髙木 友ニ

ケアマネジャー兼小説家です

ケアマネのゆううつ(自立支援ってマジでなに?)

         第1章

 

 

介護保険制度第1条

 

この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により、要介護状態となり、入浴、排泄、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営む事ができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係わる給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付に関して、必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。

 

長嶺は溜め息をついた。

 

上司から介護保険法をもう一度見直しなさい

 

なぜかそう言われ、もう一度介護保険法を読み直した。しかし、第一条を読んだところで、本をゆっくりと閉じた。

 

バカバカしい・・・

 

仕事のパソコンを開く

 

法律はなんでこんなに意味わからん単語ばかり並べて、人を困らすのか?

 

介護保険法第一条を噛み砕いていうと、介護保健サービスは、要介護状態になった人に対し、自立を支援するために利用するものだ

 

そう言っている。まあ、噛み砕いて言っても普通の人にはわからないかもしれない

 

要介護になる人というのは、歩くのもままならず、認知症が進み、トイレも失敗してしまう人が要介護に判定される

 

そのような状態になり、介護保険制度を申請すると、ホームヘルパーやデイサービス、車椅子やベッドなどの福祉用具のレンタル。ショートステイや老人ホームの入所などのサービスが1割負担で利用できるようになる。

 

国民全員で身体の不自由なお年寄りの援助をおこなうための制度。

 

長嶺は、別にこの制度に対してバカバカしいと思っているのではない。

 

介護保険サービスは、それらの要介護状態になってしまった人の自立を支援することを最終目標に使わなければならない、という点である。

 

要介護認定を受けるのは高齢者が多い。例えば脳卒中で身体が動かなくなる。認知症が進み、ひどい物忘れ、徘徊してしまうなどの人は大抵要介護認定される。

 

その人が介護サービスを受ける事は、最終的に自立を目指さなければならない、と法律は言っているのだ

 

デイサービスも訪問介護福祉用具ショートステイなど介護サービスすべてである。

 

自立という曖昧な言葉は、多分介護サービスを利用することで、現在の状態より良くなるようにと国は言っているのだと思う。

 

しかし、介護保険制度を利用するのは、大体80歳を越えた高齢者。デイサービスに行ったところで、体力なんて回復するわけがない。

 

なのに自立支援をケアマネ及びサービス事業所は目指さなければならない。

 

ケアマネの仕事はいろいろあるが、自立支援に向けたケアプランを作ることが一番大きな仕事である。

 

脳梗塞で寝たきりになった人でも、認知症がひどく徘徊をする人でも介護保険制度を利用する人のケアプランは、自立支援をうたうケアプランを作らなければならない

 

無理だろ・・・

 

人間は日々衰えて行くものであり、高齢になればそのスピードは顕著になる

 

ケアマネを始めて10年が経過するが、要介護状態になり、デイサービスや通所リハビリ、ホームヘルパーなどを利用し、元気になって行くお年寄りを見たことがほとんどない。

 

例外をいうと、閉じこもりで酷いうつ状態の方がデイサービスに行って元気になる事は何度かあった。閉じこもりは、いくつになってもいけないものだと感じた。

 

しかし、それは全体の数パーセント。ほとんどの人が良くて現状維持、または徐々に悪くなっていく。

 

要介護5、つまり一番重い判定の方でも、自立支援に向けたケアプランを作らなければならない。

 

要介護5の人なんて、寝たきりで認知症が酷い人。最悪脳梗塞で声掛けしても反応がない人までいる。

 

そんな人がデイサービスに行って1年後には歩けるようになり、誰の介助もなく生活ができるようになると、誰が思うだろうか?

 

それがいるのだ。信じられない事に

 

役所の介護保険課の職員である。介護保険課の職員は、自立支援に沿ったケアプランを作らないと、あれこれ指摘してくる

 

さすがに要介護5の寝たきりの方のケアプランご自立支援になってない、なんて事は言ってこないが、要介護1、2辺りの微妙な判定の方に対しては、最近特に厳しくなっているような気がする

 

この人のサービスが多すぎるのではないか。もっと削らないと、本人のためにならない。

 

言っていることは至極真っ当。しかし、私達ケアマネが、このサービスをどのくらいこの方に使えばいいか、ケアマネの意見が採用されるのは、半分にも満たない

 

ほとんどが、家族からの要望により作っている。この人にとってどんなサービスがいいか、とりあえず提案はする。

 

しかし、決めるのはほとんどが家族だ。本人ではない。

 

介護で大変なのは本人もそうだが、1番は家族、介護者。だから家族の希望が強く出てもそれは仕方がない

 

それなのに役所の人間は、これはその人にとっての自立支援のプランではない、なんて意味のわからないことを言ってくる。

 

なぜか。激増する社会保障費。2022年から団塊の世代が75歳以上となる。そのため元々財政難の自治体が、数年後にはもっと財政状態が悪くなるのは目に見えている

 

例えば、歩くのも大変になったお年寄りが、訪問介護、つまりヘルパーさんに介助を受けて自宅のお風呂に介助でいれてもらうとなったことにする

 

ヘルパーさんを1時間利用すると、大体400円利用者は負担する。(1割負担の場合)それ以外の9割、つまり3600円を自治体が負担することになる

 

入浴は溺れたり、転んだりとお年寄りにとって危険な場所でもある。

 

世界の人が驚くほど日本人は清潔好き。週一回のお風呂ではとても満足しない。

 

週3回お風呂に入るとなると、1ヶ月週4回と考えると、自治体の負担は、3600×12=43000円

 

1人のお年寄りが、お風呂の介助を受けるだけで、1ヵ月これほどの税金が必要になる

 

毎日、朝出勤する時に必ずといっていいほどデイサービスの送迎車とすれ違う。その車の中には、満員のお年寄りが乗っている

 

そんな姿を見ると、本当に日本の将来はどうなってしまうのか・・・

 

長嶺は、心の底から心配になる

 

すべての介護サービスが、お年寄りの自立支援のためというのであれば、デイサービスなどの介護保険サービスは、短くて3ヶ月、長くても1年以内には、卒業、または中断させないと、話のつじつまが合わない

 

 

 

しかし、1度デイサービスなどの介護保険サービスを使っていると、やめるなんて事はほとんどない。何年も利用を続け、徐々に利用回数が増えていく。

 

デイサービスを利用するのは、運動と他者との交流、そしてお風呂に入れてもらうことを目的としている。

 

デイサービスを利用し、最後は自立するため。つまり元気になるために利用をスタートする。

 

しかし、人間80を超えてデイサービスに行ったところで、元気になるだろうか?

 

今までは歩けなかったのに、数ヵ月後歩けるようになるだろうか

 

答えはNoだ

 

当たり前の話だ。生物というものはそういうものだ。歳を取ると徐々に能力が衰え、回復することは不可能。人間も例外ではない。

 

1年ほど前の研修で、リハビリを行うことで、要介護5のお年寄りが、要支援2まで状態が良くなったと、自信満々に説明する理学療法士の先生の講義を受けたが、長嶺は資料に落書きしながら話を聞いていた。

 

確かにリハビリをして、寝たきりから要支援まで回復された方がいるとしよう。しかし、それは100人中多くて5人位の成功例をわざわざ大袈裟に言っているにすぎない

 

残りの95人は、リハビリしても寝たきりのまま。それをスルーしている感じがして、長嶺は気分が悪くなった

 

本当に寝たきり方が、リハビリをしたら全員元気になって、歩けるほどまで回復し、要支援の状態になったとしたら、この講師は人間ではない

 

神だ

 

最近介護の現場は、リハビリ、リハビリうるさい。

 

リハビリしたところで良くなりません。

 

そんな当たり前のことを言える人間は、なぜか悪人になってしまう

 

もちろんお年寄りに希望を持たせるのは大切ではあるが、過度な期待を持たせることも罪だと長嶺は思っている

 

80歳を超えて、大病を患い、身体状態が低下しても、リハビリを頑張れば以前のようになる、なんて本気で思っている介護に関わる職業の人は誰一人いない

 

例外として理学療法士作業療法士とあとは勘違いしている少数のケアマネだけだ

 

なのにも関わらず、自治体は自立支援、自立支援と、抽象的で感じのいい言葉を使い、ケアマネに文句を言ってくる

 

長嶺が1番不満に思っていることは、自治体がなぜ財政なんだから、介護保険サービスをあまり利用しないように、国民に向けて言わないのか!!

