授業が終わるとすぐ家に帰る。帰っても家には誰もいない。

 

玲美は一人で家にいるより、公園で時々一人で過ごすことにした。4月の夕方の空気はまだ肌寒い日もあるが、厳しい冬が終わり、暖かい春が来ることを、日に日に実感できる。

 

特に4月の下旬近くになると、外の空気が心地よく感じる事が多くなった。

 

いつものように、公園のベンチに腰を掛け、最近買った小説を読み始めた。その小説の内容は恋愛物語で、もうすぐ主人公が優しい男の子と付き合える。

 

玲美が胸を高鳴らせ読んでいると

 

「なに読んでんの、あなた1年生?」

 

突然声を掛けられた。玲美は驚いて上を見上げると、髪の毛を金髪に染めた同じ制服を着た女の子が立っていた。

 

金髪で、怖そうな女に声を掛けられた為、玲美は驚いて上を向いたまま声を出せずにいた。

 

「怖がらなくてもいいのよ。よく一人で公園のベンチにいるから、なにしてるのか、声をかけただけよ」

 

そう言ってその女の子は笑った。その表情を見て、玲美は少し安心し、

 

「本を読んでいるんです」

 

そう答えた。

 

「どんな内容なの?」

 

「えっと・・・恋愛小説です」

 

玲美は人付き合いがあまり得意ではない。特に外見が怖そうな年上の人と、どのように話したらいいかわからず、頭の中はパニックになっていた。

 

「そうなんだ、いつも一人なのね」

 

「そ、そうなんです。まだ学校に入ったばかりだから友達もいなくて・・・」

 

玲美の表情を見た金髪の女の子はニヤリと笑った。

 

「私の名前は、向井七海。3年3組。よろしくね。あなたは名前なんていうの?」

 

「玲美です。倉田玲美と言います。1年2組です」

 

「友達いないんだったら、私が友達になってあげる」

 

玲美は驚いた。友達は欲しかったが、こんな金髪の怖そうな年上の人と、友達になりたいとは思わない。

 

しかし、断るわけにはいかない。

 

「ありがとう」

 

ひきつった笑顔でそう答えた。

 

「ラインの交換しよう。そうすればいつでも連絡取れるし」

 

「ラインですか。わかりました」

 

断るわけにもいかず、玲美はスマホを取り出し、七海とラインの交換をした。

 

すると七海は、玲美の隣に腰掛けた。玲美は話すことが見つからず、頭の中は真っ白になっていた。

 

「暖かくなってきたね」

 

「そうですね」

 

「部活に入らないの?」

 

「運動が・・・苦手で」

 

「そうなんだ。私もそうなんだよ。なんで疲れることしなきゃいけないのか、わかんないんだよね」

 

七海は積極的に、玲美に話しかけてきた。中学生だというのに、ひどい匂いの香水をつけている。

 

早くこの場から立ち去りたかった。

 

しかし玲美にはそれができない。玲美でなくても、この状態から逃げることができる女の子はそうはいない。

 

「ちょっとその本見せて」

 

七海はそう言って玲美から本を取り上げ、パラパラと本をめくり出した。

 

「くだらなさそうな内容ね。しかも小説読むって。漫画の方が面白いじゃない」

 

「そうですよね・・・」

 

玲美はイラっとしたが、顔には出さず、七海の顔を見た。

 

しっかり顔を見ると、化粧も濃くしてあり、中学生とは思えない。笑っているようだが、目の奥が笑っていない。笑顔が怖く感じる。

 

絶対この人、性格悪い。

 

玲美は恐怖すら覚えた。

 

「こんなところで、一人でいるより、楽しい場所あるから、今度行こうよ」

 

「えっ、そ、そうですね」

 

困った展開になってしまった。こんな人と一緒にいるくらいなら、一人でいた方がよほどいい。

 

「おい、七海。こんなところでなにしてんだよ」

 

不意に男の声がした。声のする側を見ると、七海と同じような金髪の男が立っていた。

 

「ああ、翼。この子今日から私の友達なの。玲美ちゃんっていうのよ」

 

「そうなの、かわいいじゃん。俺とも友達になってよ」

 

その言葉に玲美は恐怖を覚えた。相手はどう見ても不良生徒。友達になっても、何一ついいことはない事は察しがついた。

 

しかし、相手は同じ学校の先輩。3年生。中学校に入ったばかりの玲美に、拒否をするという選択肢はないも同然だった。

 

中学校の3年生と1年生は、立場が全く違う。例えば自衛隊の上司と部下の関係のように、言われたことは絶対、拒否などしたらなにをされるかわからない。その関係に似ている。

 

「いいですよ・・・」

 

玲美が答えると、翼は七海と同じようなニヤリとした表情をした。

 

「じゃあ、ラインの交換をしようよ」

 

「わかりました」

 

本当に嫌だったが、この2人に囲まれ、恐怖に怯えていた玲美は、スマホを翼に渡した。

 

ラインの交換を終えると、辺りに雨が降りだした。玲美はチャンスだと思い

 

「雨が降ってきたので帰ります。家に洗濯物が干してあって、取り込まなければならないんです」

 

「そんなの親にやってもらえばいいじゃん」

 

「お母さん、仕事でいないので、家に誰もいないの。だから私が取り込まないと」

 

「そうなの、残念ね。じゃあまた」

 

「はい、失礼します」

 

洗濯物など外に干していなかったが、玲美はこのままではヤバイと、とっさに嘘をつき、その場を離れた。

 

走って家に帰る玲美を、2人はニヤニヤした表情で見つめていた。

 

玲美は家に帰ると、すぐに玄関の鍵を掛けた。そして、自分の部屋に閉じこもった。後悔が自分を襲ってくる。なんであんな人達とラインを交換してしまったのだろう。呼び出されたらどうしたらいいのか・・・

 

玲美は同じ年齢の、性格が大人しい、つまり玲美と同じような性格の友達が欲しかった。髪の毛を染めた、外見が怖そうな上級生とは、出来るだけ関わりを持ちたくなかった。

 

これから何度も呼び出されるのではないか。母親のいない家の中で独り、恐怖に怯えていた。

 

「雨降ってきたから帰る?」

 

「いや、ゲーセンでもいかない?」

 

「そうだな、暇だし」

 

七海と翼は、雨が降り、辺りが暗くなっても家には帰ろうとしなかった。中学生だというのに。

 

向井七海。玲美と同じ中学校の3年生。玲美が予想した通り、学校では問題児として、広く教師から認識されていた。

 

弱いものいじめがひどく、同じクラスの子以外でも気に入らない子供がいると、陰湿ないじめをする。

 

とにかく性格がきつく、同級生はみんな七海の存在を恐れている

 

中学2年の時から、学校をさぼり始め、最近では全く欠席することが多くなった。不良と思われる良くない仲間と一緒にいるところを、何度か同級生に目撃されている。

 

なぜ七海は、不良になってしまったという理由は1つ。頭が悪く、学校の授業についていけなかったからだ。

 

もともと勉強嫌いではあったが、中学になると、学習する内容のレベルは一段と上がる。他の生徒が普通についていっているのに、七海はついていけなかった。

 

本来ならこのような状態では、七海が馬鹿にされるのだが、その状況を本来の性格の悪さ、虚栄心で他の生徒を恐れさせ、今に至る。

 

時々学校をさぼるため、担任の先生も心配し、何度か自宅を訪れ、母親と交えて話をしたが、七海の母親は、七海より性格が悪い。七海がこんな風になったのは学校のせいだ。そう担任を怒鳴り付けた。

 

七海から、学校に行かないのは他の生徒にいやがらせをされるから。

 

そんな言い訳を本気に信じ込む、バカ親だった。自分の性格と娘の性格をしっかり認識すれば、普通の親なら娘が悪いと判断するはずだが、それができない。

 

時々学校にありもしない七海の言うことを信じ、怒鳴り込んでくる、モンスターペアレントだった。

 

学年全体の教師が悩む。そんな生徒だった。

 

小林翼。玲美と同じ学校の3年生。七海と同学年で同じように問題のある生徒だ。

 

子供の頃から、強い者には従い、弱い者をいじめる。小学校から同級生から煙たがられていた。

 

なぜ翼という名前なのかというと、父親が好きな漫画の主人公から付けられた。

 

翼はこの名前が大嫌いだった。顔はかっこよくないし、運動音痴。中学に入った時、翼という名前だけで、サッカー部に入らされることがあった。しかし、1年生の中で、ダントツにサッカーが下手くそで、上級生にからかわれ、1ヶ月も経たないうちに退部した。

 

努力せず、根性もない人間だった。

 

ただ、強い者の懐に入るのは天性の才能があった。1年生ながら、不良の3年生と仲良くなり、よく遊んでいた。

 

ほとんどパシリのような存在だったが、3年生は、翼を仲間に入れてくれた。

 

パシリとはいえ、上級生と仲良くしているため、中学1年のクラスでは、恐れられる存在だった。

 

この頃から、髪の毛を染め、制服をだらしなく着こなすなど、悪行が目立つようになる。

 

しかし、小学校からの知り合いは、強い者にヘコヘコする姿を知っているため、影でスネ夫と呼び、馬鹿にし、嫌っていた。

 

中学3年になると、上の人間がいないため、学校での態度が大きくなった。ただ、誰も翼を慕うものはいなかった。

 

ただ、七海だけが翼と性格が合い、よく一緒にいるようになった。こんな人間に、玲美は運悪く、目をつけられてしまったのだった。

 

 

「ただいま」

 

母親の久美が自宅に帰ってきた。

 

あれ、おかしいな。いつもなら、ただいまと言った途端、玄関まで玲美が笑顔で出迎えに来てくれるのに・・・

 

久美は玲美の部屋を覗いた。すると椅子に腰掛けながら、ぼ~としている玲美の姿があった。

 

学校で、なにかあったわね。母親の勘が働く。

 

「ただいま」

 

部屋に入り玲美の近くで言うと、玲美は驚いた様子で振り返った。

 

「お帰り、帰ってきたの気づかなかった。ごめんなさい」

 

「いいのよ。なにか嫌なことでもあったの?部屋の中で独り考え事をしていたみたいだけど」

 

「いや、なんにもないよ」

 

玲美は無理に笑顔を作る。その笑顔がぎこちなく、久美はなにか悩んでいる事があるなと思った。

 

小学校の時からそう。玲美は悩みがあると、すぐに元気をなくし部屋に閉じこもってしまう。

 

