ある老人保健施設の1日
介護保険制度の中で、老人保健施設という老人ホームがあることをご存じだろうか?
入所費用は安く、おむつも施設負担。そんな施設が存在する
当然、入所費用は安いため、他の施設より人気がある。
病気で入院して、身体状態が下がってしまった。例えば入院中寝てい時間が多く、体力、歩行状態が下がってしまったため、老人保健施設で、リハビリをして、自宅に戻る準備をする、そんな役割をしている。
老人保健施設に入所する目的はあくまで、自宅に帰ること。
最近介護保険料金の増加によって、入所期間が厳しくなり、入所して介護度の低い人は3ヵ月、重い人でも6ヶ月以内には、老人保健施設を退所しなければなりません。
老人保健施設の役割、そして介護の矛盾を皆様に知ってもらうために、老人保健施設のある日常をみてもらおうと思います。
老人保健施設の日常
「長井さん、今日もリハビリ頑張りましたね。歩くのも少しずつ安定してきてるじゃないですか」
理学療法士の百瀬は、最近入所してきたおばあちゃん、長井さんに向かい、笑顔でそう話しかけた。
「ありがとう」
長井さんはそう言って部屋に戻っていった。理学療法士の百瀬はここの老人保健施設に入って約1年。まだ新人の部類に入る
この仕事が楽しくて仕方がない。お年寄りが少しでも元気になるお手伝いができる
お年寄りには先生、先生と呼ばれ、感謝されるし、毎日が充実していた。
先ほどリハビリをしていた長井さんというおばあちゃんは、1ヶ月前に自宅で転んでしまい、左足を骨折してしまった。
病院へ救急車で運ばれ、すぐに手術をした。
結果は成功。無事に手術ご終了したが、最近、病院の入院日数は恐ろしく短い。
手術をして、足の痛みがまだ引かないうちに、退院するように主治医から言われてしまった。
まだ足も痛く、歩ける状態ではないため、家には帰ることはできない。
退院の時期になったが、まだ歩ける状態ではないので、老人保健施設に入所し、リハビリをして歩けるようになったら家に帰る。そういう予定である
ただまだ骨折して間がなく、歩くのもふらついてしまう状態だったので、平行棒を何度か往復するくらいからリハビリを始めたばかりだ。
理学療法士の百瀬は、自分のデスクに戻り、パソコンで個別リハビリ計画書の作成を始める。
介護の世界は、訪問介護やデイサービスなどの介護保険サービスを受ける場合、必ず個別のサービス計画書を作らなければならない。
リハビリも例外ではなく、3ヵ月後歩けるようなっていることを目標とし、それまでにどのような運動を、どのくらいするかなどの計画書を作る
計画書を作ったからといって、それを達成しなければならない、というわけではない。あくまで計画書。これはケアマネが作るケアプランも同じ。
80歳を超えて、骨折してしまい歩けなくなったのに、3ヶ月後にはなかったかのように歩けているほど、お年寄りの回復力は強くない。
個別リハビリ計画書を作りながら、百瀬は少しでも歩けるようになって、家に帰ることができるようになるといいな
そう思った。
その日の午後3時40分ごろ。その施設に1人の男が職員入り口から施設に入ってきた。
その男の名前は木嶋。もうすぐここで働きだして3年目を迎える介護士だ。
とにかく老人ホームは人の出入りが激しい。この老人保健施設も例外ではなく、入って仕事を覚えたと思ったら、すぐ辞めていってしまう。
木嶋は3年目ではあるが、この施設職員の中では中堅の部類に入る職員だ
ステーションにつくと
「だり~よ、帰りてえ」
働いてもいないのに、働いている職員に言った。
木嶋の今日の勤務は夜勤。午後4時から仕事が始まり、終わるのが次の日の午前9時。かなりの長丁場だ。
木嶋が勤める2階にはお年寄りが30人生活している。夜勤者はたった1人。
夜勤はとにかく大変。落ち着いている時はいいが、体調不良者が出たり、認知症の人が徘徊したり、コールが鳴りやまない時、1人で対応しなくてはならない。