 

この点である

 

要介護の判定をされても、1ヶ月に介護保険サービスを1割で利用できる限度額がある。

 

要介護1の人は毎日のようにデイサービスにに行くと、限度額を越えてしまう。その限度額を越えると、越えた分は10割負担しなければならない。

 

昔はそうではなかったが、今の人は限度額一杯まで介護保険サービスを利用すると思っている人が多すぎる

 

この社会保障費が35兆円を越え、これからもっと増えていく社会が待っているというのに、国の財政も大変だから、少し減らそう。

 

そう考える良心的な日本人は、もはや絶滅危惧種に近い

 

私達も高額な税金を払っているのだから使えるだけ使わないと損

 

そんな人たちが日本に溢れている

 

長嶺は、この風潮に違和感を感じている

 

しかし、一介のケアマネでしかない。サービス使いすぎじゃないですか?

 

なんて担当者に言ったら、すぐクレームになる。

 

だから長嶺は、自治体に介護保険サービスは必要最低限にしましょう

 

そう言ってほしいのだ。

 

しかし、お年寄りがちょっとでも体調不良になったり、病気になったりすると、どんどん介護サービスを使ってください。

 

逆に勧めているところが癪に障る

 

ケアマネがどのようなサービスを使う計画を立てているのを確認し、重箱の隅をつつくように、このサービスはこの人の自立支援の役に立っていません

 

なんてケアマネを責めたところで、効果なんて微々たるものなのに、なぜこんなことをしているのか、役所の人間は暇なんだろうか?

 

長嶺には、意味がわからない、役所は、自分達はいい顔をして、ケアマネを悪者にする

 

つくづく、役所の人間と話をするのがバカバカしくて嫌になる。

 

その時、先輩ケアマネから声がかかった

 

「長嶺君、新規の依頼よ。対応できる?」

 

「あ、今空きがありますから大丈夫です」

 

突然の新規の依頼だ。

 

新規の依頼は突然来るのは日常茶飯事。新規の方の希望のサービスをどのように組み、自宅で生活を送れるようになるか

 

結構なスピードが要求される。はっきりいってここが一番大変。ここを乗り越えればなんとかなることが多い

 

ケアマネには、担当できる人の上限がある。

 

一人のケアマネに対し、39人まで担当が可能だ。

 

長嶺が担当している人数は現在34人。まだ5件の空きがあるという計算になる。

 

ケアマネの報酬は、要介護1、2の方は大体1ヶ月1万円。要介護3~5の人は1万3千円と若干高くなる

 

このお金は、担当している人からもらうお金は一切ない。全て自治体から支給される

 

デイサービスやホームヘルパー福祉用具貸与などの介護保険サービスは1割~3割合を負担してもらうが、ケアマネは例外。

 

30件以上担当しているの、そう驚く人もいるかもしれないが、ケアマネは35件以上持たないと赤字

 

毎週のように事務の人間に言われる

 

社会保障費やら住民税やら税金を引かれると、35件担当していても赤字になることもある

 

だから空いていると、拒否は基本的に出来ない

 

今回話があった新規は、病院に入院していて、すぐに退院してと言われ困っているという相談だった

 

長嶺には、それだけで嫌な予感がする。最近の病院はとにかく退院を強引に進めてくる

 

特に骨折の場合は、早く退院してくださいと毎日のように言われるそうだ

 

骨折の手術は成功です。病院は病気を治す治療をするところです。手術が終わって状態も安定しているので、これ以上入院は出来ません

 

最近の病院の常套句である

 

しかし、骨折の手術が終わり、状態が安定しているといっても、以前のように歩けるわけではない

 

歩くことも出来ないのに、家に帰って生活しろ。なんとも非情な話だ

 

数年前は、療養型病院に転院し、そこでリハビリなど自宅に帰る準備をする場所があったが、国が療養型病棟の削減を推進していること、そして療養型病院には寝たきりの老人で満員。なかなか転院することが出来ない

 

まずは依頼者に連絡をする。そして現在の状態を把握、その後、自宅へと訪問する

 

新規情報シートには、金井トシと電話番号が書いてある

 

長嶺は記載された電話番号に連絡した

 

「おばあちゃんが2週間前に転んで、左足を骨折しまして、手術を受けたのですが、まだ歩けないのに、病院から退院してくださいと言われて困っているんです」

 

電話に出た、同居している娘さんが私に切々と訴える

 

嫌な予感的中・・・

 

「それでは、自宅を訪問して家の状態やサービスの確認をしたいので、訪問させてもらいたいのですが」

 

「わかりました。いつでもいいので来てください」

 

「わかりました、今から伺います」

 

そう言って、長嶺は電話を切って外出の準備をした。

 

10程車を走らせ、依頼者の家に着いた。その家を見て、

 

「マジかよ」

 

小さくつぶやいた

 

築50年くらい経過しているのでは?そう思わせるほどのボロボロの家だった

 

玄関前には古く今にも朽ち果てそうなコンクリートの階段が3段あり、玄関の戸も古く、家の回りにはつたが絡んでいた

 

表札には金井と記載してある。間違いない

 

「先程連絡を頂きました、長嶺と申します」

 

階段を登り、壊れているようなインターフォンを押して、家の中に声を掛けた

 

すると、70を越えた位の女性が家の中から出てきた

 

「よろしくお願いします」

 

長嶺に向かって、丁重に頭を下げた

 

思っていたより、年齢が高そうなので

 

「入院しているのは、ご主人ですか?」

 

長嶺が聞くと

 

「いえ、母親です。今年で99歳になります」

 

女性はそう答えた

 

来年で100歳、そんな人が足を骨折して歩けない状態でこの家に退院してくる

 

「お母さんを介護するのは娘さんですか?」

 

「はい、私もこの年で仕事もしておりませんし、父も10年前に亡くなりました」

 

「旦那さんやお孫さんはいらっしゃいますか?」

 

「いえ、私はずっと結婚せず、1人でいたものですから。母とこの家で2人暮らしです」

 

「そうですか・・・。老人ホームなどにお母さんを預けるというお考えはありますか?」

 

長嶺の問いに娘さんは首を振り

 

「とてもじゃありませんが、そんなお金はありません。母の国民年金で生活している状態ですから・・・」

 

母の国民年金で生活?