久美は夕御飯を作り、玲美呼んだ。すると覇気のない顔で、玲美は部屋から出てきた。

 

夕食の時間、昨日までの玲美は、ご飯を食べながら今日学校で起こった事を、久美に対して話すのが日課だった。

 

しかし、玲美はなにも言わず、夕御飯を下を向きながら食べていて、顔も合わせようとしない。

 

「学校で嫌なことでもあったの?お母さんに話してみて」

 

「いや、なんにもないよ。今日はちょっと疲れているだけ」

 

小学校の時と変わらない。自分の悩みを人に言うことがない子だった。その時は心配するが、2、3日すると元気になる。

 

久美は今回もそんな感じなのかな。

 

そう思った。ご飯も全部食べたし、様子を見ることにしよう。

 

当の久美も最近疲れきっていた。パートから正社員になったが、今までの仕事とは比べ物にならないくらい、質、量が増えていた。

 

今度は管理する側。今まで同僚だったパートの人やお客様に気を遣い、神経をすり減らす毎日だった。

 

仕事は午後6時まで。しかし最近はその時間では間に合わず、家に帰る時間も遅くなり始めていた。

 

暗い顔の玲美を見て、明日は早く帰らないといけないと思った。

 

次の日、玲美はいつものように学校に向かった。登校中、あの2人には絶対に会いませんように・・・

 

それだけを祈っていた。

 

学校につき、授業が始まる。幸運にもあの2人とは顔を会わせることはなかった。

 

学校ご終わると、すぐに家に帰った。

 

よかった・・・。

 

あんな怖い人にまた話しかけられたらどうしたらいいんだろう。その事ばかり昨日の夜考えていて、不安であまり寝付けなかった。

 

もう、あの公園には行かない。

 

そう思った時、ラインの着信音がなった。玲美の背筋に寒気が走る。

 

画面を見ると、七海という文字が映っている。

 

今、昨日の公園にいるんだけど、出てこれない?翼もいるよ。

 

この文章を読んだ時、玲美は心底怖くなった。しかしスルーするわけにもいかない。

 

今日は塾なんて無理です。ごめんなさい。

 

とっさに、嘘で返すと

 

塾なんていってんじゃねーよ。ふざけんな、そんなのさぼって出てこい

 

明らかに怒った感じの返信がきた。

 

そのラインの文字を見たとき、玲美は恐怖に震えた。昨日は優しく話しかけてくれたが、急に脅迫してきた。昨日笑顔でも目が笑っていない表情を見て、玲美はこの人絶対性格悪いと思ったが…その通りのような気がする。

 

どうしよう・・・

 

心の底から行きたくなかったが、相手は学校の先輩。しかも不良生徒だ。断ったりしたら次に会った時、なにをされるかわからない。

 

わかりました。今から行きます。

 

そうラインに打ち込み、震えながら送信ボタンを押した。

 

そして、走っていつもの公園に向かった。

 

公園につくと、昨日と同じベンチに腰掛けていた。遠目に見ても、2人とも機嫌が悪いのがわかる。

 

玲美はビクビクしながら近づいて行くと、2人は玲美を見つけ

 

「ちゃんと来たじゃん」

 

少し笑みを浮かべた。しかし目は笑っていない。その目を見て、玲美は恐怖で動けなくなった。

 

「なんか、用事でもあるんですか?」

 

「いや、俺たち友達じゃん。暇だから一緒に遊ぼうと思ってさ」

 

翼はそう言ったが、玲美は友達という言葉に寒気が走った。

 

こんな人と、友達になりたくない。

 

すぐに逃げ出したかったが、相手は先輩。どうすることも出来ない。怖くて泣きそうになるのをこらえる。

 

「ちょっとコンビニに行こうよ」

 

「コンビニですか?」

 

「ここじゃあ子供が多くてうるせえし」

 

確かにこの2人はこの公園には場違いだ。ただコンビニに行ってなにするんだろう?

 

歩きだした2人の後ろを、玲美はついて行くしかなかった。

 

コンビニにつくと、2人は中に入り、アイスやジュースなどをかごに入れ、会計を済ませると、コンビニの裏側へと歩いていった。

 

玲美もついていくと

 

「はい、これ飲んで」

 

意外にも七海が先ほど買ったコーラを玲美に渡した。

 

「いや、おごってもらうの悪いんで、自分で買ってきます」

 

「いいんだよ、塾だっていうのに、急に呼び出しちゃったんだから、飲みな」

 

そう言うと、もっと玲美の方にコーラを近づけたので、玲美は仕方なく受け取った。ただ、玲美はコーラの炭酸が苦手で、あまり好きではなかった。

 

その後は翼と七海がずっとしゃべっているのを、ただ聞いていた。

 

今日学校で会わなくてよかったと思っていたが、2人は学校をさぼっていたため、会わなかっただけだった。

 

コンビニの客が、3人を冷たい目で見て通りすぎていく。誰かに助けて欲しかったが、視線を向けるだけで、話しかけてくる大人は一人もいなかった。

 

2人の会話の中で、学校で気に入らない人がいて、その人をいじめて学校に来ることが出来ないようにしたことを、武勇伝のように語る翼には、本当に嫌悪と恐怖を感じた。

 

しばらくすると突然七海が

 

「そろそろ帰ろう」

 

そう言って立ち上がった。翼も後に続く。

 

助かった・・・。

 

なんでも、七海はこれから高校生の彼氏とデートの約束があるらしい。

 

だったら呼ばないで欲しいと玲美は思ったが、時間潰しの相手をさせられてしまったらしい。

 

ただ、この2人に、呼ばれたらどんなことがあっても来る。そういう認識を持たせてしまったことは、これからの玲美の学校生活で、大きな影を落とすことになる。

 

「ただいま」

 

久美は山ほどある仕事を必死の思いで片付け、急いで家に帰り、玄関のドアを開けた。昨日の玲美の元気のない姿が心配で、仕事を定時で終わらせ帰ってきたのだ。

 

しかし、玲美は昨日同様、母親を玄関まで出迎える事はなかった。

 

玲美の部屋に行くと、独り椅子に座り、ボーとしている。昨日と同じく元気がない。

 

「今日も元気のない顔して、どうしたの」

 

久美は出来るだけ優しく声をかけた。その声に玲美は

 

「なんでもないよ。少し考え事をしていただけ」

 

無理に笑顔を作って答えた。

 

やはり昨日からおかしい・・・

 

母親の勘が働く。

 

「学校でなにかあったの?お母さんに話してごらん」

 

「なんにもないよ。大丈夫。それよりお腹空いた。ご飯食べたい」

 

玲美がそう言ったので、久美は仕方なくご飯を作り始めた。

 

母が部屋から出ていくと、玲美は大きなため息をついた。これからどうなっちゃうんだろう。そんな不安が頭の中を覆い尽くした。

 

でもお母さんに心配かけてはいけない

 

玲美は母親が仕事で正社員となり、大変な立場であるということを理解していた。心配させないためにも、お母さんの前では、元気に振る舞わないとだめだ。

 

そう心に決めた。

 

今日の夕食は母親手作りのオムライスだった。玲美は母の作るオムライスが大好物だった。

 

「嬉しい。オムライスだ」

 

そう言った後椅子に腰掛け、オムライスを食べ始めた。

 

「おいしい」

 

笑顔で、次々とオムライスを口に運んだ。

 

しかし、玲美は明日の事が不安で、食欲など全くなかった。しかし、お母さんに心配をかけたくない。その一心でオムライスを食べる。

 

ご飯を美味しそうに食べる玲美の姿を見て、母親の久美は少し安心した。玲美は人と上手く接することが難しい性格なのは自分が一番よくわかっている。

 

学校で上手く友達と接することが出来ないで悩んでいるのではないか、そう心配したが、今日の様子を見れば、取り越し苦労だったのかもしれない。

 

少し安堵の気持ちが身体を覆った。

 

 

次の日、小林翼は不機嫌の絶頂にいた。

 

学校をさぼり続けていることを担任から親にばらされ、2時間以上こんこんと怒られた。父親にはふざけんなと殴られ、これはまずいと学校に行く決意をした。

 

しかし、学校に行ってみれば、クラスメイトは、なんでいるんだこいつ。そんな視線を翼に向ける。

 

4月になり、先輩も卒業してしまい、翼と付き合う人間は全くいなかった。周りの人間は、強い者に従い、弱い者をいじめるという翼の最低な性格を知っていたため、来た途端迷惑そうな態度を、翼にわかるように行った。

 

金髪にして虚勢を張ってみたが、翼は喧嘩も弱く、気も小さい事は見抜かれていた。

 

そして、驚いたことに、勉強の内容も格段に上がっていた。

 

翼は頭が悪かった。なんとか勉強してようやくクラスで下から5番目。そんな人間だったが、3年生になってから、学校をさぼり始めた結果、授業で言われていることが全く理解出来ない。

 

気がつけばそんな状態になっていた。

 

翼は驚き、焦りを抱いた。翼に勉強を教えてくれるクラスメイトは思い当たらない。この状況に耐えきれず、またサボろうかと思ったが、また学校から家に電話されたらかなわない。

 

2年生まで、先輩の後ろに隠れながら、でかい態度をしていた翼に、友達などいるはずもなかった。

 

国語、数学、日本史と授業は続いていくが、翼は全くついていけない。

 

もうこんなに授業の内容は進んでいたのか・・・

 

当たり前の話だが、翼はここまでやばい状態になっていることを初めて理解した。

 

しかし、翼はなんとか1日の授業を終わらせ、家に帰ってきた。

 

今日1日起こったことが、翼の脳裏に浮かんだ。勉強についていけない事も、もちろん浮かんだが、久しぶりに登校してみて、周りの人間の態度の変化は、翼をイラつかせるには十分だった。

 

2年までは、廊下を肩で風を切るようにして歩いていた。

 

周りの人間は、自分と目が合うと恐れてすぐ目をそらした。

 

そんな毎日が当たり前だった。

 

しかし、今日は全く違った。うぜえのが来たよ。そんな表情を露骨に見せるクラスメイトもいたし、休憩時間には、全く存在しないような態度を取られてしまった。

 

翼に恐ろしいほどの屈辱が襲いかかってきた。かといって、クラスメイトと喧嘩する勇気もない。虎の威を借る狐だったが、虎がいなくなった途端、ただの狐になってしまった事を、翼は受け入れることが出来なかった。

 

スマホを取り出し、先輩にラインを送信してみる。しかし、全く反応がない。既読スルーばかりだ。

 

誰も、俺の相手をしてくれる人間がいない。翼が絶望に落ちかけた時

 

倉田玲美

 

ラインの中に、まだ翼の言うことを聞いてくれそうな名前を見つけた。

 

 

         3

 

玲美は家の中で不安に襲われていた。今日も七海先輩から、連絡が来たらどうしよう・・・。

 

何度もスマホをチェックしていた。時間はもうすぐ午後6時になろうとしていた。外も暗くなり始めている。

 

今日は先輩からなにも連絡が無さそうだ。

 

玲美が安心した時、スマホがブルブル震えた。音が出ないよう、バイブにしていた。

 

その音に玲美は震えた。そっと画面を覗き込むと、小林翼という文字が出ている

 

玲美の全身が震え出す。こんな時間に、また出てこいとでも言うのだろうか?