入所者が夕食を食べ終え、遅番の職員と一緒に全員をベッドに寝かせる。
今日の遅番は、中津というおばさん。木嶋よりずっと年上で性格もきつい。介護主任の大山とも中がよく、気に入らない職員をいじめ、何人も辞めさせている、
全員をベッドに寝かせた後、遅番と2人で一緒にご飯を食べる。相手が中津なので、しゃべることなく沈黙が続き、気まずい空気が流れる。
なんでこんなババアとディナーなんだ?若い子なら、楽しい時間なのに・・・
木嶋は中津が大嫌いなので、仕事中最低限の会話しかしない。
ピロリロ、ピロリロ
入所者からのコールが鳴る。中津は当然のように席を立とうとしないため、仕方なく木嶋が対応する
「どうされました?」
「便が出て、代えてくれや」
おじいさんが木嶋に言った。
こっちは食事中なのに・・・
そう思ったが代えてあげなくてはならない。
新しいおむつに交換するとすぐに席に戻り、途中だった夕食を食べ始めた。
昔は便を処理した直後の食事は抵抗があったが、いまはカレーでも余裕で食べられる。
「さあ、始めましょうか」
食べ終えて、少し休憩した後、寝る前のおむつ交換に入る。おむつ交換が終わった部屋から電気を消し、消灯となる。
この時、パジャマに着替える人もいるので、この時間は結構忙しい。
集中しながらおむつ交換をしていると、後ろに人の気配がした。
ゆっくり後ろを振り返ると、今にも転びそうなほど、ふらふらしながら1人のおばあさんが歩いていた。
先日入所したばかりの長井さんだった。
「長井さん、歩いて転んだら大変だよ。どうしたの」
ふらふら歩いている長井さんに素早く寄り添い、体を支える
「トイレに行きたくなって」
「それならコール押してくださいよ。すぐに手伝いに行きますから」
「忙しそうだし、迷惑だと思って・・・」
長井さんは申し訳なさそうに言った。その時
「どうかしたの?」
中津の野太い声がした。やばい、木嶋は瞬時にそう思ったが遅かった。
すぐに中津が部屋に入ってきて、2人の状態を確認する。
「先日入った長井さんなんですけど、歩いてトイレに行こうとしていました。コールがなかったので気がつかなかったですけど」
木嶋の言葉に、中津の眉間にシワが徐々に寄ってくるのがわかった。
「ちゃんと見てないとダメじゃない。ヒヤリ、ハット書きなさいね」
「ヒヤリハットですか・・・」
ヒヤリ、ハットとは、介護業界では多く使われる言葉。文字通り、見たことがヒヤリとしたり、ハッとすること。その場面に立ち会った職員は、ヒヤリ、ハット報告書を書かなければならない。
転倒などの事故になると、事故報告書という一段階上がる書式になる。
内容は、
なぜそのような行動を起こしたか
なぜ気づくことが出来なかったのか
これからどうすればそれを防ぐことができるか
基本的にこの点を詳しく記載しないといけない。
ただ、その人がなぜそんな行動を起こしたかなんて、読心術を使える人間ではないとわかるわけはないし、介護士は30人を対応しているわけなので、1人に付きっきりというわけにはわけにはいかない
おまけにどうすれば、防ぐことができるかなんて、各部屋に防犯カメラをつけても不可能に近い
つまり、報告書に書くことが大変なのだ。
「明日の朝までに、ヒヤリ、ハット報告書を書いて大山主任に提出しなさい」
中津は遅番の仕事が終わると、木嶋にそう言い、帰っていってしまった。
木嶋は頭を抱える。介護主任の大山は、ヒヤリ、ハット報告書を提出しても、絶対に
「ここの詰めが甘い、どうしたら事故にならないかもう少し考えないと」
そう言って、せっかく提出しても突き返してくる、そんな細かい性格の人間だった。
トイレに行きたいなら、1人で行かせていいじゃん。
そう木嶋は考えるが、事はそんな単純ではない。
転んでまた骨折でもしてしまったら、もう取り返しがつかない。
その上、転んだのは職員が見ていなかったからだ。慰謝料よこせ!!