 

「娘さんの収入は?」

 

「私はあまり働いてこなかったので、年金も微々たるものなんです」

 

話を進めていくと、娘さんはパートなどの仕事を転々としていたが、バブルがはじけてから、仕事がなく、家でなにもせず生活していたらしい

 

「そうですか・・・」

 

とにかく、今の入院費を払うのも大変で、早く退院させたい、そう娘さんは言った

 

「それでは、家の中を見せてもらってもよろしいですか?例えばトイレやお風呂場など」

 

「いいですよ」

 

2人は立ち上がり、まずはお風呂の状態を確認しに行く。

 

ケアマネがまず始めに行う事は、介護される人の状態、そして介護する側の状態、そして家の中の状態を把握する事

 

介護用語ではアセスメントという。日本語に直すと課題分析。どちらも意味がわからないが、退院して自宅に帰ったとき、どのような介護サービスが必要か、その状態をみて判断する材料とする

 

そのため、家の中の状態、例えば段差がないか、お風呂には入れそうか、トイレは1人で出来そうかなど、家の中をくまなくチェックする

 

自分だったら家の中のトイレやお風呂場など赤の他人に見られるのは、絶対嫌だと思うが、これをやらないと、どのような介護サービスが必要かわからない

 

お風呂場に案内された。途中の廊下は狭く、いろいろなものが置いてあって通りづらい。

 

案内されたお風呂場を見て、長嶺は困ったな・・・心の中でつぶやいた

 

まず、脱衣場が狭い。半畳位の広さしかない。浴室を覗いてみると、昔ながらの銀色のお風呂で、足を体育座りしないと入れない程狭いお風呂だった

 

さらに体を洗うスペースも、人が1人入ると一杯になるような狭さ

 

よく、99歳のばあさんがこんな狭い風呂に入っていたな・・・

 

長嶺は感心しながら、そのお風呂を眺めていた

 

「お風呂はわかりました。ではトイレを見せてもらってもよろしいですか?」

 

長嶺がいうと、反対側の扉を娘さんが開けた。その先にあったトイレを見て、長嶺は声をあげてしまった

 

「和式ですか!!」

 

扉の向こうには、今はほとんどみられなくなった和式トイレがあった。

 

「そうなんです。洋式のトイレにしようと思ったのですが、お金がなくて・・・」

 

申し訳なさそうに娘さんは言った。

 

それは、あんたが働かなかったからだろ。心の中で長嶺はつっこみを入れた

 

でも、よく99歳で和式トイレ使えたな・・・。

 

多分、我慢強い人だったんだろう。入院している娘のお母さんのことを想像した

 

しかし、骨折をしてまだ痛みもある状態で、さすがに和式トイレは使えないだろう。高齢だし・・・

 

次に退院したら。どの部屋で生活しなければならないのか、長嶺は思った

 

「お母さんはどこで寝ているんですか?」

 

長嶺が問いかけると、狭い廊下を少し行ったところに、六畳ほどの部屋があった。日当たりが悪く、どことなくかび臭い

 

「ここで布団を敷いて寝ていました」

 

「もうすぐ100歳になる高齢にも関わらずですか?」

 

「最近はほとんど布団を片付けるのが出来ないので、そのままになっていましたけど」

 

「そうですか・・・」

 

そのぐらい手伝ってやれよ、白寿の人なんだからさ

 

娘と話していると、徐々にイライラしてくる

 

「もう一度確認しますが、お母さんがほとんど歩けない状態で退院するとしても、この家で介護しながら生活していくということでよろしいですか?」

 

「はい、なにぶん収入がないので、老人ホームには入れられないんです・・・」

 

「そうですか・・・」

 

家に入る前に段差もあり、トイレが和式の家で寝たきりの人が生活するのはかなり大変。老人ホームに入ると言ったら話しは早いのに

 

そう考えながら、長嶺は介護保険サービスについて説明を始めた

 

「まず、足を骨折して2週間ほどしか経過していません。歩くのも大変でしょう。まずは車椅子をレンタルしなければならないと思います」

 

「そうですよね、病院からも言われています。それで・・・おいくら位なんでしょう」

 

「スタンダードなものなら月500円でレンタルできます。足を乗せる部分が外せたりなど、付加価値が付くと700円位ですね」

 

車椅子を介護保険でレンタル出来るのは、要介護2以上と決まっている。ただ、例外もあり、要支援の人であっても、歩くことが出来ない場合は、レンタルが可能となる

 

「レンタルするしかないと思います」

 

「それ以前に、車椅子に乗った状態で、どうやってこの家に入るかです。失礼があったら申し訳ありません。まず、この家に入る前に三段の階段があります。そして玄関の上がりかまちの高さもあります。車椅子に乗った状態の人を、20センチの段差を越えることは結構大変です。長女さん1人で、お母さんが乗った車椅子を、あの階段を登り、そして玄関の段差を越えることが出来ますか?」

 

長嶺の問いに、長女は黙った。長女は小柄でやせ形。人が乗った車椅子を階段を登らせる力があるようには見えない。

 

「難しいようなら、車椅子専用のスロープをレンタルすることになります。大体月に700円ほどです」

 

「それはどのくらいの重さなんですか?」

 

「少し思いですが、持ち上げられないことはないと思います。必要ない時はたたんで立て掛けて置けば大丈夫です」

 

さて、車椅子の人がこの家に入るまでのイメージはできた

 

「そして、退院する前までに、廊下に置いてあるものを片付けてください」

 

少しきつめに長嶺は言った

 

家に入ってからずっと思っていたことだが、ボロい上に狭い廊下には不要な雑誌などのゴミが散乱している

 

ただですら狭い廊下なのに、そんなものが置いてあったら、車椅子が通れない

 

「次に問題なのが、排泄の問題ですね。今ベッドで寝たきりの状態ですから、オムツを当てられている可能性が高いでしょう。今まではトイレに行って排泄していたと思いますが、足の骨を折って、手術をしたばかりなのに、和式トイレを使えるとは思えません」

 

「どうしたらいいのでしょう?」

 

「オムツを定期的に代えてあげる。立ち上がることが出来るようならポータブルトイレを購入するしかないと思います」

 

「私、オムツ交換とかやったことなくて、それに母の排泄物を触ったりするのが嫌で」

 

「大抵の人はそうですよ。でも、こういう現実になったらやるしかない。そう言って出来るようになる人がほとんどです」

 

長嶺はイライラを抑えながら言い聞かせる

 

「それでも無理なようなら、ヘルパーさんに来てもらってオムツ交換をしてもらう方法もあります」

 

「オムツ交換の場合、ヘルパーさんに来てもらうと、1回200円です」

 

「そんな安いんですね。でしたらプロの人にやってもらいたい」

 

「ただ、オムツ交換は、1日1回やればいいというわけではありません。当たり前ですが、人間1日に何度もトイレに行きます。その都度、ヘルパーさんに来てもらっていたら、1ヶ月結構な料金がかかりますよ」

 

そう言うと、娘さんは無言でうつむいた。その様子を見て、長嶺は続ける

 

「あと問題なのは、入浴ですね。お風呂の様子を見させてもらいましたが、足を骨折してしまった方が、あの狭いお風呂に入れるとは思えません。特に入浴は高齢者には危険です。例えば、体を洗う時に転倒してしまったり、お風呂に入れたのはいいが、足の力が入らず、お風呂から上がれなくなってしまう、なんて事もよく聞く話です」

 

「どうしたらいいのでしょう?」

 

「デイサービスに行くのをお勧めします。デイサービスでは、お風呂も職員介助で入れてくれます。目的としては、他者との交流ですので、同世代の方と話したり、運動も出来、身体状態の改善の可能性があります」

 

「料金はどのくらい掛かるのでしょう?」

 

さっきから、金、金うるさいおばさんだな。

そう言葉が出そうになるのを、長嶺は抑え説明を始めた。

 

介護保険サービスは、ホームヘルパーさんのように、家に来てもらうサービスは一定ですが、デイサービスやショートステイなどの外に行くサービスは介護度によって変化します」

 

本当に高齢者が使う物とは思えないほど、介護保険制度には、カタカナ英語が多数存在する。

 

このカタカナ英語を日本語に直して高齢者に説明するのも、意外と大変な作業だ

 

「大体の金額となりますか、要介護1の場合、昼食代も合わせますと1300円です。介護保険料は600円、昼食代が700円て言うところでしょうか」

 

「もし、お母さんが要介護5に認定されたとすると、1回1900円に上がります。昼食代は変わりありませんが、介護保険料が1回1200円に上がります」

 

「介護度で、そんなに違うんですね」

 

娘さんは下を向いた。

 

それから介護保険サービスを使って、どのように入院しているお母さんが、自宅に戻れるか詰めに入る

 

退院してくる人間は99歳の女性の上、足を骨折しているので、多分寝たきりだろう。ゆっくり話し合って決めたいところだが、病院からは明日にでも退院しろと言われている

 

時間がない

 

話し合いの結果、週に2回のデイサービス、介護用ベッド、車椅子、スロープのレンタル。ポータブルトイレの購入で決まった

 

まあ、無理なようならすぐに介護サービスなんて変更が出来る

 

家の外観から感じていたが、この家には収入が少ない。かといって寝たきりの人を介護していくには、このくらいのサービスが最低限必要となる

 

 

       第2章

 

長嶺は事務所に戻り、すぐに入院している病院に連絡を取り、担当する人の状態を確認する

 

「現在は、手術も終わって状態も安定しています。退院は明日でもいいと、主治医から許可が下りています」

 

「状態なんですが、現在排泄はどうしてますか?」

 

「オムツ対応ですね。起きたりして、手術したところが悪化してはいけないので、基本ベッドで生活しています」

 

「ポータブルトイレなどは使っていますか?」

 

「それはないですね。まだ足の痛みが強くて、立ち上がることも出来ないので」

 

「そうですか、わかりました」

 

長嶺は電話を切った

 

立ち上がることも痛くて出来ないのに、退院して家で暮らせってか?

