美しく、悲しい死(尊厳死) ある奇跡の物語
1
「あなた、私がもし介護でみんなの迷惑になってしまったら、すぐに楽にさせて下さいね」
季節は4月中旬、桜の季節も終わりを告げようとし、外は暖かい春の風が吹き始めた頃だった。
「突然、なんでそんなことを言うんだい」
「先日、姉が亡くなったでしょ。姉の介護を手伝っていて、そう思ったの」
私の年齢は78歳、妻は2つ下の76歳
妻には6歳上の姉がいた
姉は5年前に脳梗塞で倒れ、それからずっと寝たきりの生活をしていた
5年間、妻は姉の看病に、週に何度か姉の家を訪れていた
「そんなこと言われても、出来るわけないじゃないか」
「私は迷惑をかけたくないの、子供達に、そして貴方にもね」
私達には3人の子供がいる
長男、次男、長女
5人でこの家で生活していた時は賑やかだったが、今は全員家庭を持ち、東京や名古屋、大阪といった都会で家庭をもって生活している
盆と正月に帰ってくることがあったが、今のコロナ禍の中、都会からこの田舎に来ることはほとんど出来ず、会う事がなく、約2年が経過している
最近はずっと妻と2人暮らし、誰も訪ねては来ない
ほとんど会話もなく、ずっと静かな生活を送っている
私は団塊世代の中心
今では考えられない事かも知れないが、会社のため、休みなどなく働いていた。仕事のため、帰りが午前様になることも多かった
家庭など顧みずに
身体を壊さなかったことが不思議に思えるが、その日々のお陰で、退職金もある程度もらい、今は十分な年金もらい生活をしている
ただ、定年退職をして、夫婦2人だけの生活となった時は、少し窮屈な日々が続いた
しかし10年以上経過した今、その窮屈さは感じなくなった
「お姉さんはね、倒れてから5年以上、ベッドで寝たきりの状態で生きていたの」
ため息をついて続けた
「私もお姉ちゃんのためにと思って、介護の手伝いをしたの、でも2年位してから、もう私の事もわからなくなって。そしてお義兄さんの事も・・・」
私はその話を聞いていたが、手伝ったり顔を見に行くことをしなかった
なぜかわからない
そういう不幸な事柄に立ち会う事を、心の隅で恐れていたのかもしれない
義姉夫婦とは、決して仲が悪いと言うわけではなかった
時折一緒に旅行をするほど仲はよかったのだ
しかし、脳梗塞で倒れ、状態が全く変わってしまった義姉、そして以前は気さく性格だった義兄が憔悴している姿を見てから
私の足は、義姉夫婦から遠のいていった。
「先日葬儀があったじゃない」
義姉が亡くなった時、私は通夜、葬儀に出席した
焦燥の表情を浮かべる義兄
私の脳裏にある義兄とは別人のように痩せこけ、生気のない顔をしていた
一礼し、私は寝ている義姉に近づいた
義姉の姿を見た私は息を飲んだ
私達と一緒に旅行をしていた義姉とは別人のような姿だった
義姉は元々ふくよかな体型をしていた
しかし5年ぶりに目の前にいる姿は、顔は細くなっており、お腹が出て、手足が不自然な程細い
まるで江戸時代に描かれた、大飢饉の時に食料を求める老婆のような
餓鬼のような姿をしていた
これが5年以上ベッドの上で過ごしていた末路なのか
私は驚く感情をぐっと胸に抑え、そして表情に出さないようにと思いながら、枕元に正座し、手を合わせた
「私、通夜の時、眠っているお姉さんの姿を見て思ったの。介護を手伝っていた時間ってなんだったのかしら。もしかしたらお姉さんが苦しい思いをする時間を伸ばす助けをしていたんじゃないかって・・・」
「そしたら我慢しようとしていた涙が自分でもどうにもならないくらいあふれでてきて」
「お姉さん、ごめんなさい、ごめんなさいって心の中で言い続けた」
妻は下を向きながら言った
「そんなわけないじゃないか。お義姉さんだって君に感謝しているはずさ」
「でも私が頑張っても、お姉さんは良くなることはなかった。逆にどんどん悪くなっていって、最後はご飯が食べられなくなって、管で栄養を入れられながら生きてた」
「そうだったのか・・・」
経管栄養・・・人間は喉のところにご飯や水分が通ると自動的に閉まる蓋が存在する。その蓋が閉まることで、食べ物、飲み物は食道へと進んでいく。しかしその蓋は高齢、または脳梗塞などの脳血管疾患により、蓋が上手く閉まらなくなる
そうすると食べ物、飲み物は上手く食道に行くことが出来なくなり、肺に続く気道に流れてしまう
誰でもご飯を食べた時、突然むせ混む経験をしたことがあるだろう
それは気道を塞いでいる蓋が上手く閉じず、食べたものが気管に行ってしまうからだ
酷くなると誤嚥性肺炎を繰り返すため、お腹の胃の上に穴を開ける手術をし、そこに管を通して直接管から胃に栄養を送り込む
お姉さんはそういう状態にまでなってしまっていたのか・・・
「結局胃瘻になって、ご飯も食べられないまま亡くなってしまった。この5年間って、お姉さんにとってどんな日々だったんだろう」
私は考え込んだ
しかし、その時の考え、判断があったわけだから、今の私にどうこう言える権利はない
「だから、私が介護で迷惑をかけるようになったら、すぐに楽にさせて下さいね」
妻は再び同じ言葉を私に向かって言った
妻の言葉に私は返事をせず黙り込んだ
2
その年の冬はとても寒い冬だった
今年の年末年始も子供達は帰省することはなかった
世間はまだコロナウイルスに苦しめられている
何度も変異し、ワクチンや薬が追い付かない
日本、いや世界全体がこのウイルスに苦しめられて続けている
もはや諦めの雰囲気が世界を覆い尽くしているようだった
静かな年越しを2人で過ごし、1月も中旬になった頃
「最近体調が悪くて」
時々妻が体調不良を訴えるようになった
偏頭痛は以前から持っていたが
「それとは少し違う。気のせいかも知れないけど、時々右手がしびれて動かなくなるの」
「いつからそうなったの?」
「ここ数日よ。気のせいかと思っていたけど、治らないの」
妻は不安そうな顔をして言った
「右手が上手く使えないから、今日の夕御飯はお弁当にしてくれない」
「ああ、わかった。スーパーの弁当で良いか?」
「私はなんでもいい」
「なんでもいいって言うのが一番困るな。じゃあ近くのスーパーに行ってくる。少し横になっていた方が良いんじゃないか?」
そう妻に言うと、私は上着を着て車に乗り込んだ
車の中も氷点下を下回っているような寒さだ
すぐにエンジンをかける
もうすぐ80歳になるが、車の運転を続けている。家族からは何度も運転免許を返納しろと迫られている