信じられないが、そんなことを言ってくる家族もいる。だったら自分で介護しろよと言いたくなるような、非常識な家族も実際にいる。
中津が帰り、1人になった木嶋は机に向かった。
ヒヤリ、ハット報告書を取り出し、机に置く。
原因は、トイレに行きたい。職員が忙しそうだったのでコールを押さず、1人で行けると思った。
こんな感じかな・・・
なぜ気づくことが出来なかったのか
ここを記載するのが一番困る。
人の行動なんて、わかるはずはない。その時はおむつ交換もしていたし、他の部屋で何が起こっているかわかるはずはない
木嶋は髪の毛をむしった。夜勤の他の仕事をしなければならないのに、こんなふざけた報告書に時間を割かれるとは・・・
なんで俺の前を歩いていたのか。中津が第一発見者になれば、あいつが書く書類なのに
お年寄りが歩いていました。みんなで気を付けて見守りましょう。
それでいいじゃないか、なんで書類が次から次へと増えていくんだ?
ペーパーレスの時代なのに。
なぜ気づかなかったかなんて、おむつ交換をしている最中に周りの事なんてわかるか?後ろに眼がついてる訳じゃないし、漫画のキャラクターのように、人の気配なんてわからない。
排泄介助に入っていたため、他の人の見守りを怠った。
こんな言葉しか浮かんでこない。
対策として、見守りを頻回に行う。歩く時は歩行器を使ってもらう
「これでいいわ」
もはやなげやりの感じで、報告書を書くのをやめた。他に仕事は山ほどある。
まずは全ての部屋の見回りだ。もしかしたら体調不良で苦しんでいる方や転んでいる方がいるかもしれない。
1つ1つの部屋を確認していくと、真っ暗の部屋の中に人影が見えた。
木嶋は恐る恐る近付いていくと、長井さんが、1人立ち尽くしていた。
「長井さん、どうされました?トイレですか?」
これを中津に見られたらと思うとゾッとする。転倒して怪我でもされたら困る。今度は事故報告書を書かなければならない
「ここはどこかしら。家に帰りたいんだけど」
小声で長井さんが呟く。
「ここは施設ですよ。長井さんがしばらく生活するところです」
「そうだったかしら」
長井さんは納得の行かない表情を見せたが、木嶋の誘導でベッドに戻ってもらう。
そういえば長井さんは、うまく歩けないから、歩行器を使って歩いているという申し送りだったが、2回とも歩行器を使わずに歩いていた。
そして先ほどの発言・・・。
認知症がある方なのか?でもまだ入所してきたばかりで、情報がない。
全員の部屋の見守りを終えると、夜中のおむつ交換の時間になっている。
準備をし、おむつ交換に入ろうとした瞬間、廊下を生まれたての小鹿のようにガクガクしながら移動しているおばあさんを見つけた。
長井さんだ。
「ちょっと長井さん、困るよ。歩く時は歩行器を使って、転んでまた骨折したらどうするの?」
「家に帰ろうと思って。」
「今日はおうちには帰れませんから、ここに泊まっていってください」
木嶋は優しく声をかけ、自室のベッドに案内する。
もし、中津がいたら、3枚目のヒヤリ、ハット報告書を書かなければならなくなる。
「今度起きるときは、このコールを押してください」
そう伝え、部屋を後にし、おむつ交換を始めた。
1人、2人と音を立てないようにしながらおむつ交換を進めていく。
あと少しというところで、また長井さんが廊下に出て来ている姿を見つけた。
もう勘弁してくれ・・・
「長井さん、いい加減にして下さい。今何時かわかりますか?いいから寝てください」
疲れと眠気で、何度も起きてくる長井さんに対し、イライラした口調で言ったあと、またベッドまでつれていく。
素早く、おむつ交換を終わらせると、また長井さんが、ガクガク足を震わせながら、部屋から出てくるのが見えた。
本当に勘弁して。
はっきり言って、放っておけばいいのだが、転んで怪我をすると、施設側の責任になる。
職員がよく見ていなかった。
結局はそう言う結論になってしまう。3年の施設介護の経験で、そんな場面は何度も目にしてきた。