 

ラインの内容を恐る恐るチェックしてみる

 

玲美ちゃん、ひま?少し話があるんだけど

 

画面に写し出された文字を見て、玲美は恐怖を覚える。

 

話ってなんですか?もうこんな時間なんで、先輩のところに行くことはできません。

 

玲美は震えながら送信した。どうか返信は来ないように。玲美は祈ったが、その祈りは通じなかった。

 

別に今から遊ぼうってわけじゃないんだよ。明日俺と遊ばない?

 

玲美はその文字を見て、どうしようか考えた。もうこんな先輩と縁を切りたい。不安な毎日から解放されたい。

 

明日は塾なので無理です。

 

勇気を出して送信した。

 

じゃあ明後日は?

 

向こうもしつこく玲美を誘ってきた。

 

どうしよう。誘いに乗ったら、また以前のように急に呼び出されたりするかもしれない。先輩は金髪だし、明らかに不良。玲美は怖くて、この先輩に会いたくない。

 

明後日は友達と遊ぶ予定があるので、無理です。

 

玲美が送ると、すぐに

 

じゃあ次の日は?

 

翼から返信が来た。

 

なんなのこの人、しつこいにも程がある。玲美は恐怖と気持ち悪さで、さらに全身が震えた。

 

ちょっと、予定があって無理です。

 

もう勘弁して・・・。そう思いながら送信すると

 

てめえ、ふざけてんのか!!予定なんてねえんだろ!!なめてんじゃねーぞ!!!

 

翼から怒りに満ちた返信が帰ってきた。これを見た瞬間、玲美は泣きたくなるくらいの恐怖にかられた。

 

怒らせるつもりは全くなかったのに、どうしたらいいんだろう。頭の中が真っ白になり、全く動けないでいると

 

おい、無視すんなよ。これ以上イライラさせんじゃねえよ!!俺はおめえを学校に来させないようにすることなんて簡単なんだからな!!

 

本当は学校に来れなくなりそうなのは、小林翼の方なのだが、玲美にはその辺の事情は全くわからない。ただ、ただ恐怖でしかない。

 

ごめんなさい。許してください。無視しているわけでもありません。許してください。

 

玲美は慌てて送信する。しかし、翼からは

 

いや、許さねえ。マジで頭に来た。明日学校に来たら、おめえのところに友達連れて会いに行く。

 

小林翼に友達なんていない。しかし、そんなことはわからない玲美は、恐怖で涙がこぼれてきた。

 

先輩、許してください。本当にごめんなさい

 

絶対に許さねえ。俺を怒らせたらどうなるか、ひどい目にあわせてやる。

 

どうしたら許してくれますか?

 

玲美は泣きながら、ラインを送信した。

 

しばらくすると、翼から返信があった。そこには、目を疑うような言葉が並んでいた。

 

「裸の写真を送れ。そしたら許してやる」

 

玲美はそんなこと出来るはずがないと送ったが、翼は

 

送らねえんだったら、友達とお前の家に乗り込んでやる。お前の家はわかってるんだからな。

 

信じられないこの人、どうしたらいいの?翼という先輩の気持ち悪さに震え、涙があふれ出てくる。

 

本当に嫌です。他に許してくれる方法はありませんか?

 

藁にもすがるような思いで、玲美は送信した。翼の顔が頭に浮かぶ。金髪で柄が悪く、身長も玲美よりずっと高い。そんな相手に逆らうことが怖くて出来るはずがない。

 

いいから送れよ。そしたら許してやる。

 

それだけは嫌。本当に許してください。

 

いや、許さねえ。俺はマジで頭に来てるんだ。

 

なんでこんなことに・・・。玲美は何度も拒否するが、翼の怒りは治まる様子がない。その怒りが怖くて仕方がない。やりとりを10分以上続けたが、火に油を注ぐ結果となっている。

 

お前に家に怒鳴りこんでいくぞ!!

 

この言葉に玲美はもうだめだ、そう思った。家に来たらお母さんに迷惑をかけてしまう。

 

送ったら、本当に許してくれますか?

 

とうとう観念して送ってしまった。

 

送ったら許してやるよ。

 

その返信に泣きながら上着のボタンを1つづつはずし始めた。そして、Yシャツを脱ぐと、下に着ているシャツも脱いだ。

 

辛さで涙が止まらなかった。しかし、スマホを自分に向けると

 

パシャリ

 

写真を撮って、ラインで送った。屈辱と悲しみで、気が狂いそうになった。そして、自分の行ったことの重大さを感じ、絶望感が玲美を包んだ。

 

「ただいま」

 

それから30分ほどして、母親の久美が帰ってきた。呆然としていた玲美はその声を聞き、玄関まで迎えに出た。

 

先程の出来事を母親に相談しようと思った。しかし、なんでそんなことしたの?そう怒られるかもしれない。そう思うと、母親に相談できず、

 

「お帰り、お母さん」

 

そう言って、無理に笑顔を作った。

 

次の日、玲美は悲愴感に包まれながら学校へと向かった。なんであんなことを・・・。自分を責め、眠ることが出来なかった。

 

もし、翼先輩にあったらどうしてらいいのか。そればかり考えていた。

 

学校の授業もほとんど頭の中に入ってこない。後悔と恥ずかしさで、この場から逃げたかった。

 

昼休みが始まり、給食を食べ終えた後、意外な人物が玲美の前に現れた。

 

向井七海である。

 

七海は教室の窓から玲美をこっちに来て、そう手でジェスチャーをした。玲美はは席を立ち上がり、七海がいる廊下へと進んだ。

 

七海は誰もいないところまで、玲美を連れていくと

 

「あんた、なんてあんなことやったの?」

 

怒った様子で話しかけた。

 

「なんの事ですか?」

 

「裸の写真、翼に送ったでしょ」

 

「え!!」

 

玲美は絶句した。確かに昨日翼先輩に裸の写真を送った。でもなぜ七海先輩がその事を知っているのか・・・。

 

「翼のバカ、友達にその写真送ってるわよ」

 

七海の言葉に、玲美は強いショックを受けた。あの写真をばらまかれたら、この学校では生きていけない。

 

「女子は気持ち悪いってみんな言ってるけど、男子は盛り上がってるわよ」

 

「本当ですか?」

 

「本当よ、こんなこと嘘つくわけないじゃない」

 

「どうしよう。みんなに見られたら、私生きていけない」

 

「大丈夫よ。私がなんとかしてあげる」

 

「本当ですか。先輩、お願いします」

 

玲美は頭を下げた。この状態になったら頼れるのは七海先輩しかいない。

 

「今回の事はひどすぎるし、なんとか力になってあげる」

 

そう言って七海は3年の教室に戻っていった。

 

しかし、七海は力になるつもりは全くなかった。ただこの事実を玲美に伝え、どのような反応を示すか、その表情を見て楽しみたかっただけだったのだ

 

教室への帰り道、七海は玲美のショックを受けた顔を思いだし、声を出して笑った。

 

玲美はその後、不安と絶望感が身体を覆いつくした。おもいっきり泣きたかった。だが、教室の中で突然泣き出すわけにはいかない。

 

ぐっと耐えて、早く授業の時間が終わるのを待った。

 

放課後、男子校生と目が合うと、全身が震えた。もしかしたらあの写真を見たのではないか?

 

そんな思いが頭の中を駆け巡り、下を向きながら家に帰る道を急いだ。

 

家に帰ると、玲美は独り部屋の中で泣いた。今までに無いくらいの大きな声

 

なんでこんなことになるのよ!!私がなにか悪いことしたの!!

 

翼のあまりにひどい行動に、屈辱、怒り、憎しみが爆発した。翼の笑っている顔が頭の中に浮かんでくる。

 

玲美は部屋にあるクッション、ぬいぐるみを手当たり次第に壁に投げつけた。

 

許せない。

 

そう思うが、相手は上級生。しかも玲美よりずっと身体が大きい。思いきり、ひっぱたきたい気持ちになるが、力の弱い玲美ではどうしようも出来ない。

 

今頃あの写真はどのくらい広がっているのだろうか。全く予想が出来ない事が玲美を苦しめる。

 

誰か助けて!!