しかしこの田舎で車がないと何も出来ない。近くのスーパーまで行くのに、片道15分以上かかる
今の私では歩いて買い物に行くことは難しい。体力がとても持たない
スーパーの惣菜コーナーに行き、弁当やおかずを買い物かごに入れてレジに並ぶ
情けない話だが、体調の悪い妻に料理を作ってあげることはとても出来ない
仕事ばかりで、料理なんてやったことはないし、調味料の場所も、どこにあるのかわからない
会計を済ませ車に戻り、家路を急ぐ。しかしすぐに渋滞にはまってしまった。仕事帰りのサラリーマンと時間が被ってしまったらしい
行きの倍時間がかかり、ようやく家に着いた。辺りはもう真っ暗だ
車を降り、玄関に向かっている途中違和感が私を襲った
家の電気が全く付いていない。
どこかに出掛けているのだろうか・・・
「ただいま」
暗い家の中に向かって言った。しかし返事は帰ってこない
体調が悪いから、ベッドで寝ているのだろう
そう考え、玄関の電気をつけて、居間の方に歩いていった
そして居間の電気を付けた途端、私は大声を上げてしまった
居間の隅に、倒れて動けなくなっている妻の姿が目に飛び込んできたからだ
「どうした、大丈夫か?」
私は持っていたスーパーの買い物袋を床に落とし、倒れている妻に駆け寄った
「おい、どうしたんだ!!」
妻に向かって大声で叫んだが、妻は全く反応を示さない
救急車だ
異常事態に頭の中はパニックになったが、ポケットから携帯電話を取り出し、119の数字を押した
「はい消防局です、火災ですか?救急ですか?」
「救急車をお願いします。妻が倒れて動かないんです」
「わかりました、では住所を教えてください」
「○市○番地○です」
「倒れている奥様は今どういう状態ですか、息はしていますか」
私はすぐに妻の様子を見た。息はしている。
「息はしていますが、声をかけても全く動きません」
「わかりました、出来るだけ身体を動かさないようにしてください。今救急車が向かいましたので、10分以内には到着します」
「お願いします」
私は電話を切り、妻に近づいた。買い物に出掛ける前までは普段と変わらなかったのに・・・
帰ってきたらこんな姿になっているなんて・・・
そういえば、体調が悪いと言っていた。買い物に出掛けるのを止めていたら、もっと早く帰ってきていれば
頼む、元気になってくれ
数分後救急車が家に到着した。3人の屈強な男が降りてきて、私の家に上がり込んだ。妻の様子を見ると
「酸素投与、それからすぐに病院の手配して」
妻にはすぐに酸素マスクが付けられ、ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に入っていった
「すぐに救命センターに運びます。ご主人も一緒に乗ってください」
私が救急車に乗り込むと、救急車はすぐに発進した。救命センターは車で行くと20分以上かかる、この地域では一番大きな病院の中にある
「妻は大丈夫なんでしょうか?」
「今はなんとも言えません。意識がないのが少し心配ですね」
私の質問に救急隊員は答えた
無事であってくれ。目を覚ましてくれ。
私は揺れる救急車の中で祈り続けた
病院に到着すると、すぐに救命センターの中に妻は運び込まれた。私も付いていこうとしたが
「ご家族の方は待合室でお待ちください」
そう言われたため、私は仕方なく待合室の椅子に力なく腰かけた
頭の中は混乱していた。先程までスーパーで買い物をして家に帰ってきた。それから30分も経過していないのに、今は病院の待合室に座っている
現実なのか、それとも悪い夢の中にいるのか
現実で、悪い夢の中にもいないことはわかっている。しかし、それを受け入れられない自分がいた
「ご家族の方、診察室にお入り下さい」
待合室で何時間待たされただろうか、突然声をかけられた。ゆっくり重い腰を上げた
頭の中は真っ白、膝にも力が入らず、ふらつきながら歩く。たいした病気じゃない、自分に言い聞かせるが、不安で押し潰されそうになる
ドアをゆっくり開けると、青い服を着た医師が、机に置いてあるパソコンを見ていた
「どうぞ、こちらに座ってください」
指示された丸椅子に腰かけた
「先生、妻の状態はどうなんでしょうか?」
私は恐る恐る聞いた。
その言葉に医師は神妙な面持ちで私の目を見つめ
「奥様は脳梗塞を発症しています」
静かに言った
「脳梗塞ですか!!」
身体が雷に打たれたような衝撃を受けた。なぜなら昨年亡くなった義姉も、同じ脳梗塞を患っていたからだ
「非常に申し上げにくい事ですが、奥様は左側の脳に血流を送る太い血管が詰まっています。そしてその先の脳が壊死しています」
「ということは、妻はどうなるんでしょう」
「まず、右半身に麻痺が残る可能性が非常に高いです。そのため以前のように歩いたりする事が難しくなります。利き手が動かなくなるので、日常生活においても、かなり不自由になると思います」
「そんな・・・」
「リハビリをすればある程度回復するかもしれませんが、まだ意識が戻らない状態なので、これ以上はなんとも言えません」
「妻の意識は戻るのでしょうか」
「戻るとは思いますが、そのまま意識が戻らない方も少なからずいらっしゃいます」
悪夢のような医師からの言葉を聞いてから、私は子供達に連絡を取った。今にも目から涙が溢れそうだったが、感情を押し殺し、子供達にお母さんが倒れて、今病院で治療を受けていることを伝えた
3人とも絶句し、今から向かうと言ってくれた。ただ最近またコロナウイルスが都会を中心に流行りだしており、病院に来ても面会できるかわからない
しかし、3人ともそんなことは関係ない。すぐに向かうと言って電話を切った
私は待合室に戻り、椅子に腰を掛けた。疲れが身体中を襲い、鉛のように重い。そして妻の病気の事を考えると、心配で涙がこぼれそうになる
もっと前から体調が悪かったはずなのに、私に心配をかけまいと振る舞っていたのだ。
そう考えた途端、こらえていた涙が私の頬を流れ、そして嗚咽した
そんな姿を見た看護師が
「ご自宅にお帰りになったらいかがですか?時間も遅いですし、奥さまの状態に変わりがあったらすぐに連絡を取りますので」
私に語り掛けた
「泊まって妻の近くに居たいのですが」
「今はコロナウイルスが蔓延しています。病院に泊まることは控えていただいていますので」
時計を見ると、午後11時を回っていた