 

退院の許可を出した医者の脳みそはどうなってるんだ?

 

流行りのAIが判定してるんじゃないの?

 

そう思ったが、これが今の医療の現状。入院している病院は、地域の中核病院

 

毎日、救急車が10分おきくらいに入ってくる

 

その時、重傷者のベッドがないと受け入れられない

 

だから、命に関わりのない骨折なんて、すぐに退院させないと、助かる命も助からない

 

救急患者を受け入れる病院にとって、骨折は軽傷の部類に入るのだろう

 

例え歩けない状態でも

 

長嶺はパソコンを開け、ケアプランを作り始める

 

ケアプランというものは、高齢になり、介護保険サービスを受ける人が、そのサービスを使いながら、自宅でどのような生活を送っていくかを紙の上で表現する

 

例えば、足が痛くて動けず、介護用ベッドをレンタルする場合、その理由とを記載する

 

ただ理由を記載するだけではなく、介護用ベッドを利用し将来的に、骨折が治り、誰の介助も必要なく、立ち上がることが出来るなど

 

ベッドをレンタルすることで、本人や介護する側の利点を記載しなければならない

 

このケアプランというものはケアマネしか作ることは出来ない

 

ここで問題となるのが、自立支援のケアプランを作らなければならないという点だ

 

毎回、90歳以上の人に対し、自立支援とは一体なんなのか。毎回悩む

 

国が言っている事は、多分介護保険サービスを使わなくなるまで元気になるということだろう

 

わかりやすく説明すると、一年後には歩けるようになり、排泄もお風呂も1人で入れるようになるということだと思う

 

そんな目標を立てて、文章を作らなければならない。

 

しかし、足の骨折で入院し、ベッドで2週間以上も寝たきりで生活していたお年寄りが、本当に一年後には、歩いてお風呂に入り、トイレも失禁なく生活を送れるようになるのか

 

疑問だが、介護保険制度は自立支援が目的のため、それに沿った文章を記載していく

 

もはや机上の空論以外の何物でもない

 

「そういえば、あの娘さんは、どのくらい介護に協力してくれるのだろうか」

 

長嶺は小さくつぶやいた

 

家の中はものが散乱していたし、若い時仕事をしていたが、仕事をしなくなって長いといわれた

 

お母さんの年金で生活していたのだろう。最近よく言われる、8050問題に近いかもしれない

 

いや、9060問題か・・・

 

お母さんが亡くなった場合、娘さんはどうなるのだろう、生活保護になるんだろうか

 

いや、生活保護は持ち家があったら入れないはず。あんなボロボロな家でも

 

そんなことを考えながらケアプランを作っていく。

 

まずは福祉用具業者の選定、ベッド、車椅子などのレンタルは自治体から認可を受けた福祉用具の会社しか1割負担にならない

 

娘さんに聞いたところ、希望の福祉用具の会社はないと言われたため、長峰が勝手に選ぶ

 

はっきり言ってどこも同じような値段だから、どこでもいい。担当者がいい感じの人の会社に連絡し、一式揃えてもらう

 

そして次はデイサービスをどこにするかだが、同じ法人でやっているデイサービスが第一候補

 

娘さんに、通わせたいデイサービスはありますか?そう聞いてみたが、私、いいデイサービスとか全く知らないと返答があった

 

まあ、当たり前だ。日本人のほとんどの人が、このデイサービスがいいなんて知識を持ち合わせていない

 

その時、長嶺の脳裏をよぎる言葉がある

 

「ケアマネは、自社のサービスに繋げるために赤字なのに雇っているんです」

 

うちの法人の事務長はそんなことを平気で言う人。そのためまずはうちの法人でやっているデイサービスに繋げるようにする

 

ケアマネはサービスを選ぶ際、公正中立でなくてはならないと記載してある。つまり、その人にあったデイサービスを紹介しなければならない

 

しかし、長嶺は出来るだけ、同法人が経営しているデイサービスを紹介する

 

ケアマネというのはサラリーマンだ。上の人間の指示に逆らうことはできない

 

同じ法人のデイサービスに確認を取ると、空きがあるというので、デイサービスも決定した

 

ここで、娘さんに連絡を取る

 

福祉用具とデイサービスの事業所が決まりました。あとは、退院する日程を病院に伝えなければならないのですが、何時にしますか?」

 

「そうですか・・・」

 

娘さんは小さい声でつぶやいた

 

「まだ、自分が母を介護していくっていう自信がなくて・・・。なんとか退院を伸ばすことって出来ないですか?例えば歩けるまで回復してからとか・・・」

 

「自信ですか・・・」

 

その気持ちもわからなくはない。先日まで1人で何もかもやってくれていた母が、急に歩けなくなり、今まで母がやってくれていた事に加え、母の介護もしていかなければならない。誰だって不安だろう

 

「私の力では、退院を伸ばすことは出来ません。今はそういう時代なんです。病院ではなく、自宅で介護していく。気持ちはわかりますが、なんとかお母さんを介護していくしかありません」

 

入院費も負担で、老人ホームにいれる気もないなら、自宅に戻るしか選択肢はない

 

「私を始め、これからお母さんの介護に関わる人間が、あなたを支えますので、家で介護していきましょう」

 

「わかりました。なんとか頑張ってみます」

 

話し合いの結果、退院は3日後に決まった。

 

 

次の日、長嶺は金井さんが入院している病院に向かった

 

前日、病院に金井さんの状態を見るため、面会させてほしいと伝えた。コロナウイルス蔓延の中、無理だろうと思いながら電話してみたが、意外にもOKと言われた

 

玄関から病院に入り、手を消毒してから体温測定、病棟についたら、また体温測定をした後、県外に出ていないかなどを聞かれる

 

コロナが流行ってから、病院も大変だ

 

終わると、病棟内に案内された。金井さんの部屋は、病棟の一番奥

 

その部屋に向かう前、ちらちらと病室を見て驚く。ほとんどの人がお年寄り。そしてみんなベッドで寝ている

 

ここにいるお年寄り、みんな退院を迫られているのだろうな

 

そう考えると、長嶺の心は重くなった

 

一番奥の部屋につき、病室に入った。4人部屋だが、ここも他の部屋と同じく、全員がお年寄りだった

 

一番手前の左側のベッドに、金井キヌと名前が書いてある。担当する人だ

 

長嶺は、ベッドに近づくと、

 

「金井さん、今度担当させていただきます、ケアマネの長嶺と申します」

 

そう声をかけた。

 

金井さんは、その声を聞くと小さくうなずいた。看護師さんから話は聞いているらしい

 

「あさって退院して、おうちに帰ります。退院できてよかったですね」

 

そう話しかけると、金井さんは目を強く閉じ、目から涙を流し始めた

 

意外すぎる展開に長嶺は驚いた。何も悪いことは言っていないはずだけど・・・

 