 

玲美はベッドにうつ伏せになり、泣き続けた。

 

「ただいま」

 

久美は仕事を終えて帰宅した。

 

しかし、玲美の姿はない。嫌な予感がした。久美は恐る恐る玲美の部屋のドアを開けた。すると目の前に、驚きの光景が広がっていた。

 

 

部屋の中はぐちゃぐちゃで、クッションやぬいぐるみが床に散乱している。

 

部屋の電気を付けると、玲美はベッドの上でうつ伏せになりながら泣いていた。

 

「玲美、どうしたの?なにがあったの?」

 

そう声をかけるが、玲美はなにもはなそうとしない。

 

「なにが起こったか、お母さんに話してちょうだい」

 

久美は話しかけるが、玲美は黙ったまま泣き続けている。

 

どうしたらいいんだろう・・・

 

久美が困惑していると

 

「お母さん・・・」

 

玲美が泣きながら声を出した。

 

「なに、どうしたの?」

 

「お母さん・・・私・・・死にたい」

 

玲美の絞り出すような声が聞こえた。

 

その声を聞いたとき、久美は驚愕した。先日まで元気で笑顔を絶やさなかった玲美が、急に死にたい、そんなことを言い出すなんて・・・。

 

「なにがあったの?お母さんに教えて。」

 

玲美に何度も尋ねたが、答えは帰ってこない。

 

どうしたらいいの?なにがあったかわからないのでは、対策がうてない。

 

ただ、この娘が学校で嫌なことをされている。いじめにあっているのではないか

 

いじめられている子は、ほとんど両親には相談しないと言われている。最近、元気がない事を久美は気づいていたし、心配してもいた。

 

ほとんどの子がいじめを相談しない中、玲美は私にサインを出してくれた。

 

このサインを見逃したり、放っておいては絶対いけない。

 

「玲美、起きなさい」

 

出来るだけ優しく久美は玲美に話しかけた。その言葉を聞いて、玲美はゆっくり起き上がった。

 

そして、玲美を優しく抱きしめると

 

「玲美、辛い目にあったねえ。大丈夫。お母さんが絶対守ってあげる」

 

玲美と目を合わせて久美は言った。

 

「お母さん!!」

 

玲美はお母さんに抱きつき、いつまでも泣いていた。

 

 

次の朝、久美は玲美に学校を休ませ、自分も仕事を休んだ。

 

そして、朝一番に中学校に電話した。

 

「1年2組の倉田玲美の母ですが、担任の成沢先生お願いしたいんですが」

 

そう伝えると長い保留音の後、

 

「はい、成沢です」

 

担任の成沢先生が電話口に出た。

 

「うちの娘の様子がおかしいんです。最近元気がないと心配していたんですけど、昨日仕事から帰ってきたら、部屋で大泣きしていまして」

 

「はあ、そうなんですね」

 

「最後は、私に向かって死にたいと言ったんです。私の考えでは、あの娘いじめにあっていると思うんですよ」

 

「そんなことはないと思いますけど」

 

「学校で変わったことありませんでしたか?」

 

「いや、そんな様子はなかったと思いますけどね」

 

久美はイライラしていた。娘が死にたいほど苦しい立場にいるからこそ、必死で訴えているのに、この教師はまるで他人事のような対応をしている。

 

「玲美になにがあったか、調べてください」

 

「わかりました。夕方までに調べて、お母さんに連絡します」

 

担任の成沢は電話を切った時、面倒くさい事が起こった。そう思った。ただでさえ学校の仕事で本人の手に余るくらい忙しく感じているのに、今度はいじめの調査をやらなければならなくなった。

 

こっちは猫の手も借りたいくらい忙しいのに、また仕事を増やして・・・。

 

成沢は少しイライラした気持ちで、教室に入っていった。成沢が入ってきたというのに、教室内の生徒はまるで存在を無視するように雑談している。

 

4月下旬になったばかりだというのに、学級崩壊が始まっている。

 

玲美の席を見たが、母親が言った通り誰も座っていない。

 

面倒くさい。成沢は心の中で思う。この教師には、生徒を教える、育てるという熱意が全くなかった。

 

いくつか大学を受験したところ、教育学部がある大学に引っ掛かり、そのままの流れで教師になった人間だった。

 

「今日、倉田さんがお休みするみたいだけど、心当たりのある人はいますか?」

 

生徒に問いかけてみる。すると、教室が静かになった。多分他の生徒も心配しているのだろう。そう察しがつく。

 

一応、クラスの仲の良さそうな女の子に聞いてみるが、全く心当たりがないという

 

これは、母親の思い過ごしだな。そう思い、玲美のいじめの件は片付け、成沢は授業を開始した。

 

久美はどうしようもないイライラの中にいた。なんなの、あの教師の態度は。玲美があれだけ泣いて苦しみの底にいるのに、あまりに事務的な態度をされたことに頭に来ていた。

 

玲美は朝からずっと寝ている。朝御飯も食べたくないと言った。昨日の夕御飯も食べずに寝てしまったので、丸1日何も口に入れていないことになる。

 

今の玲美に昔元気だった面影はない。無表情で、1点を見つめ、全く表情を変えない。

 

本人は何も言わないが、本当にひどい目に遭ったと想像できる。なのに、成沢の態度には、玲美を心配するような言葉が全くなかった。

 

しかし、母親1人で乗り込んでいってもなにもならない事は、久美でも理解している。今は担任の成沢から連絡を待ち、もしいじめられているとしたら、すぐに対応してもらわなければならない。

 

そろそろお昼ごはんの時間になる。久美はお粥と、消化にいいものを作り、玲美の部屋へと持っていった。

 

ドアを開けると、変わらず玲美は無表情で、上を向きながら寝ていた。

 

「玲美、お昼ごはんよ。お粥作ったから少しでいいから食べなさい」

 

枕元に料理を置こうとすると

 

「お母さん、ごめん。食欲なくて食べられない」

 

上を向きながら無表情で玲美は言った。

 

「いいのよ、食べられなくても。ここに置いておくから、食べたくなったら食べなさい」

 

そう言って、枕元に食事を置くと、ゆっくり玲美の部屋を出ていく。

 

久美はスマホを見るが、着信記録はない。

 

玲美がこんなに苦しんでいるのに、いじめている子は何事もないように学校生活を送っている。

 

その事実が、久美のイライラを増幅させた。まだいじめだと決まったわけではない。しかし、久美は玲美がいじめにあって、こんな状態になってしまっていることを半ば確信している。

 

小学校の時は明るく、学校が大好きな娘だった。こんなに精神的に追い込まれてしまうのは、いじめ意外にあり得ない。

 

母親の勘だった。

 

しかし、担任からはまだ何も連絡がない。早くいじめている子を特定してもらって、いじめをやめてもらわなければ。

 

その日の夕方、ようやく担任の成沢から連絡が入った。

 

「玲美をいじめている子はわかりましたか?」

 

「今日、クラスメイトに聞いてみたんですが、みんな心当たりがないと言っていまして」

 

「そんな馬鹿な、玲美は死にたいって言うほど苦しんでいるんですよ」

 

「お母さん、調べましたが、そのような事実はありません。明日学校に来るように言ってください。しっかりと玲美さんの様子を見ますから」

 

「そんな・・・」

 

久美の頭の中は混乱していた。玲美は別人のようになってしまっている。学校が原因としか思えない。

 

しかし、担任は調べた結果、いじめはなかったと話した。

 

どうしたらいいのか・・・。もっとしっかり調べてくださいとお願いした方がいいのか。

 

そして、担任が言ったように、明日学校に通わせた方がいいのか?

 

とりあえず、久美は玲美の部屋に行き、今担任から聞かされたことを話した。

 

「成沢先生から、クラスメイトが玲美が来ないことを心配しているそうよ。明日行ったらゴールデンウィークの休みになるから、学校に行ってみたら?」

 

私の問いかけに、玲美は無表情のままだった。

 

「でも、辛いなら学校に行かないで休んでもいいわよ」

 

玲美を気遣い、どちらでも選択できるように久美は言った。それでも玲美は全く反応を示さなかった。

 

いじめでもないのに、玲美はどうしてこんなにショックを受けてあるんだろう。

 

担任からいじめはないと言われたから、いじめはないのだろう。

 

なら、どうして玲美はこんなに苦しんでいるのか。久美には理解できなかった。

 

しかし、久美には、成沢が朝の朝礼の時に、クラスメイト全員に問いかけただけで、それ以外の事を全くしていないことを知るよしもない。

 

その日の晩、玲美がベッドから起き、部屋から出てきた。

 

「玲美、大丈夫?体調悪くないの?」

 

「良くなった。明日学校に行く」

 

「無理しなくてもいいのよ」

 

久美は心配してそう言ったが、

 

「大丈夫、ごはん食べたい」

 

そう言ったため、久美は少し安心した。

 

丸1日何も食べていない状態なので、お粥と消化に良さそうな物を食卓に並べた。

 

出された料理を半分ほど食べると、

 

「お腹いっぱいだから寝る」

 

そう言ってまた部屋の中に入っていった。久美は心配でたまらなかったが、玲美が学校に行くという気持ちが出てきたのは、少し嬉しくもあった。

 

玲美は決意していた。どんなに惨めでも負けたくない。部屋に引きこもっていてはだめだ。先生に今までの事を全部話してみよう。そしたら先生も力になってくれるかもしれない。

 

かすかな希望ではあるが、今玲美に出来ることはそれしかなかった。

 

次の日、学校に行く時間に玲美は起きてきた。

 

「玲美、大丈夫なの?」

 

心配になり、久美が声をかけると玲美は母親の目をしっかりと見つめ

 

「私、負けたくない。学校に行ってくる」

 

堅い決意をもった表情で答えた。その言葉を聞いて、久美は涙がこぼれそうになるのを必死でおさえた。

 

久美は昨日の夜、玲美の事が心配で一睡も出来なかった。辛かったら、学校になんか行かなくていい。朝、玲美にそう言うつもりだった。

 

しかし、玲美の決意した表情を見て、一番辛い思いをしているこの娘も闘っているんだ。私が不安になってどうする。

 

心の中でそう思った。

 

簡単な朝御飯を食べた後、玲美は学生服に着替えた。そして、時間になると

 

「お母さん、行ってきます」

 

そう言って玄関を出ていった。

 

「無理しちゃだめよ」

 

久美は玲美の後ろ姿にそう声をかけるしかなかった。

 

玲美は下を向きながら学校に向かう。もしも男の子と目があったりしたら、その時点で家に帰りたくなってしまうかもしれない。

 

苦しい思いに包まれながら、一歩一歩中学校に向かった。下を向いて歩いていたので、誰かと目が合うということもなく、教室にたどり着くことができた。

 

玲美は心臓が飛び出そうな気持ちになりながら、教室の扉を開いた。

 

全員の視線が玲美に向けられる。

 

1人の女の子が、玲美を見て近づいてきた。

 

何を言われるんだろうと、心臓が止まりそうになるほど緊張した。

 

「玲美ちゃん、学校休んでどうしたの?」

 

その娘は最近仲良くなり始めた女の子だった。

 

「熱が出ちゃって、もう大丈夫」

 

「本当に、よかった」

 

その娘の笑顔を見て、玲美は少し安心した。このクラスには、自分の写真が出回っていることはないらしい。

 

男の子も特に玲美を気にすることなく、談笑している。

 

よかった・・・。

 

このクラスには、玲美が体調を崩す前と同じ時間が流れている。自分の席に座り、カバンから教科書を取り出し、机の上に置いた。

 

しばらくすると、担任の成沢が前の扉から入ってきた。入ってきた途端、玲美と目が合う

 

成沢は玲美に近づき、

 

「大丈夫?」

 

そう声をかけた。玲美はその言葉に

 

「大丈夫です」

 

うなずきながら答えた。

 