「わかりました。では、何か変化がありましたら、すぐに連絡してください」
そう看護師に伝えると、私は席を立ち病院の出口に向かった
病院を出ようとしたその時
「もし私が介護で迷惑をかけるようになったら、すぐに楽にさせて下さいね」
突然、私の頭の中に妻の言葉がこだました。回りを見たが誰一人いない。空耳だったのだろうか・・・。
3
妻の意識が戻ったのは、倒れてから5日後の事だった。なんとか言葉も話せるし、食事も少し食べたそうだ
全く心が休まらない5日間だった、妻の事が心配で食欲が全く出ない。夜もほとんど眠れなかった
コロナウイルスが蔓延しているため、面会は全く出来ず、看護師から状態を教えてもらうことしか出来なかった
特に首都圏から帰って来た子供達への風当たりは強く、病院の中にさえ入ることが出来ず、近所の白い目もあったため、説得し帰ってもらった。3人とも納得がいかない様子だったが、コロナウイルスが、また流行りだしているから仕方がない
意識が戻ったという報告を聞いて、心の底から安堵した。もしかしたら妻はこのまま死んでしまうのではないか。頭の中に何度浮かんだかわからない。しかし、意識が戻ればもう安心だ
だがコロナウイルスの関係で面会出来ない。妻の顔を見ることも出来ないし、励ましの言葉を掛けてあげることも出来ない
ただ一言、生きていてくれてありがとう
会って、そう伝えたかった
それから1週間ほどして、妻は集中治療室から一般病棟へ移った。様態も安定したらしい
病棟が移っても面会は出来ないことには変わりはなかった。電話で妻の状態を看護師から聞く事くらいしか出来ない
電話で聞く妻の状態は、決して良いものとは言えなかった。倒れた日に医師からの言われた通り、妻は右半身に後遺症が残り、一人では起き上がることも出来ない状態になってしまっていた
そのためトイレはオムツで対応している
食事はむせてしまうので、ミキサー食というドロドロの物をなんとか食べている
聞けば聞くほど、昨年亡くなった義姉さんと症状がまったく一緒だった。私は暗澹たる気持ちになった
義姉さんの状態は妻から聞いていた。しかし私はその姿を見ることを心の奥底で拒んでいた。どう接すれば良いのか、何の言葉を掛けてあげれば良いのか
当時の私には全くわからなかった。とにかく辛い体験はしたくない。そう考え、逃げ回った私は卑怯者だ
一番辛い体験をしていたのは、義姉夫婦だったのに
ただ、今の状態では、介護が絶対に必要になる。介護をする人間は、介護などやったことがない私しかいない
退院の話が出たのは、それから約1ヶ月後の事だった。妻が入院している病院は救命救急センターがある大きな病院。この地域の救命医療の核となる病院だった
次から次へと重病の方が救急車で運ばれてくる。そのため限りのあるベッドの確保のため、病状が安定した場合、すぐに退院しなくてはならない
病院のケースワーカーから介護保険の申請をした方が良いと言われた。ベッドや車椅子、デイサービスなどの介護保険サービスが安く受けられると説明を受けた
そんな制度は全く理解していない私は、どうしたら利用できるのですかと聞いてみると、私が代行で申請します。そしたら利用できるようになります
そう返事が返っていた
私がなにもしなくてもそちらで申請してくれ、利用出来るようになるという。それは大変助かる
「知り合いのケアマネージャーの方は居ますか?」
ケースワーカーは続けて聞いてきた
ケアマネージャー?初めて聞く言葉だ。最近横文字を使いたがる習慣がある。80近い私には付いていけない
「いや、いないですね」
「じゃあ私の方で探しておきます」
「ケアマネージャーって何の仕事をする人なんですか?」
「ケアマネージャーって言う仕事は、ケアプランを作ってくれる人です。ケアプランがないとデイサービスなどの介護保険サービスが使えないんですよ」
横文字だらけで全く理解できない。もう少し日本語を多くしてくれないだろうか
「お願いします」
全く理解できない私は、頭を提下げお願いするしかなかった
退院のための話し合い、通称退院カンファレンスの日が決まった
3日後の午後3時。希望の日時はありますかと聞かれたが、私は仕事をしていない。予定など全く入っていないため、お任せしますと答えたところ、この日になった
今の病院は親切で、退院する時自宅でどのように過ごせるか、何が必要なのかを教えてくれる会議を開いてくれるそうだ
そこには本人はもちろん、看護師、ケースワーカー、そしてケアマネジャーも出席するという
倒れてから約2ヶ月、ようやく妻に会える日が決まった。話には聞いているが、妻の状態はどうなのか、ほとんど想像出来なかった
早く妻に会いたい。例え以前のような状態ではなくても
3日後の午後3時、私は病院についた
そして病棟に向かうと会議室に通された
そこには看護師やケースワーカーを含めた4人の人間がもう椅子に腰かけていた。全員が緊張した面持ちで、部屋の空気も重い
一番末席に座っていた男が立ち上がり、私の前に立った
「初めまして、この度担当させて頂くことになりました、ケアマネジャーの石井と申します」
名刺を差し出し頭を下げた
「こちらこそよろしくお願いします」
私もその男に対し頭を下げた
石井という男は、多分40代中盤。眼鏡を掛けている。目は細くつり目で、少し相手を威圧させる雰囲気がある。スーツを着ているが、髪の毛はボサボサ。そんな格好をした男だった。
挨拶を終えると全員席に着いた
「もうすぐ奥様がいらっしゃいます」
看護師のその言葉に私は緊張した
倒れてから約2ヶ月ぶりに妻と会う。結婚してこんなに長く会わなかったことは多分なかっただろう
しかも妻は脳梗塞という大病を患っている。どのような姿なのか検討もつかない
「奥さま入られます」
ガチャっというドアの開く音がした後、車椅子に乗り、後ろから押されながら一人の女性が入ってきた
妻だ
私は無意識に立ち上がり妻を見た。しかし同時に違和感に気づいた
妻の顔の右半分が気持ち下に垂れ下がっている。特に口はすぐに変化がわかるほど垂れ下がっていた。左右対称ではないことがすぐにわかる
そして、左腕は車椅子の肘掛けのところに乗せているが、右腕は肘掛けに乗らずだらんと膝の上に置かれていた
私はその姿に狼狽しそうになったが、表情には出さず、妻の前に立った
すると突然妻は動かせる左手で私の服をつかんだ