「こんな身体になっちまって、どうやって家で暮らせばいいんだい?足が痛くて立つことも出来ないし、何にも出来ない。トイレだって行けないんだよ」

 

「確かに今はそうかもしれませんが、今は介護保険制度があるので、ベッドや車椅子も安くレンタルできますし、お風呂だってデイサービスで入れてくれますよ」

 

この人も不安なんだな、長嶺は思う

 

「優しそうな娘さんもいるじゃないですか」

 

長嶺がそう言うと、金井さんは更に泣き出した。長嶺は困惑した。何も泣かせるような事は言っていないはず・・・

 

「骨折する前は、私が娘の事を全部やってあげてたんだよ。ご飯から始まって洗濯まで。こんな身体じゃ何も出来ない。これからどうしたらいいのか、不安で不安で仕方ないんだよ」

 

その話を聞いて、長嶺は驚きを隠せない。来年100歳になる人が娘の世話を今までやっていた?にわかに信じがたい

 

「娘は若い頃仕事を転々としていてね。30位になったら仕事もせず、家にこもってしまったの。ほとんど家もでないで。いつかは結婚して、仕事も始めてくれると思っていたけど、結局そのままだった」

 

「家事手伝いっていう感じですか?」

 

「家事なんて手伝ってくれないよ。ずっと部屋で引きこもってばかり。だからあの子は何にも出来やしないの」

 

99歳の人が、娘の事を心配して泣いている。その姿を見て長嶺は、もらい泣きしそうになった。

 

本当に9060問題が目の前にあった

 

「でも、退院はしなければなりません。それにデイサービスに行ってリハビリ頑張れば、以前のように歩けるようになるかもしれません」

 

長嶺は以前のように歩けるようになることは無理だろう。心の中ではそう思うが、そんなことを言えるわけがなかった

 

「まず、骨折の状態がよくなるまで、無理はなさらないように。自宅に戻る準備はしっかりやっておきますので」

 

そう言うと、長嶺は病室を後にした

 

       第3章

 

退院の日、朝10時に金井さんは病院から帰宅した。車椅子に乗っての退院だが、座っているだけで苦痛の表情をしている。

 

長嶺は、前日の夕方、福祉用具の業者がベッドを家に搬入する事になっていたため、同席した。

 

家の中の状態は、長嶺が予想した通りだった

 

玄関、廊下には物が散乱。退院して過ごすキヌさんの部屋も、以前訪問した時と変わらない。カビ臭い布団が敷いてある

 

「娘さん、明日退院ですよ。わかってますよね」

 

長嶺が強く言うと、娘さんは

 

「これから準備しようと思ってまして・・」

 

「これから?もう、夕方ですけど」

 

「すいません、私起きるのがお昼を越えたあたりなもので」

 

ダメだこりゃ。いかりや長介みたいに言いたくなったが、ぐっとこらえる。

 

申し訳ない気がしたが、福祉用具の業者の方に手伝ってもらい、部屋の片付けを行う

 

本来の仕事ではないが仕方がない。要らないものを、娘さんに聞きながら棄て、廊下からキヌさんの部屋をきれいにした。その部屋にようやく介護用ベッドとポータブルトイレが設置され、なんとか退院する準備ができた

 

苦悶の表情をしてしているキヌさんの車椅子をゆっくりとスロープに乗せ、玄関まで入る。そして狭い廊下を進み、部屋までお連れすると、ベッドに寝かせてあげる

 

この間キヌさんは何度も痛い、痛いと繰り返し言った。まだ足の状態はよくなっていないらしい

 

ここで各サービス担当者、ケアマネ、娘さんが居間に集まる。サービス担当者会議の始まりだ

 

介護保険サービスを受けるためには、サービス担当者、家族、ケアマネで話し合い、ケアマネが作ったケアプランに家族が同意して初めてサービス開始となる

 

「まず、大腿骨を骨折されて3週間の入院。今帰ってきた状態を見ましても、足の状態はあまりよくなっていない気がします」

 

長嶺が話を始める

 

「家族からは、自宅で生活を送って行きたいという希望がありました。そのため、足の痛い状態でも、この家で生活を送る事になりました、ただご家族より、金銭面の余裕がなく、サービスも最低限にしてほしいとお話がありました」

 

一同がうなづく

 

「まずは福祉用具からですが、布団では介助も大変だし、車椅子に移ることも難しいでしょう。そのため介護用ベッドをレンタル。あとは車椅子のレンタル。そして外出がスムーズな出来るようスロープのレンタルのみで当面の間は対応したいと思います。あとポータブルトイレの購入。これは一旦全額払ってもらい、その後9割帰ってきます」

 

「次に今の状態ではとても入浴は難しいので、デイサービスで入浴対応してもらいます。運動も必要だとは思いますが、現在の状態では難しいと思いますので、状態がよくなるまでベッドで寝かせてあげてください。回数は、週2回を予定しています」

 

「わかりました」

 

デイサービスの担当者が答えた後、本題に入る

 

「娘さんは今のお母さんの状態を見て、不安に思うことはありますか?」

 

全員の視線が長女に向かう

 

「まだ始まってもいないので、不安なことばかりです」

 

「オムツ交換とかやったことないし、食事もどう食べさせたらいいか・・・」

 

「そうですよね。じゃあ、今からやってみましょう」

 

そう言うと、娘さんをつれて長嶺はキヌさんの部屋に向かった

 

「キヌさん、オムツの交換をしましょう」

 

同意を得ると、布団をまくりズボンを下ろした

 

「まず、オムツのテープが4ヶ所ありますので、テープを外します。そうしたら前の部分を下げます」

 

そうすると、陰部があらわになる。女性にとってはいくつになっても恥ずかしいし、屈辱だろうと長嶺は思う

 

「そうしたら、身体を横に向けます。キヌさんベッドの柵をもって、身体を横に向けてもらえますか?」

 

キヌさんはいた、痛いと言いながら身体を横に向ける、この時、お尻があらわになる。

 

女性にとってはいくつになっても恥ずかしいし屈辱だろう。長嶺は思いながら続ける

 

「この時に、暖かいタオルで、陰部とお尻を拭いてください。拭き残しがあると、床ずれになってしまうので注意を。そして敷いてある汚れたパットを外し、新しいパットを入れます。そしたら身体を仰向けにしてもらって、オムツをはめて終了です」

 

娘さんはその様子をじっと見て、

 

「わかりました、やってみます」

 

そう答えた。

 

その後、もう一度今に全員集まる。ケアプランを披露し、同意をもらうためだ

 

ケアプランには、長期目標、短期目標という2つの目標を記載しなければならない

 

長期目標は一年後の状態、短期目標は半年後の状態を記載する

 

このケースで例えるなら、半年後は少しでも歩けるようになる。一年後は普通に歩けるようになり、トイレも入浴も自分で出来るようになる

 

そんな感じ

 

サービス事業所でやってもらう事以外にも、もちろん本人、家族が行ってもらう事も記載する

 

それを全員の前で長嶺は読み上げるが、普通の人は、99歳の人が、足を骨折して寝たきりの状態なのに、一年後には歩けるようになっているわけないでしょ

 

そんな突っ込みが入るような机上の空論。それがケアプランである

 

一年後に歩けていなくても、別に罰則などないし、批判する人は誰もいない

 

長嶺が必死で作ったこのケアプランは机上の空論だと全員わかっているからだ

 

特に異論もなく、サービス担当者会議は終了した。

 

日程を詰め、デイサービスは、あさってからスタートすることにった。

 

       第4章

 

2日後の朝、デイサービス職員から長嶺に電話が入った。朝一からの電話は、大抵ろくなことがない。嫌な予感がしながら長嶺は電話に出る

 

「今日金井さんの家に朝、お迎えに行ったんですけど、酷い状態でして」

 

「酷い状態?」

 