なんだ、いじめはなかったのか。玲美の顔を見て、成沢は判断した。

 

全く大袈裟だ。母親は娘は死にたいと言っているなんて大事のように私に迫ったが、全くそんなことはなさそうじゃないか。

 

でも、変な仕事が増えなくてよかった。そう思いながら授業を始める。しかし、その授業を真剣に聞いている生徒は少なかった。

 

その日の放課後、玲美は強い決意のもと、職員室に向かった。そして、担任の成沢を見つけると、相談にのってもらいたいことがある、そう伝えた。

 

玲美の真剣な表情に、成沢は個室の中に玲美を案内した。

 

「倉田さん、相談にのってもらいたいと言ってたけど、どうしたの?」

 

本当はこんなことを担任とはいえ言いたくはなかった。でも玲美は先生なら味方になってくれると信じ、今まで起こった全てを話した。

 

夕方に公園のベンチで本を読んでいたら、突然3年生の向井七海先輩と、小林翼先輩に声をかけられたこと。

 

2人に突然呼び出され、断るとすぐ怒り、とても怖いこと

 

玲美の話を成沢は静かに聞いていた。

 

「先生、一番怖いのは、小林先輩にある日裸の写真を送ってこいと言われて・・・」

 

「裸の写真!!」

 

「そうなんです。何回も断ったんですけど、断れば断るほど、小林先輩が怒り出して」

 

「それで、もしかしてあなた・・・」

 

「小林先輩のことが怖くて・・・。自分の裸の写真を撮って送りました」

 

「なんてこと!!」

 

突然の告白に成沢は狼狽した。どう答えればいいのかわからない。事があまりにも異質すぎる。

 

「写真なんて送ったら、今の時代どこに流れていくかわからないのよ」

 

「でも、先生。私怖くて・・・」

 

玲美は涙を流し始めた。

 

「先日、向井先輩が教室に来て私に言ったんです。小林先輩が私の写真を友達に送ってるって。それ聞いて私本当にショックで・・・」

 

その言葉を聞いて、成沢は考え込んだ。部屋の中には、玲美のすすり泣く声だけがこだましている。

 

「わかったわ。上級生がすることでもこれはかなり悪質ね。小林君には私から強く言っておくから」

 

成沢がそう言うと、玲美は首を振った。

 

「先生、でも私怖いんです。小林先輩が。先生にチクったなんてわかったら、私どうなるかわかりません」

 

「じゃあこのままにしておくつもり?」

 

「それも嫌」

 

成沢は玲美の気持ちがわからない。もし玲美が言っていることが本当なら、すぐに上級生に出回っている写真を削除しなくてはならない。しかし、本人はそれを拒否している。

 

「今日は先生に相談できただけで十分です。先輩達には、言わないでください」

 

「あなたはそれでいいの?」

 

「はい、大丈夫です」

 

玲美は泣きながら答えた。玲美の頭の中も混乱していた。すぐにでも写真をこの世から消してほしい。しかし、上級生からの仕返しも恐ろしい。

 

成沢に話している途中、小林翼の顔がフラッシュバックのように頭の中を駆け巡った。そして、どうしたらいいのか自分でもわからなくなってしまったのだ。

 

「先生、とりあえず今日は相談だけということにしてください。絶対先輩に言わないで」

 

玲美の頭の中で、上級生からの仕返しが怖いという思いが勝ってしまった。

 

「わかったわ。倉田さんがそれでいいというのなら、今回のことは、私の胸の中にしまっておく。でも、事が事だから、何か手を打たないといけないわよ」

 

成沢は仕方なくこの場を納めることにした。

 

気持ちが落ち着いてから、玲美は学校を後にした。先生に話すことができた。それだけで今の玲美には大きな前進だった。

 

話す前まで、恐怖が全身を襲っていたが、今は落ち着いている。

 

明日からゴールデンウィーク。連休になる。学校に行かなくてもいいということが、玲美の心を軽くする要因の1つでもあった。

 

ようやく家に着き、玲美は自室に入った。その時、急に不安に襲われた。先生に相談したが、それがよかったことなのか?

 

今、私の写真はどのくらい広がっているのか、そんな感情が先程と同じくフラッシュバックとして玲美に襲いかかった。

 

私が何か悪いことをした?なんでこんな苦しい思いをしなくちゃいけないの?

 

そう思うと先程まで安定していた精神が、ガタガタと崩れ始め、また目から涙が流れ落ちた。

 

久美は仕事を終えると、すぐに家に帰宅した。

 

「ただいま」

 

ゆっくりと玄関を開けて、声をかける。心臓がバクバク音を立てるのが自分でもわかった。本当は仕事も休みたかったが、正社員となり、いろいろな仕事を任せられている状態で、何日も仕事を休むわけにはいかなかった。

 

「お帰り、お母さん」

 

玲美が部屋から出てきて、久美の前に立った。疲れきった表情をしている。私に心配をかけないために、部屋から出てきたことは、すぐに察しがついた。

 

「今日学校に行ってきたの?」

 

「うん」

 

そう答えた玲美を見て涙が出てきた。そして、玲美を抱きしめ

 

「良く頑張ったね」

 

玲美に言った。すると玲美は、

 

「大丈夫だよ。行ってよかったよ、お母さん、泣かないで」

 

泣いている久美を慰めるように答えた。

 

令和3年5月のゴールデンウィークの日の並びはとても良く、5連休だった。ただ、コロナウイルスご蔓延していたため、外出は自粛するようにと毎日のようにテレビ番組でアナウンサーが視聴者に向かい話しかけていた。

 

玲美は始めの2日は、部屋の中から出ようとしなかったが、その次の日になると精神的に落ち着いてきてのか、時々起きて母親と話すことも増えてきていた。

 

玲美が心配していた、小林翼や向井七海からの連絡が全くなかった事が、玲美の気持ちを安定させていた。

 

「せっかくの休みだから、外で美味しいものでも食べよう」

 

そんな様子を見た久美は、玲美に話しかけると

 

「いいよ。ハンバーグが食べたい」

 

笑顔で答えた。

 

久しぶりに、家族2人で外出できる。久美は嬉しくなり、化粧を整えると近くのファミリーレストランに行った。

 

玲美はハンバーグ、ドリンクバーを頼み、久美も同じものを頼んだ。

 

小学校の時は、玲美がここのハンバーグが大好きで、よく2人で行ったものだった。昔の事を思い出してしまう。

 

でも、玲美が少しづつでも元気になってくれる。それだけで嬉しかった。

 

玲美は残さずハンバーグを食べると、何度もドリンクバーでジュースを汲みに行った。

 

「コロナが落ち着いたら、どこかに旅行に行きたいね」

 

「夏になったら海に行きたい」

 

「そうね。今年必ず行こうね」

 

「お母さん、約束ね」

 

玲美は笑顔でそう言った。

 

誰もが感じると思うが、休みというのは時間がすぎるのはあっという間である。もう、次の日学校に行く日になった。

 

玲美は学校に行くつもりで、宿題も終え、準備を終えた。

 

しかし、心臓は自分でもわかるくらいどきどきと音を立てていた。不安が全身を包み込む。それでも、玲美は学校に行く決意を変えることはなかった。

 

次の日、玲美は以前と同じように、下を向きながら学校へと向かった。教室の雰囲気は連休前と変わらなかった。

 

その雰囲気に玲美はほっとしながら席に着いた。担任の成沢が入ってきたが、特に玲美に気にかけることもなく、授業は進んでいった。

 

玲美はこのまま何も起きませんように、そう心の中で祈ったが、授業が終わり、学校から帰ろうと思った時、心配していたことが現実となってしまう。

 

学校から出て、校門に向かう途中

 

「あの娘じゃね?」

 

男の声がして、玲美は声のする方に顔を向けた。すると、男子5人程がスマホを見ながら玲美を見ている。

 

「あの娘だよ、翼が送ってきた写真の娘」

 

5人の視線が玲美に集中する。その時、玲美は私が送った裸の写真写真を見ていると直感した。

 

七海先輩が言った通り、私のあの写真は、知らない人に送られていたんだ!!

 

七海はその視線から逃げるように、下を向きながら走った。恥ずかしさとショックで、頭の中は錯乱状態となった。

 

家に帰ると、ベッドの中に潜り込んで独りで泣いた。

 

知らない人が私の写真を見ている。それがどのくらい広がっているかわからない恐怖、恥ずかしさ。

 

「もう、死にたい!!」

 

玲美は布団の中で叫んだ。

 

もう、学校には行きたくない、というより行けない。外にも出たくない。玲美の頭の中には、近くにいる同じ中学校の生徒も、その写真を見ているのではないか。

 

そう考えると、誰とも会いたくない。

 

絶望感と希死念慮が頭の中を支配していた。

 

「ただいま」

 

久美が仕事から戻ったのは、午後7時を回ったところだった。少し仕事が長引いてしまい、遅くなってしまった。

 

玄関を開けたが、家の電気は全く付いていない。真っ暗な空間が広がっていた。

 

嫌な予感がした。玲美がまだ帰ってきていない。もしかしたら、学校で辛い目にあって、どこかに行ってしまっているのではないか。

 

「玲美、帰ったよ」

 

玄関の電気を付け、家の中に声をかけたが、全く反応がない。

 

すぐに玲美の部屋の中に入った。すると玲美は、ベッドの中で横になっていた。

 

それを見て久美は安心した。もしかしたら最悪の事態が起こっているかもしれない。その思いが頭をよぎったからだった。

 

「玲美、寝ているの?」

 

ベッドに向かって声をかけるが全く反応がない。久美は布団をゆっくりと持ち上げた。

 

「どうしたの、玲美!!」

 

ベッドには全く表情のない、人形のような顔をした玲美の姿があった。これはただ事ではない。玲美はそう感じた。

 

「学校で何かあったの?お母さんに話してみなさい」

 

声をかけるが、玲美の表情は全く変わらない。1点を見つめ、全く動こうとしなかった。

 

玲美はすぐに学校に連絡した。

 

「担任の成沢先生はいますか?」

 

そう電話に出た人間に聞いてみたが、成沢は10分ほど前に帰宅した。そう伝えられた。

 

私がもう少し早く帰ってきていれば・・・

 

久美は今日帰りが遅くなったことを心底後悔した。

 

次の日、久美は朝一番で学校に連絡を入れた。

 

「担任の成沢先生につなげてください」

 

そう伝えると、保留音に切り替わった。

 