「あなた・・・こんな身体になっちゃった」
そう言った途端、泣きわめき始めた。周りの人間も驚くほどの大声で。慟哭とはこのようなことなのだろうか。それほど大声で私の服を掴み泣き続けた。
この姿を見て、私は妻が目を覚ましてから今まで、どのような苦しみ、不安、屈辱、傷みのなかで生きてきたのか悟った
私はゆっくりと座り、両手を妻の背中に回した
「生きていてくれてありがとう」
意識が回復した日に伝えたかった言葉を伝えた。
そう言った途端、私の目からも涙が流れだし、頬を伝っていった
4
会議、つまり退院カンファレンスが始まったのは、妻が到着して10分以上過ぎてからだった
私はすぐに平常心を取り戻すことが出来たが、妻が全く泣き止んでくれなかった。妻がこれほど泣くのをみたのは初めで、私も困惑した
周りの人の声掛けで、平常心を取り戻すのにかなり時間がかかった
「それではカンファレンスを始めます」
まずは看護師から今の妻の状態の説明から始まった
脳梗塞の後遺症で、右半身に強い麻痺が残り動かすことが出来ない。リハビリも始めているが、自分で立ち上がること、立っている姿勢を保つことが出来ない
トイレは立ち上がることが出来ないのでオムツを使用している。看護師が時間を決めて交換している
食事はまだミキサーにかけたものを食べている。食べている途中にむせてしまうことが多く、誤嚥性肺炎に罹る可能性もある
お風呂は先日病院の機械のお風呂に入った。身体をネットで吊り上げ、浴槽に入れるタイプのもの。入浴時にどうしても力が入らない右側に身体が倒れてしまい、目を離すと溺れてしまう可能性がある。普通の家にあるお風呂に入ることは難しいだろう
つまり、立ち上がること、移動すること、トイレに行くこと、食事を食べること、お風呂に入ること、人間が行う全てにおいて人の介助が必要な状態になってしまっていた
覚悟はしていたが、いざ事実を突きつけられると言葉が出てこない
看護師の説明が終わると、その場は誰も言葉を発しない重苦しい雰囲気となった
「ご主人はどう思われますか?退院して自宅で介護していかれますか、それとも老人ホームなどの施設を利用しようと考えますか?」
突然隣にいた石井が私に話しかけた
今妻の状態を聞いたばかりなのに、そんなこと判断できるはずがない。あまりに私の気持ちに配慮しない発言に私は驚いた
「そんなこと、今決めろと言われてもわからない」
やや憮然とした態度で言葉を返した
「いや、退院も近いですし、家で生活するとなるといろいろ準備が必要です。家で介護をするというのは想像よりとても大変ですし」
悪びれる態度もなく答えた。私は腹が立ち、文句を言おうとした瞬間
「私は家に帰りたい、もう病院での生活はいや・・・」
妻が小さな声で話した
「病院で生活するのは嫌、いろいろな人に気を遣わなくちゃ行けないし。家に帰りたい。老人ホームなんて入りたくない」
そう言ってまた涙を流し始めた
私はその涙を見て、退院し自宅で介護することを決めた
「妻には退院して自宅で生活してもらおうと思います。」
私は顔を上げ、言った
「そうですか、ではケアマネージャーの石井さんを中心に、退院について話し合いましょう」
ケースワーカーが全員に言った途端、私の心の中は一気に暗くなった。こんな人の気持ちに配慮できない人間が中心になるのか
そんな私の気持ちをよそに、会議は進行した。
ケースワーカーから介護保険の申請は済ませてあり、もう認定調査も終わったとのこと。多分介護度は3以上にはなるだろうと伝えられると、石井はうん、うんと頷いた
認定調査、介護度・・・。全く意味がわからず困惑している私をおいて話は進んでいく
「ご主人、まずは電動ベッド、そしてベッドマット、車椅子などの福祉用具のレンタルが必要になります」
私達は今の時代でも布団で寝ていた。だか今の状態では妻が布団で寝るのは無理なのは私でもわかる
「レンタルするのにお金はどれくらいかかるんですか」
「電動ベッドは一式で千円、それにベットマットは五百円ほどです。車椅子も五百円位でレンタル出来ますよ」
「1日で?」
「いや、1ヶ月の料金です」
ずいぶん安い。なんでそんなに安くレンタル出来るのか・・・
「それが介護保険制度なんです。本当は電動ベッドをレンタルするには約月1万円必要ですが、介護保険制度を利用すると、1割の負担でレンタルできる。残りの9割は毎月国民の方から徴収される介護保険料で自治体が払ってくれるんです」
そういえば私も年金から介護保険料として結構な額を天引きされている
「それ以外の介護保険サービスも1割の負担で利用が出来るのです」
「他の介護保険サービスって何があるんですか」
また横文字の言葉だ。こういう横文字ばかり使う風潮を何とかしてほしい。私のような年寄りには全く理解できない
「あと、特別養護老人ホームなどの入所も安く利用することが出来ます」
先ほど妻が老人ホームに入りたくないと言ったことを忘れているように饒舌に話を続ける
「では次にお風呂にどのように入るか決めていきましょう。ホームヘルパーに来てもらい、家のお風呂に入れてもらう手伝いをしてもらうという方法がありますが、今看護師さんが家のお風呂に入れるのは危険だと言われました」
確かにうちのお風呂は深く、溺れてしまうかもしれない
「その場合はデイサービスか訪問入浴を利用します。デイサービスは朝迎えに来てもらって、お風呂に入れてもらったり、運動をしたりするサービスの事です。お昼御飯も出ますので利用されている方が多いです」
そんなことをしてくれるところがあったのか。全く知らなかった
「時間としては朝9時頃お迎えに来て、帰るのが午後4時頃になります。預かってくれるので、ご主人の奥さまに対する介護負担の軽減にもなります」
介護負担?妻が居る前で負担なんて言葉使わないでくれ。本当にこの男は人に配慮が出来ない人間だ
「デイサービスには行きたくない」
突然妻が口を開いた
「どうしてですか?」
石井が少し驚いた表情をした
「だって、こんな姿他の人に見られたくないもの・・・」
妻の言葉に一同静まり返った。近所の人に今の姿を見られるのは嫌なのだろう
「それでは訪問入浴しかありませんね」
「訪問入浴?」
「訪問入浴とは家に浴槽ごと持ってきてお風呂に入れてあげるサービスです。ワゴン車で来て浴槽を部屋の中で組み立てお湯を入れて入浴してもらいます」