「家に入った瞬間から、尿臭がひどくて、ベッドに行ったら、キヌさんのオムツが尿漏れしていて、服とシーツが尿で汚れているまま横になってたんです」

 

オムツを当てているからといって、絶対安心というわけではない。しっかりと当てない、または吸収の許容量を越えると…オムツから尿が漏れ、着ている服やシーツが尿まみれになる

 

これを尿漏れというが、これが起こると最悪。着ている服、シーツを全交換しなくてはならない

 

ベッドで人が寝ている状態で、シーツを代える。かなり重労働、ストレスがたまる

 

しかし放置しておくわけにはいかない

 

「娘さんは何て言ってた?」

 

「オムツはつけたんだけど、漏れてしまって。そう言うだけでした」

 

「マジかよ・・・」

 

母親が尿まみれなのに、そのままにしておいたって事?意味がわからん

 

「わかった。これから金井さんのところに行ってくる」

 

そう言ったあと、長嶺は金井さんの家に向かった

 

家に着き、玄関に入ると不快な臭いが長嶺を襲った。ひどい尿臭だ

 

部屋から出てきた娘さんに対し

 

「デイサービスからの報告で来たのですが、ひどい臭いですね。お母さんのオムツ交換をしっかりやったのですか?」

 

長嶺は強い口調で言うと、

 

「やってみたんですが、うまく行かなくて、すいません」

 

申し訳なさそうに言った。

 

「私に謝らなくでいいですよ。ただ、退院したばかりの人が、こんな尿臭が漂うほど不潔な状態にしておくのはひどい。あなたのお母さんですよね」

 

「はい、でもやろうとすると、母はとても痛がるし・・・」

 

確かに、帰ってきていきなりやったことのないオムツ交換をやれというのも難しいかもしれない

 

「では、訪問介護を入れて、少しの間オムツ交換のやり方を教えてもらいましょう」

 

「あの、お金はどのくらいかかるのでしょう」

 

本当に金、金、金にうるさいおばさんだな。

長嶺はため息をついた

 

「1回200円です。とりあえず、1日1回入ってもらい、娘さんに教えてもらいながら、一緒にオムツ交換をやってもらいましょう。娘さんが出来るようになったら、それで終了にすればいいのですから」

 

「わかりました。お願いします」

 

デイサービスを利用する日以外、1日1回訪問介護に入ってもらう事になった

 

 

1週間が経過した。キヌさんの状態は変わらず。骨折した足の痛みが引かず、起き上がる度に激しく痛がる

 

娘さんの状態変わりなし・・・

 

ヘルパーさんに入ってもらい、何度もオムツ交換のやり方を教えてもらっているが、全く上達しない

 

家の中はいつも尿臭が漂っている。

 

デイサービス、訪問介護の事業所から、もっとサービスをいれた方がいいと言われた

 

しかし、ここで長嶺は頭を抱えながら、担当者に言った

 

「確かに、今の状態が続くのは良くないと思う。でも金井さんは独り暮らしじゃない。介護をす娘さんがいる。もう少し娘さんが介護が出来るようにするのが一番大切だと私は思う。私達がやっているのは自立支援。出来ないからって、すべて介護保険サービスで賄うっていうのは安易な考え方のような気がする」

 

自分の中では自立支援って何だよ、無理だろ。そう心の中で考えているが、他の人には心にも思っていない事をすらすら言う

 

今回のケースは、キヌさん本人の自立支援だけでなく、娘の自立支援も必要なようだ

 

そう考えると、結構難しいケースだと思う

 

退院して2週間が過ぎた。ここで少し朗報があった。キヌさんの足の痛みが少し和らぎ、車椅子に乗せる際など痛がる様子があまり見られなくなった

 

逆に悲報もある。それは娘だ

 

オムツ交換がうまくいかず、尿漏れの状態が続いている

 

ヘルパーさん、デイの職員、そして長嶺が何度教えても、一向にうまくならない

 

数日後、長嶺は金沢さんの家に行った。今の状態をキヌさん自身に聞いてみたいと思ったからだった

 

ちょうど家に行くと、娘さんは外出していて、キヌさん以外いなかった

 

「ごめんください、長嶺です」

 

玄関から声をかけると、奥の部屋から

 

「どうぞ」

 

キヌさんの声がした。その声を聞いて玄関から部屋に入る。ヘルパーさんが来た直後なのか、尿臭はしなかった

 

「身体の調子はどうですか?」

 

「最近やっと足の痛みもなくなって来てね。立ち上がるのも出来そうな気がするよ」

 

「それはよかった。デイサービスはどう?楽しい」

 

「みなさんよくしてくれて、お風呂にも入れてくれるし助かっているよ」

 

その後、長嶺は世間話を続けた。そして、今日来た本題に入った

 

「娘さんはしっかり介護してくれている?」

 

その話を聞いたキヌさんは、黙り込んでしまった。

 

「オムツ交換も出来てないし、おしっこが漏れていても代えようともしてくれない。何度も教えてはいるんだけど、全くよくならないんだよ。なぜなんだろう・・・」

 

長嶺の問いにキヌさんは黙り込んだ後、ゆっくりと話し始めた。

 

「実はね、あの娘は少し知的障害があってね。子供の頃から勉強も出来なくて。高校は行ったんだけど、その後就職しても、ほとんど続かない。我慢というより、言われたことが理解できないみたいなんだ」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「しばらくしたら、仕事もしなくなっちまって、家の中に閉じこもるようになってしまった。それからほとんど家から出ない生活を続けてたんだ。最近は買い物とか行ってくれるようになったけど」

 

そういうことか・・・。それで納得がいった。

 

「私は今までの人生、あの娘の事を心配しない日はなかった。どうしたらいいんだろうって毎日思っていたよ。でも、この娘のために頑張ろうと思った。だからこの年まで元気でいられたんじゃないかと思うんだ」

 

「理由はわかりました。でも、今みたいにおしっこでいつも濡れているようじゃ、キヌさんがかわいそうだ。もうし少デイサービスを増やすなり、ヘルパーさんを増やしますか」

 

長嶺の話を聞いたキヌさんは首を振った

 

「私の事はどうでもいいんだよ。おしっこまみれだって気にしない。娘のために少しでもお金を残しておいてあげたいんだ。今のままで十分だよ」

 

「そうですか・・・」

 

NHKでよくやっている8050問題と違う。放送している内容は、人間関係などで仕事や学校を辞めて引きこもり、そのまま中年になってしまった。そんな話が多い

 

でも、娘さんは知的障害というものを抱え、仕事が出来ずに今まで生きてきたんだ

 

キヌさんは今までの自分の収入で引きこもりの娘さんを育ててきた。ただ、それは娘さんが軽度の知的障害だったから頑張るしかなかった。

 

長嶺は心の中で泣きそうになった

 

「キヌさん、じゃあ頑張って立てるようになって、ポータブルトイレに座れるようになるといいね」

 

「足も痛くなくなったし、そろそろ自分でもそうしようと思っていたところだよ」

 

笑顔を見せるキヌさん、ただもう3週間以上寝たきりの状態だ。筋肉もかなり落ちているだろう。年も99歳という高齢。以前のように歩けるようになる可能性はかなり低い

 

長嶺は、娘さんにイライラしていた自分に少し腹が立った。

 

他人の障害ってわからないものだな・・・。どれだけ教科書で勉強したとしても。外見、話し方は普通に見えるので、障害があるとは思わなかった。

 

長嶺は今回の事で人の障害、病気は外見ではわからないものだ、そう痛感した。

 

次の日、訪問介護、デイサービスの担当者と話をした。

 

「どうやら、娘さんには知的障害があって、細かいことをすることが苦手らしい」

 

そう伝えると、担当者は驚いた顔をした。

 

「ここで、相談なんだが、キヌさんの介護の方法を少し変えようと思う。足の状態もよくなってきているし、オムツ対応を止めようと思うんだ」

 

「つまり、どういうことですか?」

 