昨日の夜、玲美はまった起きてこなかった。何度声をかけても、まるで人形に話しかけているように反応がない。当然夕御飯も食べなかった。

 

「はい、代わりました。成沢です」

 

「倉田玲美の母ですけれども、昨日からまた玲美の様子がおかしいんです。ベッドから全く起きようとしないし、食事も全く食べません。昨日、学校で何かあったんじゃないでしょうか」

 

「・・・何もなかったと思いますが」

 

「思いますがじゃあ困ります。玲美はひどいショックを受けているんですよ」

 

「そうですか。クラスメイトに倉田さんが昨日、なにかなかったか聞いてみます」

 

「お願いします。私はいじめられているんじゃないかと思うんですが、先生に心当たりはないですか?」

 

「いや、特にありませんね。これから倉田さんになにがあったか調べますので」

 

「お願いします。玲美が別人みたいに元気がないんです。どうか原因を突き止めてください」

 

「わかりました。調べが終わり次第お母さんに連絡します」

 

成沢はそう言うと、電話を切った。久美は相変わらず事務的に対応する成沢に、心底頭に来ていた。

 

ご飯も食べない、寝ているだけ。そういうことが自分の生徒に起こっているのに、心配になるという気持ちがないのか

 

玲美の状態を確認しに、家に来てもいいはずなのに

 

どうにも頼りにならない担任に対し、途方に暮れるしかなかった。

 

電話を切った成沢は、昨日の事を思い出していた。倉田さんに特に変わった様子はなかった。授業も真面目に取り組んでいたし、他の生徒にいじめられているような様子は見られなかった。

 

その時、成沢の脳裏に、先日倉田さんに相談を受けたことを思い出した。

 

そうだった、連休前に上級生にいじめられていると相談された。確か裸の写真を送るように脅され、怖くて送ってしまい、その事で悩んでいる、そういう内容だった。

 

連休中、恋人とお泊まりデートをしていたため、すっかり忘れていた。

 

また面倒なことが起こってしまった。とりあえず、あの2人に事情を聞いてみるか。

 

成沢は、玲美が先輩には言わないでほしいと言われたことをすっかり忘れ、2人に事情を聞くことを決めた。

 

放課後、成沢は2人を呼び出した。そして、相談室という個室で話を聞き始めた。

 

「何のようですか?私今日忙しいんですけど」

 

成沢に対し七海は刺々しい表情をした。翼も椅子に大きく股を開いて座り、面倒臭そうな表情をしている。

 

「倉田玲美さんのことなんだけど、最近体調が良くなくて休みがちなの。2人は何か知っていることない?」

 

成沢が問いかけると、2人は見つめ合い、薄ら笑いを浮かべた。

 

「いや、知らないっすよ」

 

翼は平然と答えた。

 

「倉田さんから相談を受けたの。あなた達2人にいじめに合っているって。倉田さんがあなた達とコンビニで話しているのを見たっていう生徒もいるの。知らないってことはないでしょう?」

 

2人はまた薄ら笑いを浮かべた。

 

「確かに私達は最近あったりしてますけど、いじめたりはしていません。友達です」

 

七海は平然と答えた。

 

「ラインで倉田さんの裸の写真を送らせたって本人はいってるけど」

 

「そんなことありません…証拠でもあるんですか?」

 

「証拠は・・・ないけど」

 

「そんなことしていません。私達と倉田さんは友達ですから」

 

七海に威圧的に言われ、成沢は後に続く言葉が出てこなかった。中学生なのになんて態度なんだ。どういう教育を受けたら、こんな出来損ないみたいな人間になるのだろう。

 

「私忙しいので、これで帰ります」

 

「俺も予定があるので失礼します」

 

「ちょっと待ちなさい。まだ話があるの」

 

成沢が止めるが、2人は無視するかのように部屋を出ていった。止める術を知らず、相談室の椅子に呆然と座っていた。

 

帰り道、2人はイライラしていた。自分達が悪いことをしたという感覚はない。なぜ玲美は担任にチクったりしたのか。

 

「頭来るわねあの娘。なんで先生にいうのかしら」

 

「まったくだ、友達がいないから遊んであげているのに。ふざけんなって感じだよ。」

 

「このままじゃあ、私達が悪者になっちゃう。なんとかしないといけないわね」

 

「そうだな、上級生をなめたら痛い目に合うってことを教えてやる」

 

完全に2人が悪いのだが、2人は自分が悪いことをしたという認識が全くない。人間的になにか欠けているものがある。それは生まれもったものなのか、教育が原因なのかわらない。多分その両方なのだろう。

 

相談室に取り残された成沢は、心底参っていた。玲美から先輩には言わないでほしいと頼まれていた事を、今になって思い出したのだった。その上、あのような形で終わってしまった。

 

もしも倉田さんが言っていることが本当だったら、火に油を注ぐ結果になったのは間違いない。

 

それにこれから玲美の母親に連絡をしなければならない。なんて言えばいいのか。頭を抱えていた。

 

しかし、ずっとこの部屋の中にいるわけにもいかない。重い腰を上げ、職員室に戻った。

 

深呼吸をした後、連絡を入れた。

 

「倉田さんのお母さんですか。担任の成沢です。ご連絡遅れて申し訳ありません」

 

「先生、なにかわかりましたか?」

 

「いや、特に倉田さんに対するいじめはないと、クラスメイトからもいじめの話はなくて・・・」

 

「上級生はどうなんですか、七海先輩と翼先輩については?」

 

「え?」

 

突然母親から上級生についての追求があり、成沢は驚いて言葉に詰まった。

 

「今日、玲美が枕元で何度も、先輩許してくださいって独り言のように言っていたんです。その2人について、なにか知っていることはありませんか?」

 

「・・・えっとですね。確かにその2人と仲良くしているようです。いじめの関係性はないと。仲のいい友達だと思います」

 

「玲美はうまく友達をつくれない性格なんです。人見知りひどくて。それなのに上級生が仲のいい友達なんて、信じられないんですけど」

 

「その辺りは調査しました。2人とも仲のいい友達で、倉田さんが体調不良で休んでいることを心配しているみたいです」

 

成沢はとっさに嘘をついた。母親から、あの2人について質問が来るのは想定外だった。

 

「玲美は体調が悪いので、しばらく学校を休ませます。早く玲美がこうなってしまった原因を調べてください。そして、早く学校にいけるようにしてください。お願いします先生」

 

受話器から母親のすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「わかりました。早く倉田さんが学校に行けるように、調査します」

 

そう言って電話を切った。

 

電話の後、久美は途方にくれていた。玲美は全くベッドから起きてこない。昼食も作って枕元に置いてはみたが、手をつけた様子は全くなかった。

 

玲美の事が心配で仕方がない。しかし、相談できる人間もいない。

 

しばらく学校を休ませると伝えたが、仕事はどうしたらいいのか。こんな状態の玲美を独りにさせておくわけにはいかない。

 

しかし、仕事をしなければ生活ができない。

本当にどうしたらいいのか。早く玲美がこんな状態になってしまった原因がわかり、元の明るい玲美に戻ってほしい。

 

 

久美は祈るしかなかった。

 

午後7時、久美は食事を作り、玲美の部屋に入っていった。

 

「玲美、ご飯を作ったわ。少しでいいから食べてちょうだい」

 

枕元に置こうとした瞬間

 

「いらない。食欲ないから」

 

玲美の小さな声がした。

 

「だめよ、今日何にも食べてないじゃない。このままだと死んじゃうわよ」

 

「もう、死んでもいい」

 

玲美の言葉に、久美はまた涙が溢れだした。

 

「玲美、お願いだからそんなこと言わないでちょうだい。あなたは私にとってかけがえのない宝物なの。あなたがもし死んでしまったら、お母さんも死ぬからね」

 

しばらく沈黙が続く。

 

「お母さん、ごめんなさい。もう死ぬなんて言わないから泣かないで」

 

玲美は起き上がり、枕元に置いてあった食事を食べ始めた。

 

この娘も頑張っている。1日も早く、元気を取り戻させたい。

 

久美は玲美を優しく抱き締めた。

 

その日の深夜、玲美のスマホが鳴り出した。ラインが送られてきたようだ。

 

玲美は画面に写し出された名前をみて、恐怖で震えた。

 

向井七海

 

七海先輩からだった。

 

震えながらスマホを操作し、ラインに書いてある文章のをみて、玲美は絶句した。

 

あなた、担任に私の事を悪く言ったわね。今日呼び出されて説教されたのよ

 

玲美の頭の中は真っ白になった。先生にあれだけ先輩に言わないでと言ったのに・・・

 

なんなの、気に入らなかったら私に直接言えばいいじゃない。ムカつくわよあんた。

 

ラインは続いた。

 

先輩、ごめんなさい。写真が出回っているのが怖くて。

 

知らないわよ。ラインを広めたのは翼でしょ。私は止めようとしてたのに、なんで私の名前を出すの?この裏切り者、許さないから

 

七海は全く止めようとしていない。広まっているのを楽しんでみていた。自分の悪いことは棚に上げ、人を非難する最低の人間だった。

 

許してください。お願いします。

 

わかった、あなたの話を聞いてあげる。明日の朝4時に、公園に来なさい。

 

朝の4時ですか?