「部屋の中で浴槽を組み立てるだって?それじゃあお湯が漏れたりしないのか」
「漏れません。漏れたという話も全く聞きませんので」
それなら外には出ることなく、お風呂に入れてあげることが出来るのか。本当だとしたら便利な世の中になったものだ
「料金はいくらなんだ」
「1回千四百円ほどです。福祉用具は月単位の料金ですが、訪問入浴は1回の値段になります」
1回千四百円・・・それなら介護保険を使わなければ、1回一万四千円。1回あたり一万二千円ほど補助が出るというわけか
その後は食事はトロミ剤が薬局で売っているため購入し食事やお茶などの水分を取るときに混ぜてトロミを付けること
着替えの時は、必ず脱がすときは動く左側から、逆に着させる時は麻痺している右側から行うこと
オムツも薬局でで売っており、最低でも朝、昼、夕、寝る前1日4回は交換すること
そのような話をし、退院カンファレンスは終わった。
そして妻の退院は1週間後に決まった
退院の前日、石井が福祉用具の業者をつれて家に来た。これから自宅で生活するにあたり、ベットの位置を決めたいという
私はいつも寝ている奥の部屋に案内した
業者は寸法を図るとすぐに車から電動ベッドの部品を運び込み、一人で着々と組み上げていき、ものの10分足らずでベッドを組み立てていった
最後に車からベッドマットを持ってきて、電動ベッドの上に乗せ完成
手際のよさに感心した
「家の出入りは車椅子でしますよね」
急に石井から声が掛けられた
「もちろんそのつもりだが」
私が答えると、業者は玄関の段差の高さをメジャーで計り始めた
「玄関の段差が高くて、これでは車椅子で入ったり、出たりするのは難しいです。スロープが必要になりますね」
確かに玄関には高い段差がある。確かに車椅子では越えることが出来ない
すると福祉用具の業者はすぐに車からスロープを持ってきて設置した
これなら車椅子に乗ったままでも家には居ることが出来る
「このスロープは1ヶ月七百円でレンタル出来ます」
私はこれもレンタルすることにした
取りあえず、これで妻が帰ってくる準備は整った
5
翌日、妻の退院の日になった。
妻の退院の日には、コロナ禍ではあるが、遠方から子供達が駆けつけてくれた
ケースワーカーが車に乗せるのは大変ということで介護タクシーを手配してくれた。後部座席はスロープになっており、車椅子のままで自動車の後部座席に乗ることが出来る。車椅子を固定するとタクシーは家に向かい出発した
「家には久しぶりに子供達が帰ってきているぞ。元気な顔を見せてあげないとな」
後部座席の妻に話しかけたが、妻の表情は暗いままで返事もなかった
病院から20分ほど経過したとき、ようやく我が家に着いた
運転手は車椅子のロックを外し、ゆっくりと妻を車から下ろす
すると、子供達3人が玄関から出て妻のところに詰めよった
3人にはもちろん妻の状態は伝えてある。妻も今の自分の状態にショックを受けているようだから配慮するようくれぐれも伝えてある
「お母さん、退院おめでとう」
久しぶりに母を目にした子供達は3人とも涙を流していた
コロナ禍で面会が出来ない状態の中、子供達もこの2ヶ月間、不安な思いに苛まれていたのだろう
しかし妻はというと、姿勢を良くし、動く左手で3人の手を握っていた
カンファレンスの時は取り乱すほど泣いていたため、また同じことになるのではないかと心配したが、杞憂に終わったようだ
車から降り、玄関のスロープを登り自宅に入った。
妻は久しぶりに見る我が家を見渡しながら
「よかった、家に帰れた」
小さな声で呟いた
ケースワーカーから聞いた話だが、このように脳梗塞などの脳血管疾患を患い、身体の麻痺が残ってしまった家族は、療養型の病院か、老人ホームに入れてしまうケースが多いらしい
家で介護していく自信がない
理由の多くは、そんな思いから。
妻の言葉や子供達の表情を見ると、退院して我が家で暮らしていくという選択は間違いではなかったと思った
ただ家で介護していく自信は、この状況になっても私にはないが・・・。
夕御飯は久しぶりに家族全員で卓を囲んだ
妻の御飯はドラッグストアで売っていた流動食を温め、そこに薬局で買ってきたトロミ剤を入れてかき混ぜたものを出した
お世辞にもうまそうとは思えなかったが、固形物や水分はうまく飲み込めないというので仕方がない
それでも妻は慣れない左手でゆっくりと食べていた
子供達も配慮してかは知らないが、コンビニの弁当を買ってきて食べている。退院前、景気づけに寿司にしようかと聞いてみたが、お母さんが食べられないのに、俺たちが目の前で食べる訳にはいかない
怒ったように拒否された。3人とも母の病気について勉強してきているらしい
母を元気付けようと、孫達の近況や出来事などを面白おかしく妻に伝えていた
妻もその話に時折笑顔を見せるなど、思ったより元気で安心したと思ったその時
「そろそろ家に帰りなさい」
食事が終わる頃、妻は急に子供達に家に帰るように言った
子供達は困惑した表情を浮かべ、お互いの顔を見つめあった
「明日は仕事でしょ。そろそろ帰らないと間に合わなくなるわ。今日はありがとう。来てくれて嬉しかった。お母さんは大丈夫だから」
凛とした姿で子供達に言った。子供達は今日泊まる予定でいたので、明日は休みを取ってあると言ったが、なぜか妻は聞き入れなかった
子供達は渋々帰らざるをえなくなった
子供達が帰った後は家の中は静まり返った。せっかく子供達が心配して、遠くから来てくれたのに・・・
妻は奥の部屋に入っていった。その姿を見て、私はついて行き同じ部屋に入った。なぜ子供達を帰したのか、理由が知りたかったからだ
部屋の中で妻は壁に向かい、そして泣いていた
「ごめんなさい、子供達には心配を掛けたくなくて・・・。でもこれ以上一緒にいたら辛くて泣いちゃいそうになったから・・・。だって久しぶりに帰ってきたのに、ご飯も作ってあげられないし、お茶だって出してあげられない」
「いつもやっていたことが出来ないことが悲しくて・・・。これ以上元気なふりをすることが出来なかった」
「子供達に心配掛けたくないもの」
左手でハンカチを取り出し、目にあててから咽び泣き始めた
その姿を見て、若い頃の妻の姿を思い出した。どんなことにも動じず、どんなに苦労しても苦しい姿は見せない。芯の強い女性だった
私はこの思いにどのように答えたらいいのだろうか。いや、答えることが出来るのだろうか?