「まずヘルパーさんから。まずはオムツからリハビリパンツに代えようと思う。そして1日1回入ったとき、ベッドの隣にあるポータブルトイレで排泄させてほしい」

 

「キヌさん、立ち上がること出来ますかね?」

 

「このままでは本当に寝たきりになってしまう。痛みがなくなってきたなら、次の段階に進むべきだと思う。」

 

 

「そしてデイサービスでは、今までのように寝ているだけというのはもう止めよう。車椅子で過ごしてもらい、排泄はトイレでやってもらいたい。もちろん、運動にも参加させてあげてほしい」

 

「わかりました」

 

2人とも、多少不安な顔をしていたがとりあえず了承してくれた

 

長嶺は今まで、80歳を越えて大病を患っている人に対し、自立支援なんて、本当に馬鹿馬鹿しいと思っていた

 

第一、どんな運動や脳トレをしたところで、状態が以前のように戻るはずがない

 

実際どれほど運動したところで、普通に歩けるようになる高齢者はほとんど見たことないし、脳トレをどれほど真剣にやったところで認知症が回復するなんて、あり得ない話だと思っていた

 

年齢と共に人間は衰えていくのに、自立支援ってマジでなに?

 

ずっとそう思いながらケアマネという仕事をしていた

 

しかし、今回金井キヌさんという人に出会い、キヌさんの心の奥底の思いを聞いたことで、なんとか以前のように、歩けるようになれないか?

 

そういう思いが長嶺の心の中を包み込んだ

 

そしてキヌさんの支援は次の段階に入った

 

       第5章

 

次の日、長嶺はヘルパーさんの入る時間に、金井家を訪れ、本当にベッドからポータブルトイレまで行けるか、様子を見に行った。家に入ると尿臭が漂い、思わず顔をしかめた

 

ヘルパーさんが、ベッド上でズボンを下ろし、キヌさんのペースで、ゆっくりと起き上がってもらう

 

 

時折痛い、痛いと苦痛の表情を浮かべたが、ベッドの柵を持ちゆっくりと起き上がった。

 

 

ここからが大変なところ、骨折した足を、ゆっくりとベッドから下ろさなければならない。ヘルパーさんは手伝おうとしたが、長嶺は止めた

 

このくらい自分で出来ないと、多分立ち上がるのも難しいだろう

 

キヌさんは、痛む足を腕で抱えながら体勢を横にし、ゆっくりとベッド脇に座った

 

「じゃあ立ち上がるのを手伝ってもらえますか?」

 

ヘルパーさんにお願いする。ヘルパーさんはキヌさんの前に立ち、抱き抱えるようにしてキヌさんを支える

 

「キヌさんが対上がるときに、転ばないように支えるだけにしてください。じゃあ、キヌさん、ベッド柵を持って立ち上がってみてください」

 

長嶺が声をかけると、キヌさんは歯を食いしばり、全身に力をいれた。するとゆっくりと体が持ち上がる

 

「痛たたた」

 

そういいながらもゆっくり立ち上がった。ヘルパーさんは支えるだけで力を入れていない。自分の力で立ち上がったのだ

 

「すごいよキヌさん!!」

 

しかしこれからが問題だ、からだの向きをポータブルトイレの方に向かわせるため、15度ほど身体を回転させなければならない

 

足を骨折してしまった人は、身体を回転する動作が意外と難しい

 

「じゃあ、からだの向きを変えてみて」

 

その言葉に、キヌさんは苦痛な表情を浮かべながら、ゆっくり、ゆっくり身体の向きを変えていく

 

「ゆっくり座っていいですよ」

 

長嶺が声をかけると、キヌさんはベッドサイドにあるポータブルトイレに座った

 

「すごいよ、よく頑張ったね」

 

なぜか一同拍手した。不謹慎かも知れないが、アルプスの少女ハイジ

 

クララが立った!!

 

その名シーンを、長嶺は思い出していた。そこに座っている間、急いで汚れたシーツと服を代える

 

ヘルパーさんはただ支えていただけで、キヌさんの力のみで立ち上がり、ポータブルトイレに座ったのだ

 

99歳でこの頑張りは感動に値した

 

事務所に帰り、デイサービスの職員にその事を報告した。

 

デイサービスの職員は、トイレに誘導し、立ち上がりの練習も取り入れたい、そう話してくれた。

 

本当に歩けるようになり、娘さんの介助が要らなくなったらいいな。本当にそう思った。

 

次の日デイサービスの日。

 

キヌさんは、車椅子に乗りながら、何度も平行棒のところに行き、立ち上がりの練習をしていたそうだ

 

驚いたことに、職員に対し

 

「トイレに行きたいから、手伝ってほしい」

 

そう言い、職員の介助でトイレに行き、排泄を済ませたそうだ

 

デイサービス利用中、失禁はなし

 

今まで寝たきり、オムツで失禁、尿漏れの中で生活していたのに

 

「さすがに疲れたよ。足がぱんぱんだ」

 

笑顔でそう言って帰っていったという

 

長嶺はよかったと思う反面、心配が頭をよぎった。頑張ろうとして、また転倒し骨折してしまう。そんな事はよくある話なのだ

 

何事も焦りは禁物

 

長嶺は金井さんの家に向かった。そして家に帰りキヌさんと話をした

 

「デイサービスどうだった?」

 

「いつも寝てばかりだったけど、今日は起きていていいって言われたからずっと起きてた。体操とか運動をやったよ。お陰で疲れた」

 

キヌさんは笑顔で長嶺に言った

 

「でもキヌさん、頑張りすぎてもダメなんだよ。また転んだりしたら骨折する可能性があるからね」

 

そう言った後、娘さんを呼んだ

 

「キヌさんは、尿意もあり、デイサービスではトイレを利用して失禁もなかったそうです」

 

「そうですか」

 

「ただ、その様子はいつ転んでもおかしくないくらいふらふらな状態でした。多分家でもポータブルトイレで排泄しようとするでしょう。その時は、転ばないように支えてもらってもいいですか?」

 

長嶺がそう言うと、娘さんは

 

「そのくらいならやろうと思います」

 

承諾してくれた。

 

月日は流れていく。キヌさんはデイサービスで立ち上がり訓練を黙々とやっている。その結果、立ち上がりの動作も安定してきた

 

家でもポータブル使うことが多くなり、

以前のような尿臭も無くなってきている

 

トイレに行きたいときは、娘を呼び、支えてもらいながらなんとかポータブルトイレに座るそうだ

 

徐々にキヌさんの身体状態もよくなってきている

 

そんな時デイサービス職員から

 

「歩行練習をさせてみたい」

 

そう提案があった。長嶺よりキヌさんの状態を把握しているはずだから、もちろん長嶺はOKサインを出した

 

そこまで状態がよくなったか。もうすぐ100歳なのに

 

人の思いというのはすごいものだ。

 

多分、娘さんにこれ以上迷惑をかけたくないからだろう。長嶺の言った通りに、娘さんは毎日ポータブルトイレの移動を支えてあげているという。夜中でも。

 

そういう思いが、キヌさんの頑張りに繋がっている

 

もしかしたら、本当に歩けるようになるかもしれない

 

これが自立支援というものか・・・

 

ただ、お風呂目的でデイサービスを利用し、家政婦みたいにヘルパーさんを利用する

 

これが今の介護サービスの現状だと思うし、それが事実である

 

ただ、なにか心に目標があれば、人はいくつになっても復活することが出来る

 

それは、人には迷惑をかけたくない。自分の事は出来るだけやりたい

 

そういう自尊心、それが人を何度でも復活させる

 

その思いをどれほど引き出すのか、それがケアマネ、介護サービス事業所の役割ではないか

 

キヌさんの姿を見て、長嶺はそう思った。

 

ここで、長嶺は訪問介護、つまりヘルパーさんのサービスを中止した

 