認知症の人は周囲の変化に弱い。混乱して落ち着かなくなるのはよくあること。
多分長井さんもその状態なのだろう。
病院では、こういう場合はすぐに身体拘束される。つまり、ベッドに寝かせ、ベルトを巻き、起き上がれなくすること。
しかし、老人ホームでは、身体拘束はしてはいけないことになっており、長井さんのような転倒の危険が高い方でも、身体拘束は極力しないことになっている。
なんで病院は身体拘束をしているのに、老人ホームはだめなのか。意味がわからん。
その夜、木嶋は何度も長井さんを見つけては部屋に連れ戻すことを繰り返した。
仮眠もとれず、神経はすり減り、体が鉛のように重い。
転倒しなかったのが唯一の救い。でもいつ転んでも不思議ではない雰囲気だった。
早めにやって来た介護主任の大山に、ヒヤリハット報告書と、昨日起こったことをかいつまんではなした。
大山はこの内容でいいわ
そう言って、書類に印鑑を押した。
木嶋は意外に思ったが、その後、大山は長井さんの状況を話してくれた。
長井さんは夫と2人暮らし。数年前から認知症の症状がでて、最近は1人で外に出ていってしまい、家に帰ることが出来ず、警察のご厄介になることもあったそうだ。
夜中にも出ていきそうになってしまってから、介護している夫は体調を崩してしまった。
ちょうどその時、自宅で転倒して左足を骨折して、手術を受けて、ここに来たの。介護している夫がとても介護できる状態じゃなくなった。
でも、ここには3ヵ月しかいることが出来ない。今の歩き方じゃあ、住んでいた自宅に帰れないの。
もう90歳だから、リハビリしても、歩けるようになるのは絶望的。
「3ヶ月後、この人はどうなるのかしら。いい施設があるといいけど、あんまり金銭に余裕がないみたいだから、普通の老人ホームには入れない。でも家にも帰ることが出来ず、ここにも制度的にいることが出来ない。子供達は、介護を拒否している」
「長井さんはどうなるのでしょう?」
「わからない。でも最近思うことなんだけど、介護保険制度が出来てから、介護の事は、介護の事業所に任せてしまえばいい。そんな風潮が社会に浸透している。結果、家族や近所の方が介護するって考え方が希薄になってる。自宅で家族と過ごすこと、施設で過ごすこと。どちらがお年寄りにとって幸せなのかしら?」
大山はため息をつくと、ゆっくり立ち上がり仕事に向かった
木嶋は思う
長井さんの介護は大変だった。たった1日でも木嶋は根をあげそうになった。ずっと介護していた旦那さんが体調をくずしてしまうのもよくわかる
ただ、長井さんだって認知症になりたくてなったわけではないわけで・・・
旦那さんに迷惑をかけようとしているわけではない
子供達は、なぜ介護の手伝いをしてあげないのだろう
今は、介護サービスがあるから、なんとかなると思っているのだろうか?
お年寄りと若い人達。高齢化社会が進むにつれて、関係が疎遠になってしまっているのはなぜだろう?
普通は比例して関係が密になっても良さそうなものなのに、今は反比例しているように距離が遠くなっている
大変なら、施設に預ける。それでいいのだろうか?
木嶋も大きなため息をついた
その時
「長井さん、今日も頑張ってリハビリしましょう」
理学療法士の百瀬の声がホールに響いた。
木嶋は、お年寄りになぜリハビリをさせるのか、不思議で仕方なかった。
若い人間ならわかるが、80歳を越えた人が、少しくらい運動したところで、回復するはずはない
それに施設において一番困ることは、入所しているお年寄りの転倒、骨折だ。
もしリハビリをして、自分が歩けるようになったと思い込み、1人で歩いて転んでしまったら元も子もないし、骨折してしまったら施設の責任問題となる。
しかし、今回の長井さんをみて、また歩けるようになってほしいな、そう思った。
徘徊してしまうまでの回復は望まない。
ただ、長井さんが、老人ホームをたらい回しにさせられる、介護難民には、なってほしくない。