落ち着いた頃合いを見て、オムツの交換をすることにした
時間を見るともう午後9時になっている。オムツ交換をして、寝るには丁度いい時間だ
妻をベッドに寝かせるとズボンを下ろす。そしてオムツのテープ留めを外した後身体を右側に向ける。左手で右側の柵をもってもらうためだ
「あなた、ごめんなさいね」
オムツを交換している最中、何度もごめんなさい、ごめんなさいと妻は私に言った
「謝ることなんてないよ」
私は妻に言いながら汚れた尿取りパットを取り、陰部からお尻に掛けてきれいに拭いた。清潔にしないと床擦れの原因になると看護師から言われている
新しい尿取りパットをセットし、妻を仰向けにさせた。そしてオムツのテープ留めを付け、ズボンを上げて終了だ
「終わったよ」
そう声をかけ、ゴミ箱に汚れたパットを捨てに行った。結構重労働だ。これを1日4回、365日続けなければならないかと思うと、少し気が重くなった
次の日の朝が来た
まずは妻のオムツ交換から始まる
「昨日はよく眠れたかい?」
「ええ、病院よりずっとよく眠れたわ」
「それはよかった」
オムツ交換を終えると朝御飯になる。昨日と同じく流動食、お茶にトロミを付けて妻の前に出した。私はパンとコーヒー
「いただきます」
そう言ってから二人で食べ始めた
「ゴホッ、ゴホッ」
昨日はみられなかったが、妻はご飯を食べている時、時々むせ込んだ
脳梗塞の後遺症で、食べ物が気管に行ってしまうのだろう。誤嚥性肺炎にならなければいいが・・・
「もうたくさん」
半分食べたくらいで妻は箸をおいた。私も無理はさせないように、食器類を片付けた
それからの時間は静かだった。倒れる前からほとんど夫婦の会話はなかったが、その時とは全く雰囲気が違う
妻の心配、そしてこれから私達はどうなって行ってしまうのか
漠然とした不安、そして静寂が私の心の中を重くしていた
昼食、夕食とも妻の箸は進まなかった。どうしてもご飯を飲み込む時に咳き込んでしまう。それでも妻は私の事が気になってか、何度かご飯を口に持っていく。
私はそれを止めた
「これ以上無理しない方がいいよ」
ドラッグストアに売っていた、ハイカロリーゼリーを代わりに食べさせた
このゼリーはむせることなく食べることが出来た
寝る時間になった。昨日と同じく妻をベッドに移しオムツ交換をする
「横向くよ」
妻の身体を横に向けた
「あなた、私の介護が大変だったら、私を楽にしてくださいね」
向こうに身体を向けた瞬間、妻が私に向かって言った
「大変じゃないよ、俺は君が生きていてくれただけで嬉しいんだよ。入院中どれほど心配したかわからない。だからもうそんなこと言わないでくれ」
「でも、私は迷惑をかけたくないの」
「今のところ、全く迷惑だと思ってないよ」
そう言って妻の身体を仰向けにした。そして妻の顔を見た時、私は動揺した。目から涙がこぼれていたのだ
「ごめんなさい、ごめんなさい、こんな病気になっちゃって」
その言葉を聞いた私は沈痛な思いにかられた。病気になったのは妻の責任ではない。迷惑ではないと言っているのに、目の前で泣かれてしまうと、こちらも辛い・・・
オムツ交換を終わらせ、電気を消して寝ようとした。
だが今日、私はあまり眠りにつくことは出来なかった
次の日は訪問入浴の日だった
退院して3日、お風呂に入っていない。お風呂に入ってくれれば気分もリフレッシュしてくれるかもしれない
ただ右側が動かない人間をどうやってお風呂に入れてあげるというのか?全くイメージがわかない
予定していた午後2時、家の前にワゴン車が止まった。訪問入浴の業者らしい
車からは3人の職員が降りてきて私と妻に向かい挨拶をした
3人は妻をベッドに寝かせた後、素早くワゴン車に戻った。そして半分になっている浴槽を持ってくると、一人は妻の血圧や体温の測定、2人はベッドのすぐ横に浴槽を組み立て始めた。しっかりと固定され、その後どういう設計なのかわからないが、頭の部分から勢いよくお湯が流れ出した
体調チェックが終わると、寝ている妻の服をゆっくりと脱がす。裸が見られないように身体の上にバスタオルを敷いてくれた
そして浴槽にお湯がたまると
「お風呂に入りましょう」
そう言ってから3人が妻の横に並び、一人は肩、一人は腰、一人は足の下に腕を入れると
「身体持ち上げますよ、せーの」
掛け声で妻の身体を持ち上げゆっくりと浴槽に近づく。そして浴槽の上まで移動させ、
「ゆっくり下ろします。そしてお風呂に入りますからね」
そう言ってから3人はゆっくりと妻の身体を下ろし始め、お湯の中に身体を入れた
「湯加減はいかがですか?」
「とてもいいです」
妻は笑顔で答えた。久しぶりに見る妻の笑顔だった
それからお風呂入ったままの状態で頭や身体を洗っていく
排水はホースでうちのお風呂に流れるようになっていた
入っている途中にシーツ交換を新しい服への着替えの準備もしてくれる
しばらくすると、そろそろ上がる時間だと伝えられた
今度入るときの逆。3人が妻の身体の下に手を入れると
「じゃあ、上がりますね。せーの」
掛け声と共に妻の身体を持ち上げ、ゆっくりとベッドの上に寝かせてくれた
すぐに身体を拭くと新しい服に着替えさせた。ドライヤーで頭を乾かし終了となった
「ありがとう、お風呂に入れて嬉しかった」
妻は3人に対し礼を言った。
3人の手際のよさに驚かされた。これなら寝たままでもお風呂に入れてもらうことが出来る。しかも安全に。いいサービスがあるものだと感心し、そして感謝した
6
退院して2週間が経過した
妻の状態は徐々に悪くなっている気がする。ご飯もむせてしまい、あまり食べることが出来ない事も徐々に増えてきた
ベッドから車椅子へ一人で移ることは出来ない。立ち上がった瞬間力の入らない右側にどうしても倒れてしまう。そのため抱き抱えるようにして妻を支えながら移さなければならない。
しかし、時々一人で車椅子に移ろうとすることがある。転んではいけないので、目が離せない
オムツ交換も1日4回、毎日やっている。排便があった時も
今までほとんど使わなかった筋肉を使っているためか、最近腰の痛みに悩まされるようになってきた
ただそんなことより辛いことがあった
「死にたい・・・」
妻が私に時々訴えるようになったのだ
身体が思うように動かない、失禁もしてしまう、ご飯も美味しいものを食べることが出来ない
気持ちは痛いほどわかる。しかし妻のためと思って、一生懸命頑張っている私にとって、その言葉は心をえぐられるような気持ちになる
「そんなこと言わないでくれ」
何度も妻に言ったが、なにか出来ないことがあった時、辛い時、寝る前に口に出すようになった
この言葉は本当に私を苦しめた。なにをやっても無駄な事なのかもしれない。その考えが私の脳裏に浮かぶようにさえなってしまった
そのストレスからか、私は不眠に苦しむようになってしまった
そんな苦しい日々を過ごしながら、1ヶ月ほど経過した。
その日は次の日訪問入浴の日だったため、念のため妻の体温を測った。
体温計を見ると37,2℃。微熱が出ている
風邪でも引いたのか。最近妻は痰が絡むような咳をするようになっていた
明日まで下がらなかったら、キャンセルしなければならないな。体温計を見ながら思った
訪問入浴の職員が到着した。朝、妻の熱を測ったところ36、8℃。熱はないようだから今日の訪問入浴をお願いした