 

そうよ私も行くから必ず来なさい。

 

わかりました。行きます。

 

玲美はそう返信するしかなかった。

 

それを見た七海は、携帯の電源を切り

 

「おやすみ~」

 

と独り言を言って、部屋の電気を消した。

 

久美が物音で目が覚めたのは、午前3時半。誰かが歩いている音がする。なんの音だろう。久美はゆっくり起き上がり、音のする方へ歩いていった。

 

真っ暗だが、誰かの姿がある。驚き電気をつけると、そこには玲美の姿があった。パジャマから洋服に着替えている。

 

「どうしたの玲美、こんな時間にどこかに行くの?」

 

「先輩が公園に来いって。私行かなきゃならない」

 

「だめよ、こんな時間に。誰がいるかわからないし、危ないじゃない」

 

「でも行かなきいけないの」

 

そう言って玄関から出ていこうとする玲美を、久美は腕をつかんで必死に止めた。

 

「だめ、独りで行くなんて危なすぎる」

 

「でも行かないと、先輩に怒られるの」

 

久美が必死に止めた為か、玲美は外出するのをあきらめた。

 

ほっと胸を撫で下ろすと共に、玲美をいじめているのはその先輩だと、久美は確信した。

 

月曜日、久美はまた学校に連絡を入れた。

 

「成沢先生いますか?」

 

「はい、少々お待ちください」

 

短い保留音の後、成沢の声がした。

 

「代わりました、成沢です」

 

「倉田ですが、わかったことがあるんです。玲美をいじめているのは、やはり上級生だと思います。一昨日、午前4時に公園に呼び出されたらしく、家を出ていこうとしたので必死に止めました」

 

「そうですか。ただ、私もその生徒から話を聞きましたが、友達のようです」

 

「友達って、午前4時に呼び出す人間が友達と言えますか?」

 

「・・・確かにそうですけれど、あの子達はおバカだからいじめはしませんよ」

 

「そんな理由でいじめじゃないなんて、私には信じられません」

 

成沢自身、あの2人がいじめの主犯各ということはわかっていた。

 

しかし2人のあの態度をみると、私が注意してもいじめはひどくなるばかりになるだろう。もうあの2人とは、接したくない。

 

情けない話だが、成沢程度の能力の教師では対応できない問題になっていた。

 

「家庭環境に問題があるんじゃないですか?」

 

成沢はなんとかその場から逃れようと、話をすり替えた。

 

この言葉を聞いて、久美は激怒した。

 

「確かにうちは母子家庭です。でも玲美を大切に育ててきたし、上級生からいじめを受けている事は間違いないじゃないですか。確かに私は仕事で遅くなることはあります。でも本人は先輩に嫌なことをされたって言っているんですよ」

 

「まあ、落ち着いてください。玲美さんが学校に行けるようにしますので。すいませんこれから教室に行かなくてはいけませんので失礼します」

 

成沢は一方的に電話を切った。

 

まずいことを言ってしまった。ただこの電話から逃げようと言ってしまったことだったが、火に油を注ぐ結果となってしまった。

 

どうしたらいいのよ・・・。

 

もう一人では対応できない状態になっていたが、成沢には、誰か他の教師に相談しようという発想はなかった。もはや誰が見ても教師には向いていない人材と言わざるをえない。

 

しかし、1週間後、同学年の担任が集まり、会議が予定されていた。その会議は2ヶ月に1度。各クラスの担任、教頭の鬼頭先生が集まり、今のクラスの現状を伝え、全クラスの状態を把握する会議だ。

 

もちろん成沢もその会議に出席しなければならない。

 

その日までに倉田玲美が学校に来てくれないとその話が、必ず議題に上がる。それまでにいじめを解決しなければならないと思ったが、玲美は1週間後も学校に来ることはなかった。

 

その日を迎え、放課後職員室で会議が始まった。各クラスの担任から、今の生徒の状況の報告が次々にされる。

 

次は成沢の番になった。成沢はこの会議で玲美の事は触れずに報告を済ませようと、淡々と差し障りのないことを話していると

 

「成沢先生のクラスに不登校の生徒がいるとのことですが、実際どうなんでしょうか」

 

他の担任が突然、成沢の話を遮るように質問した。

 

「その件につきましてはですね・・・」

 

成沢は言葉に詰まった。

 

不登校の生徒がいるだと?本当かね成沢先生」

 

静かに聞いていた教頭の鬼頭は驚いた様子で成沢に詰めよった。

 

「教頭先生、すいません。実はうちの生徒の中で、学校を休みがちな生徒がおりまして」

 

「成沢先生駄目じゃないか。そういうことがあったら私に報告する義務があるだろう」

 

鬼頭はイライラしながら言った。

 

「申し訳ありません。ただ家庭の事情が関係しておりまして、母子家庭の御宅ですのでいろいろと家庭内で問題があるようなんです」

 

「本当かね、いじめが原因とかそういう可能性はないのか?」

 

「私の方で調べましたが、そのような事実はありませんでした」

 

「本当かね・・・」

 

本来ならここでいじめの事を話し、対策を打たなければならないはずだったが、成沢は身の保身に走り、真実を隠そうとした。

 

教頭の鬼頭は、成沢の表情を見て、何か隠していると直感したが、それ以上追求しても仕方がないと、その話題を切り上げ次に進めた。

 

会議が終わると、教頭の鬼頭は成沢を別室に呼び出した。

 

成沢は今年この中学校に来て4年目の教師、しかも新卒だ。初めに担当させたクラスは、すぐに学級崩壊となり、その対応をしたのが鬼頭だった。

 

その経験から、成沢のクラスがうまくいっていない事は想像がついていた。

 

成沢を前に座らせ、先程の件について追求した。

 

不登校の生徒の事だが、いじめではないのかね?」

 

「それは違います。先程も申し上げましたが、家庭内の問題がありまして」

 

「家庭内の問題?それは虐待とかの話しかね」

 

「それは違います」

 

「家庭内の問題だからといって、学校に来なくていいというわけではないだろう。その理由はなんなんだ」

 

「調査しています」

 

「わかった。その調査が終わり次第すぐに報告しなさい。1日も早くその生徒が学校に来られるように対応すること」

 

そう言って成沢をさげさせた。成沢が出ていくと、鬼頭は大きなため息をついた。

 

なんでこの女を採用したのか・・・

 

成沢の面接を担当したのは、他でもない鬼頭だった。鬼頭は面接が進むにつれ、この人は教師に向いていない、そう感じた。

 

ずっと無表情だし、質問しても人間味のない答えが返ってくる。

 

しかし、鬼頭は成沢を採用した。いや、採用せざるをえなかったのだ。

 

この中学校があるR市は、地方の人口が10万人ほどの都市だ。この都市の教育会には昔からの習わしがある。

 

地方都市では珍しく、公立のR市立教育大学が存在する。R市で働く教師の8割以上はこの大学の出身者。

 

この大学卒業生の結び付きは、恐ろしく強い。他の都市では理解できないほど。

 

仮に旧帝大を卒業し、R市で教員を始めたとしても、出世はほとんどできない。R市立教育大学出身者が次々に出世はしていく。

 

もちろん鬼頭もR市立教育大学出身者である。

 

大学とR市の教育会の癒着も強い。卒業生を受け入れる代わり、天下りの席を用意しておく。持ちつ持たれつの関係であった。

 

当時のR市立教育大学の教授から、成沢を採用してほしいと頼まれていたのだった。

 

採用してみて、これ程後悔した人材は他にはいない。

 

鬼頭は席を立った。校長に報告しなければならない。校長の名前は大前といい、昨年までR市の教育委員会を勤めていた。

 

期限を終えてこの中学校に来たが、R市教育会のドンと呼ばれるほど、この世界での力は強かった。

 

少し緊張しながら、校長室のドアをノックした。

 

「入りたまえ」

 

奥から重厚感のある声が聞こえた。

 

「失礼します。大前校長にご報告がございまして」

 

「何かね」

 

「実は、1年2組女子生徒が、不登校になっている様子でして・・・」

 

「なに!!」

 

大前校長の表情が厳しくなる。

 

「それはいじめが原因かね」

 

「担任の話によると、家庭内の問題だとのことですが」

 

「家庭内の問題だからといって、不登校でいいというわけではないだろう」

 

鬼頭が先程成沢に言ったことを、そのまま校長に言われる

 

「担任はその原因を調べるといっていますので、報告を待ちたいと思います」

 

「そんなのんきなことを言っていていいのかね。問題が起こったら、君の校長試験にも響くことになるよ」

 

鬼頭教頭は近々校長試験を受けようとしていた。その試験において、この教育会に多大なる権力を持つ大前校長に気に入られれば、ほぼ合格したも同然。

 

そのため、鬼頭は大前の機嫌をとる努力を怠らなかった。

 

「そのようにならないよう、万全の体制で臨みます」

 

「頼みますよ、鬼頭教頭先生」

 

その言聞いた後、鬼頭は深く頭をさげ、校長室を後にした。

 

        5

6月に入った。

 

6月に入っても玲美の不登校は続いた。時折学校に行くと言うこともあったが、朝になると

 

「お腹が痛い」

 

と言って休んでしまう。

 

玲美は母親に心配をかけたくないと学校に行くと決意するが、朝になると学校で起こったことが、フラッシュバックのように頭の中を襲い、どうしても学校に行くことができなかった。

 

そんな姿を見て、久美は玲美をいくつかの病院に連れていった。しかし診断はいつも精神的なものでしょう。異常は見つかりません。

 

そう答えられた。

 

精神科に行ってみると、極度のストレスが招くPTSDではないか、そう診断をうけた医師から話があった。

 

薬を処方され、家に帰ると、久美はすぐに学校へ連絡した。

 

担任の成沢に、病名の事を伝え、相談したいから今日の放課後、学校で相談できないかと

伝えると、

 

「すいません、今日は彼とデートなので他の日にしてもらえませんか?」

 

耳を疑うような答えが帰ってきた。玲美はご飯も食べられず、日に日に痩せていっている。それなのに彼氏と楽しく遊びたいから他の日にしてほしいって・・・

 

あきれてしまい久美は電話を切った。

 

毎日ご飯も食べない。このままでは玲美は死んでしまうのではないか。

 

そんな久美の心配が的中する事件が起こってしまう。

 

担任の成沢は、相変わらず玲美のいじめに対し、有効な手段を打たずにいた。なんとかなるだろう。そう考えていた。

 

鬼頭の思っていた通り、成沢には人の苦しみを感じることができない。玲美や久美の苦しみが、あまり理解できない人間だった。

 

そのため、時折鬼頭から不登校の事を問われることはあっても、口を濁しなんとかその場を回避していた。

 

自分のクラスの対応で手一杯の成沢にとって、玲美の対応する余裕がなかった。

 

それに、いじめをしている上級生を説得できる自信がない。とにかくあの2人が卒業すればなんとかなる。

 

そんな浅い希望を持ちながら、毎日の業務に取り組んでいた。

 

6月の中旬を越えたあたりになると、小林翼、向井七海の2人も苦しい立場に立たされていた。

 

翼は今まで以上に勉強についていけず、お前に行ける高校はないとまで担任に言われていた。その様子を見て、2年まで翼を怖がっていたクラスメイトが、逆に翼を馬鹿にするような態度をとるようになった。

 

七海もほとんど状況は同じ。学校をさぼってばかりいたためか、全く勉強についていくことができない。

 

持ち前の気の強さでなんとか取り巻きを作っていたが、その生徒も七海と付き合っていたらやばいと感じるようになったらしく、七海もクラスでほとんど相手にされない存在になっていた。

 