もともとオムツ交換をしてもらいにヘルパーさんに入ってもらっていたので当然といえる

 

その事を話にキヌさん家を訪ねた

 

「トイレはなんとか出来るようになったから、ヘルパーさんはもういいよ。それより、デイサービスを増やしたい」

 

「週にもう一度デイサービスを増やすんですか?」

 

「そう、もう少し運動して歩けるようになりたいんだ。今その練習をしている。もっとやりたいんだよ」

 

確かにヘルパーさんの料金を、デイサービスにまわせば、1ヶ月の介護費用はそれほど変わらない。しかし・・・

 

「あまり無理なさらない方がいいんじゃないですか?疲れが溜まるかも知れませんよ」

 

長嶺が懸念を伝えるが、

 

「大丈夫だよ。家では寝てばかりいるんだから。身体がなまっちまう」

 

キヌさんは笑顔で答える。娘さんも利用回数を多くすることに同意してくれた

 

「じゃあ来週から週3回利用することにしよう。早く歩けるようになるといいね」

 

そう言って長嶺はキヌさんの家を後にした

 

 

その後、長嶺の足はキヌさんから遠のいた。長嶺が担当しているお年寄りはキヌさんだけではない。35件担当している

 

要介護の判定をされた方は、最低月1回は自宅を訪問し、本人と面談しなくてはならない

 

そして次の月の予定表を渡す

 

ほとんどの人は変化なんてない。少し世間話をして、来月の予定表を渡し終了する

 

もちろんキヌさんの様子はデイサービスの職員から聞いている。利用する度!歩く練習を頑張っているそうだ

 

そんな様子を嬉しそうに職員が話しかけてくる

 

デイサービスでもショートステイでも一番怖いのはお年寄りの転倒。

 

それを防ぐために、立ち上がったお年寄りにすぐ向かって支える。職員がいないところであまり歩かないよう伝える

 

それが今の介護サービスの現状。

 

でも、キヌさんは娘のためになんとか歩きたい。そういう希望を職員に訴え、職員もその思いに答えたいと工夫しているそうだ

 

キヌさんも職員の思いをわかり、一人では絶対に動かないという

 

このまま本当に歩けるようになったらすごいことだ。そう長嶺は考えながら、他の担当者の家を回る日々を過ごしていた

 

そんなある日、朝一番で長嶺に電話がかかってきた。

 

その電話を受けた長嶺は、全身から血の気が引き、身体が動かなくなった

 

キヌさんはその日の早朝亡くなっていた・・・

 

 

        最終章

 

長嶺はすぐにキヌさんの家に向かった。キヌさんの家に上がり、寝室に向かう

 

長嶺の目に飛び込んできたものは、仰向けになり目を閉じているキヌさんの姿だった

 

「キヌさん」

 

小さい声で話しかけてみたが、全く反応を示さない。眠るような形で亡くなっていた。

 

娘さんの話だと、いつもなら5時位にトイレに行きたいと、娘さんを毎日起こすのだが、その日は全く声がかからない

 

不振に思った娘さんが様子を見に行くと、すでに呼吸をしていなかったそうだ

 

すぐに救急車を呼んだが、救急車が到着し、救急隊員が状態を見たところ、すでに死後硬直が始まっており、そのままの状態で、かかりつけ医に連絡するようにと言われ、そのまま帰ってしまった

 

娘さんは、近所のかかりつけ医に連絡すると、すぐに家にきてくれ、死亡診断書を書いてくれたという

 

夜中に大声を出したり、苦しむ様子は全くなかった。本当に眠るように亡くなっていたそうだ

 

長嶺はにわかに信じられないという思いの中、娘さんには向かい

 

「ご愁傷さまです」

 

そう声をかけた。すると、娘さんは

 

「今までありがとうございました」

 

長嶺に向かい、頭を下げた。

 

信じられない。昨日まで絶対歩けるようになる、そう言って頑張っていたのに・・・

 

「私の事で、母に無理させちゃったんですよね」

 

突然娘さんが話し始めた

 

「お母さん、ごめんね。私がこんな人間だったから、お母さんに苦労をかけちゃった。もっとしっかりとした人間だったら、こんな苦労することなかったのに」

 

そう言った途端、娘さんは大声で泣きはじめた。

 

「私が普通の人間だったら、他の人と同じような生活が出来ていたら、お母さんこんな苦労しなかった。ごめんなさい。私なんて生まれてこなければ、お母さんもっといい人生送れたはずなのに」

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

娘さんは崩れるように膝をつき、キヌさんの目の前で泣き続けた

 

「私なんか生まれてこなければよかった」

 

娘さんは何度も、自分が生まれてこなければよかったと繰り返しキヌさんに言った

 

その姿を見て、長嶺は娘さんは娘さんの中で相当苦しんでいたんだ。自分は30年近く、社会に出ず、家に引きこもっている生活を続けていた

 

しかしそれは本人が決して望んでいた生活ではなく、苦しみの中過ぎていってしまった時間だったのだ

 

「私、お母さんが退院した時、これからお母さんに恩返し出来ると思っていたの。でも出来なかった。何度説明されても、お母さんは身体を動かしただけで痛がる。プロの人みたいに上手く行かなかった。最後まで私ダメだった。ごめんなさい」

 

そんな姿を静かに見ていた長嶺が言った

 

「生まれてこなければよかったなんて言わないでください。キヌさんは決してそんなこと思ってない。あなたの事をずっと愛していたと私は思います」

 

「なんでそんなこと言えるんですか?お母さんは、私さえいなければ、もっといい人生が送れたはずです。変な慰めはやめてください」

 

「いや、私はケアマネをやっていて、何十、何百というお年寄りの方と出会ってきました。キヌさんくらいの年齢の方は、早く死にたい、早く死にたい。会うたびにそう言います。まあ、本当に死にたいと思っているとは思えませんが・・・」

 

「つまり、私の言いたいことは、お年寄りって孤独なんだと思います。一人暮らしで、子供達はほとんど顔を見せない。2世帯住宅を建てても、顔を会わすのは月に一度あるかないか、そんな孤独に過ごしているお年寄りは意外に多いんです」

 

「でもキヌさんは、最後まで生きたい、もっとよくなりたい。そう考えながら生きていました。そんな考えを持つお年寄りを私はあまり見たことがありません」

 

長嶺の話を娘さんは無言で聞いていた。長嶺は続けた

 

「私にも娘がいましてね、もう中学生なんですか。お父さん臭い、あんまり近寄らないで、なんて嫌われているんですが、それでも小さかった時の事、そして成長していく姿を見ると幸せに感じます。キヌさんもあなたの姿を見て幸せに感じていたことは間違いありません」

 

「なんでそんなことが言えるんですか?」

 

「キヌさんの姿、そして行動ですよ。あなたに情けない姿を見せたくない。元気なお母さんでいたい。それがキヌさんの思いだったと私は思います」

 

そう言うと、娘さんはまた大声で泣き始めた

 

もう話すことはない。2人の時間を大切にしてあげよう

 

そう思い、長嶺は家を後にした。

 

帰り道、長嶺はコンビニに立ち寄りたばこを吸った、少し気分を落ち着けるためだ

 

長嶺自身、キヌさんが亡くなったことを信じられずにいる

 

吐き出したたばこの煙の先を見ながら、今月デイサービスを週3回に増やしたことについて考えた

 

まだ、体力もついていなかったのか?時期が早すぎたんじゃないのか?

 

そう考えるが答えは出てこない

 

私たちケアマネは、お年寄りの自立支援という聞こえはいいが、無理難題と向き合って仕事をしていかなければならない

 

ただ、今回キヌさんと出会って、いくら高齢でも、最後まで諦めない姿は、長嶺の心を動かした。

 

そうやって年を取れるのは、素敵なことだな

 

そういう人を支援することも、やりがいを感じるものだと、消えていく煙を見ながら長嶺は心の中でそう思った

 

 

         完