いつものようにテキパキと妻のベッドの横に浴槽を組み立てていく。もう一人の職員が健康状態の把握をしていた時
「少し微熱がありますね」
体温計を見て言った。そして聴診器を耳に当てると、妻の胸の音を聴き始めた
「ご主人、奥様は誤嚥性肺炎になっている可能性があります。今日は入浴を中止して、病院で診てもらった方がいいと思います」
「誤嚥性肺炎ですか・・・」
「そうですね、熱も今、37,5℃ありますし、痰が絡むような咳をしています。可能性は高いと思います」
3人いる内の1人の職員は看護師だった。看護師が言うからにはそうなのかもしれない。熱も昨日より上がっている
「わかりました。すぐ病院で診てもらおうと思います」
私が答えると、3人はテキパキと浴槽を片付け始めた
「せっかく来てもらったのに申し訳ない」
「いや、病気だから仕方ないですよ」
そう言った後、職員は帰っていった
それを見届けた後、私は介護タクシーを呼んだ。比較的近くにある総合病院に予約を入れ、妻を車椅子に移した
身体を触ると確かに熱い気がする。時折痰が絡むような咳を何度もしていた
病院に到着すると、すぐ検査となった。待合室で座って待つが、2時間経っても声は掛からない
3時間が経過しようとした時ようやく声が掛けられた
診察室に入ると、今回は白衣を着た医師が待っていた
前回と同じように丸椅子に座るよう勧められたため、ゆっくりと腰を下ろした
「奥さんは誤嚥性肺炎に掛かっています。結構広範囲に肺炎が見られます」
訪問入浴の看護師の言う通りだった
「妻は治るのでしょうか?」
「入院して抗生剤の点滴をすれば、大体2週間位で退院できるようになると思います」
「入院ですか・・・」
「申し上げにくい事ですが、奥さんは脳梗塞の後遺症で食べ物が気管に行きやすい状態です。誤嚥性肺炎を繰り返す可能性が高い。口から食べるより、胃瘻にした方が誤嚥性肺炎の防止になると思いますがね」
「胃瘻ですか・・・」
義姉が行ったお腹からチューブで栄養を入れる方法だ
「胃瘻は考えていません」
「それだと誤嚥性肺炎を繰り返しますよ」
「・・・」
私は答えに窮した。確かに誤嚥性肺炎を繰り返し、入退院を繰り返すのは妻にとってかわいそうだ。だが、ご飯も食べられず、チューブで栄養を送り続けながら生きるのもどうなのか・・・
「わかりました。とりあえず今回は誤嚥性肺炎を治すことを最優先にしましょう。胃瘻はまた誤嚥性肺炎になってしまった時に考えるということで」
私の困惑した表情を見て、医師は答えた
「ありがとうございます」
頭を下げて診察室を後にした
家に帰った。寒い時期だが電気も暖房も付いていない。部屋の中は外と同じ気温で寒々していた
しかし私は電気も付けず、そのまま布団に潜り込んだ。そしてすぐに睡魔に襲われ寝てしまった。どれほど妻の介護で精神的に疲れていたか思い知らされた
次の日、朝9時に目が覚めた。昨日帰ってきたのが午後7時頃。それからすぐ寝たのだから12時間以上寝ていたことになる
こんなに寝たの生まれて初めてと言ってもいい
ベッドを見るといつも寝ている妻の姿はない。昨日から入院しているためだ。その安心感からずっと眠っていたらしい。しかし起き上がると偏頭痛が襲ってきた。寝すぎるのも身体に悪いようだ
朝御飯を食べている時、医師から言われた
「誤嚥性肺炎で入退院を繰り返しますか、それとも胃瘻にしますか」
その言葉が何度も頭の中を往復した。私にどう決断したらいいのか全くわからない
しばらく悩んだが、他の人に相談に乗ってもらうしかないと考えた。一人ではとても決められない
もし、私の相談に乗ってくれるとしたらあの人しかいない
そう思いスマホを手にし、電話帳に登録されているあの人の名前を探した
ようやく見つけると、その人の電話番号を押した
数回コールがあった後、
「もしもし」
久しぶりに聴く声が聞こえてきた
「おはようございます」
「ああ、君か」
私の声を覚えてくれていたようだ
「突然すいません、相談に乗ってもらいたいことがありまして、そちらに伺いたいのですが」
私がそう言うと、数秒静寂の後に
「いいよ、来なさい。私で役に立てるかわからないけれど」
「では今から伺います」
その家の玄関のドアを開けると、私を待ってくれていたように、一人の老人が立っていた
「ご無沙汰して申し訳ありません」
私が頭を下げると
「いいよ、君も大変なんだろ。親戚から話は聞いているから」
私が相談しようと訪ねた相手は、義理の兄だった。義姉の葬儀以来ではあるが、思ったより元気そうに見えた
「実は妻の事で相談がありまして」
「倒れたという話を聞いた時に、君に連絡しなくてはならないと思ったよ。でもなにを話したらいいかわからなくて。妻の介護には君の奥さんに大変世話になったのに、連絡しなくて申し訳なかった」
義兄は私に向かって頭を下げた
「頭を下げないでください。お義兄さんの奥さんの時、私も連絡しませんでしたから」
義兄の気持ちは私には理解できる
「それで、相談て言うのはなにかね。こんな年寄りが役に立てばいいが」
義兄は今年で85歳。ただ姿勢もよく、外見からはそうは全く見えない
「実は妻が入院しまして、誤嚥性肺炎で。その時医者から、胃瘻にした方がいいのではないかと言われまして・・・。私もどうしたらいいか悩んでいるところなんです」
「そんなに悪いのかね・・・」
私の話を聞いた後、義兄は黙り込んでしまった
「じゃあ、私の体験談を話そう。役に立てるかわからないがいいかね?長くなるかも知れないよ」
「お願いします」
私がお願いすると、義兄は話し始めた
「初めて妻が脳梗塞で倒れた時、1番に来てくれたのは君の奥さんだった。6歳離れているけど2人とも仲がよくてね。」
「今みたいにコロナで面会制限なんてないから、一般病棟に移動になった日にお見舞いに行った。その時妻は、身体が動かない事がショックだったのだろう。泣き続けて、死にたい、死にたいと何度も言った。俺は参ったよ。でも君の奥さんが励ましてくれて、なんとか泣かなくなった」
「退院してからもよく顔を見せてくれて、妻の話し相手をしてくれたり、家事や介護を手伝ってくれたりと、本当に助けてもらった」
「妻は君の奥さんが訪ねてきてくれることを本当に楽しみにしているようだった」
「まあ、退院して生活できたのもみんな君の奥さんのお陰さ・・・」
「1年が経った頃かな、妻がベッドから車椅子へ一人で移ろうとしたところ転んで・・・動く方の足を骨折しちまったんだ。」
「1ヶ月ほど入院したかな。でも退院した時妻の様子は全く変わっていた」
「病院で寝たきりで過ごしただろう。だからかはわからないが、帰ってきた時は認知症が酷くなっちまって、物忘れは酷くなったし、家にいるのに、家に帰りたいとか言うようになっちまった」
「病院に聞いたら一時的なものでしょう、なんて言われたが、1ヶ月経つ頃には俺の事も誰かわからない状態になっちまった。もちろん君の奥さんの事もな・・・」
「妻は優しく、思いやりのある女性だった。それが別人のように変わっちまった。夜中に大声で叫ぶようになるし、急に俺に暴力を振るうようになるし・・・。この時の介護が1番大変だったなぁ。」
「しばらくすると、体調が悪くなったみたいで病院に連れていったら、誤嚥性肺炎と診断された。今の君の奥さんがと同じ状態だね」