2人は時折公園で、たむろすることがあったが、集まって来るのは小学生ばかり。

 

同年代の人間はほとんど2人を避けていた。

 

この状態は2人にとって予想外だった。自己顕示欲が強く、常に中心でいたいと考える2人にとって、この状態は屈辱以外の何者でもない。

 

「はぁ~イライラする」

 

小学生しか相手をしてくれない状況に、七海と翼はつぶやいた。

 

もともと頭の悪い2人が、今から勉強を頑張ったとしても、成績が上がるはずはないと、2人とも理解している。

 

「ねえ翼、面白いことない?」

 

「つまんね~ことばかりで、ほんとに参るわ」

 

学校に行ったら、馬鹿だとクラスから思われ、公園で弱そうな人間に声をかけようとしても、相手をしてくれるのは小学生だけ。

 

「そういえば、あの娘どうしてるのかな」

 

「あの娘って誰?」

 

「翼に裸の写真を送ってきた娘」

 

不登校で学校に来てないらしい。せっかくいじめるターゲットが見つかったかと思ってたのに」

 

「その娘、呼び出してみない?」

 

「呼び出したところで、楽しいことないだろう」

 

「今の状態より、楽しいことになるんじゃない?」

 

七海はニヤリと笑った。

 

その頃の玲美は、まだベッドから起き上がれずにいた。精神科から処方された薬をのんでも、突然襲ってくるフラッシュバックに悩まされていた。

 

周りの人間が、私の裸の写真を見ながら笑っている。そんな風景が突然玲美の頭の中を襲い、怖くて動けなくなってしまうのだった。

 

久美はそんな玲美のことが、心配で仕方なかったが、仕事を休むこともできず、久美が帰ってくるまで、玲美は家に独りで過ごすことが多くなっていた。

 

横になっていた時、玲美のスマホが鳴った。画面を見ると、小林翼と表示されている。

 

その文字を見た時、玲美はなにも感じなかった。絶望、食事を取らないための栄養不足、精神安定剤の為、思考がほとんど働かなくなっていた。

 

近所公園にいるから来て

 

ラインにはその文字が並んでいた。玲美はなんの感情もなく、服を着替えると公園に向かった。

 

公園に着くと、2人がニヤニヤしながらまっていた。回りには数人の小学生の姿も見える。

 

「なんのようですか?」

 

頭の中に霧がかかったような状態だったが、なんとか言葉を出した。

 

「なんのようですかじゃねえよ。毎日学校を休んでいるみたいだから、心配で連絡したんだよ」

 

そんな気は全くなかったが、翼は玲美に向かっていった。

 

その言葉を聞いたとき、突然玲美の中に怒りが湧き出した。

 

「先輩があの写真を他の人に送るからいけないんじゃないですか!!本当に許せない。あの写真を消してください。じゃないと私、死にます!!」

 

翼にむかって大声で叫んだ。

 

「死ぬ気もねえのに、死ぬ死ぬ言うんじゃね~よ。だったら死んでみろよ。そしたら写真を消してやる」

 

翼の言葉に、玲美は一瞬躊躇した。しかし玲美の精神状態はもう崩壊していた。

 

死ぬことで、楽になるのではないか。たった独り、そう毎日考えていた。

 

公園の脇に流れている川に向かった。翼、七海は笑みを浮かべながら着いてくる。興味本位で小学生の何人かも後に続いた。

 

玲美は川を囲んである柵に手を掛け登っていった。川の岸までそこから約5メートルほどの高さがある。

 

しかし、玲美は躊躇なく飛び降りた。足から腰に掛けて、強い衝撃が走った。痛さに顔をしかめた。

 

痛みが治まると、玲美は1歩ずつ川の方に向かった。

 

その時、玲美に恐怖が襲いかかった。

 

やっぱり死にたくない。

 

玲美はポケットからスマホを取り出すと、中学校に連絡を入れた。出た人間に対し、

 

「助けてください!!先輩に川に飛び込めと言われて、公園の脇にある川に、これから飛び込みます。助けてください」

 

必死で訴えた。

 

「なに電話なんかしてんのよ。早く飛び込みなさいよ!!」

 

後ろから七海の声がきこえた。振り返ると笑いながら玲美を見ている。

 

その姿を見た後、玲美は頭から冷たい川に飛び込んだ。

 

冷たい川に流されている最中、玲美の耳には、大きな笑い声が聞こえてきた。

 

       6

 

仕事中の久美のスマホが鳴り出したのは、久美が一段落し、すこし休憩している時だった。

 

スマホには中学校の文字が表示されている。

 

久美は嫌な予感がした。

 

「もしもし、倉田ですけど」

 

「玲美さんのお母さんですか?すぐに公園に来てください。たった今、玲美さんから公園の川に飛び込むと学校に連絡がありました」

 

「えっ。どういうことですか?玲美は家で寝ているはずですけど」

 

「詳細はわかりませんが、すぐに教員を向かわせています。お母さんもすぐに来てください」

 

その報告を聞いて、久美はすぐに自分の車に飛び乗ると、公園に向かった。

 

玲美は川の下流約10メートルほどのところで駆けつけた教師に助けられていた。

 

玲美が飛び込んだ川はそれほど幅がなく、深さもなかったため、命に別状はなかった。

 

ただ錯乱状態になっており、教師に抱えられながら

 

「死にたい、もうやだ!!」

 

そう言いながら暴れ続けた。

 

その時、

 

「ウ~ウ~」

 

パトカーのサイレンが鳴り響いた。誰かが警察を呼んだらしい。

 

警察官2人がパトカーから降り、七海のところに歩いてきた。

 

その瞬間、七海は震え動けなくなった。まさか警察が来るとは思いもしなかったのである。

 

「君、状況を見ていたの?なんでこの娘は川に飛び込んだかわかる?」

 

一人の警察官が七海に聞いてきた。七海は驚きと恐怖で頭が真っ白になった。

 

「この娘、母親から虐待されてて、それが嫌で川に飛び込んだんですよ」

 

七海の横から声がした。翼だった。

 

「僕たち今日、相談を受けてたんですけど、急にあの娘が柵を乗り越えたんです。そして川に飛び込んじゃって。僕たちは止めたんですけど」

 

翼はへ以前と答えた。

 

「そうか、それはいけないな」

 

一人の警察官が答えた時、翼は小さ笑みを浮かべた。

 

その時、久美が現場についた。教師に抱きかかえられながら、死にたい、死にたいと叫ぶ玲美をみて、すぐに玲美に駆け寄ろうとした。

 

その時、なぜか久美は警察官に止められた。

 

「何ですか?私はあの娘の母親です」

 

「お母さんですか、これからこの娘を病院に運びます。お母さんは別のパトカーで来てください」

 

「なんでですか!!娘の近くにいさせてください」

 

「詳細は後でお話ししますので」

 

久美はその言葉に困惑した。警察官の言っている意味がわからない。なぜ一緒にいてはいけないのか?

 

「おまわりさん、これはいじめだよ」

 

急に横から声がした。見ると年配の女性が立っている。

 

「私が一部始終を見て警察に連絡したんだよ。あの娘が川に飛び込んだ後も笑いながら携帯電話で写真を撮って、助けようともしなかったからね」

 

どうやらこの年配の女性は、すぐ近くに住んでいて、警察に連絡してくれた人らしい。

 

「そうなんですか・・・」

 

警察官は困惑した表情を浮かべたが、その年配の女性の言うことを信じたらしく、久美も一緒に行くことを許可してくれた。

 

一部始終を見ていて、警察にことの説明をしてくれたこの女性がいなかったら、その後久美は警察でどのような調査を受けることになったかわからない。

 

結局、玲美は搬送された精神病院に入院となった。川に飛び込んだ行為が、自傷行為

判断されたためだった。

 

なんでこんなことに・・・。病院のソファーに座り、久美は流れ出る涙を何度もハンカチでぬぐった。

 

 

その頃、玲美が通う中学校は騒然となっていた。急に玲美から連絡があり、鬼頭はすぐに男性教師を向かわせた。

 

命に別状はないと聞かされ、ほっと胸を撫で下ろしていた時、警察から連絡が入り、いじめの可能性が高く、調べてほしいと連絡があったのだった。

 

大前校長と鬼頭教頭はすぐに成沢を呼び出し、話を聞いてみると、ここでようやく成沢は白状した。

 

以前から倉田玲美にいじめの相談を受けていたこと。いじめている人間は3年生の小林翼と向井七海。

 

小林翼に裸の写真を送れと言われ、送ってしまい、その写真が他の生徒にまわっている。

 

母親からは精神科を受診した時、医師からPTSDと診断された事

 

「その話をなぜもっと早く報告しないんだ!!」

 

大声で叱責したが、成沢はすいません、すいませんと泣くばかりで話にならない。

 

まずいことになった。鬼頭は思った。もしこの事が表に出たら、R市教育会にすぐに知れわたってしまう。

 

そうなると、この中学校の教頭をしている鬼頭の成績がかなり減点される。これから受けようとしている校長試験にもかなりの影響が出るだろう。

 

この事が他の中学、そして教育委員会に知られなければいいが・・・

 

鬼頭は成沢を怒鳴りつけたが、結局は自分の身の保身を最重要に考えていた。

 

生徒を第一に考えなければならない立場は成沢と同じはずなのだが、結局は自分が第一。

 

成沢と鬼頭は結局のところ、同じ穴の狢だった。

 

久美は玲美に付き添い、ずっと病院にいたが、病院から玲美は落ち着いていると言われたため、渡された荷物を持ち、一端家に帰った。

 

長い入院になりそうです。主治医からはそんな言葉が伝えられた。

 

 

久美は一人家に帰り、渡された荷物を見た。着ていた服はびしょびしょに濡れていた。

 

「あれはいじめだよ。川に落ちた女の子を他の子供たちは笑いながら携帯で写真を撮っていたからね」

 

年配の女性の言葉を思い出した。

 

なんで玲美が川の中に落ちているのに、笑っていることができるの?

 

本当に人間が出来ることなの?

 

玲美はどれほど辛い思いをしたんだろう

 

そう考え、濡れている服を見ると、涙が止まらなかった。

 

病院に入院することになったが、玲美はこんなことされて元気になるのだろうか

 

久美はいじめている子に激しい怒りを覚えたが、怒鳴り込むわけにもいかない。

 

玲美、辛い思いさせてごめんね。

 

濡れた衣服を抱きしめながら、その場で嗚咽した。