「その時医者から胃瘻にした方がいいと言われた。悩んだよ。妻には生きてほしいと思っていたが、ご飯も食べられない、そしてあんな認知症になってまで、本人は生きていたいのか・・・。毎日葛藤したよ」
「でも・・・医者を目の前にして、苦しそうだから何の治療もしなくていい、死なせてあげてくれ。何て言えないんだよ。心の底では妻に楽になってもらいたかった。でもどうしても言えなかった。そして胃瘻の手術をお願いした」
「手術が終わって、しばらく経った。そして家で介護していくことになった」
「退院してからは介護が楽になった。胃瘻にしてから本人何も話さず、動かなくなった。完全に寝たきりだ。俺の予想だけど、人間て、食べることで脳が活発になるんじゃないかな。噛むこと、味わうこと。でも胃瘻になったらそれがなくなる。そうなると急激に脳が低下するんじゃないか」
「その状態で妻は3年ほど生きた。でも妻をあの姿で生き続けさせたことは良かったことなのか、今でもわからない」
しかし、しばらく沈黙した後義兄は続けた
「いや、本当はあんな状態で妻に長く生きてもらった事を実は後悔している。君も知ってるかと思うが、私達夫婦は子宝に恵まれなくてね。俺も一人っ子だし、妻が死んだら天涯孤独になっちまう。寂しくなりたくない。そんな思い、エゴが俺の心の中にあった」
「でもさ、ご飯も食べられない、ベッドの上で身動きも取れない。そんな生活辛いよな」
「介護が大変で、将来を悲観し殺してしまう事件が最近多いじゃないか。介護殺人ってやつだよ。その事件をニュースで見るたびに心が痛むよ。本当にこの状態で妻は生きていたいのか。そう考えると死なせてあげた方がいいんじゃないかってね」
「何度そう思ったかわからない。でももし殺してしまったら、俺が殺人犯になっちまう・・・だから殺しちゃう気持ちも充分わかる」
「今は医療が進みすぎてる。どんな病気に罹ったって、100歳まで生きた人だって、なんとか生かそう、どんな状態でも。そういう医療が発達しすぎている。それが逆に今の日本の首を絞めているような気がするんだ」
話し終わると、義兄は大きなため息をついた
確かに日本は昔に比べ医療は驚くほど発展した。しかしそれによって寝たきりや介護難民が増えるという弊害も起きている
やはりある程度高齢になり、回復のみ込みがないようなら、本人の思いを尊重するべきではないだろうか・・・
義兄と別れ、家に帰った。誰もいない家でくつろいでいると、スマホが鳴り出した。表示されている電話番号を見ると、妻が入院している病院からだった
「もしもし」
電話に出ると病棟の担当看護師からだった
「奥さまの事でお話があるのですが・・・」
その言葉に緊張が走った
「妻になにかありましたか」
「誠に申し上げにくいことなんですが、奥さまなんですが、先程ベッドから落ちているのを看護師が発見しまして・・・」
「ベッドから・・・それで妻の様子はどうなんですか?」
「検査の結果、左大腿骨が骨折しているのが判明しまして・・・」
「それで妻の様子はどうなんですか?」
「左足の痛みを強く訴えておりまして・・・申し訳ございません。多分一人で車椅子に乗ろうとして、上手く座れず転倒してしまったんだと思います」
確かに入院前、何度か一人で車椅子に乗ろうとしているところを見つけ、注意したことがあった。
病院で忙しそうにしている看護師に頼むのは悪いと考え、一人で車椅子に乗ろうとしたのだろう。一人で出きるはずもないのに
「わかりました、起こってしまったことは仕方がない。今から妻の状態を見に行きたいのですが」
「申し訳ありません、ただいまコロナウイルスの関係で、面会は出来ないことになっておりまして・・・」
「この状態でもですか?」
「申し訳ありません」
その後もなんとか妻の状態を見たいと訴えたが、病院の態度は頑なだった。電話に出ている看護師も、医者から言われているのだろう
「わかりました、妻の状態がわかり次第また連絡ください」
あきらめて電話を切った
最悪なことが起こった。左足の骨折ということは、もう立ち上がることも出来なくなるのではないか・・・
そうなったら家で介護するのも大変になる。私は頭を抱え、しばらく動けなかった
次の日病院から連絡があり、誤嚥性肺炎の為入院は2週間の予定だったが、骨折の部位が治るまで、1ヶ月に伸びそうだと連絡があった
足が治らないで家に帰ってもらっても困るので、入院の延長は承諾したが、嫌な思いが私を包んだ
義兄から聞いた、骨折をして1ヶ月したら、義姉の認知症が進み、別人のようになってしまったという話を思い出した
妻は本当に義姉と仲がいい。病気も同じ、その上骨折・・・
ただ義姉がなったような認知症にだけにはなってほしくない
面会も出来ない状態では、私には祈ることしか出来なかった
7
退院の日となった。私は不安で押し潰されそうになりながら、妻を迎えに行った
病棟から出てきた妻は、少し顔が細くなっていた。誤嚥性肺炎で食事をほとんど食べず、治るまで点滴をしていたためだろうか。表情もなく何も話さなかった。
「家に帰ろう」
そう声をかけたが、まるで聞こえないかのように何の反応もなかった
長い入院だったから、認知症が進んでしまったのか。それが心配の1つでもあった
「奥さまを転倒、骨折させてしまい申し訳ありませんでした。もう骨折部位はくっついていますし、痛みの訴えもありません。誤嚥性肺炎も治り、食事も食べています」
「そうですか、ありがとうございました」
病棟看護師は誤嚥性肺炎も骨折も治ったと説明されたが、私にはなにか妻にとって大切なものが失われてしまったような、そんな気がした
介護タクシーで家に帰った。そして妻をベッドに移そうとした
「柵につかまって立とう」
そう妻に言ったが全く反応がない
仕方なく妻の身体を抱き抱えるようにして、ベッドに移した。1ヶ月前より妻の身体はかなり軽く感じた
ゆっくりとベッドに座らせると、妻は不思議そうな顔をして私を見ていた
「私の顔に何かついているか?」
そう言うと妻はもっと不思議そうな顔になり
「ごめんなさい、あなた誰ですか?」
真面目な顔で私に言った
「なに言ってるんだ、君の夫じゃないか」
私は驚きを感じながら返すと
「そうだったかしら・・・」
本当に困惑した顔で答えた
「それで、ここはどこかしら・・・」
「何十年と暮らした我が家じゃないか、わからないのか?」
「えっそうなの」
始めは私をからかっているのかと思った。しかし表情をみるとからかっているわけではないことがわかった。本当にこの家の事も忘れているし、そして私の事も覚えていない
1ヶ月の入院で、こんなに認知症が進んでしまったのか
妻はどうしたらいいのかわからない、そんな表情を浮かべてた
「とにかく、オムツ交換をして、休んだ方がいい」
動揺を隠すように妻をベッドに寝かせ、オムツ交換を始めた。拒否するのかと思ったが、そんな様子もない
オムツ交換を終えると、私は部屋を出た
あまりの事に私は強い精神的ダメージを受けた
結婚して50年以上経つ。毎日のように顔を合わせていたのに、私を忘れてしまうなんて
病院からか帰ったばかりで混乱しているのかもしれない。明日になれば、しばらくすれば心も落ち着いてきて、いろいろなことを思い出してくれるだろう
そう祈ることしか出来なかった
しかし、介護の本当の地獄はこれから始まることを、私はまだ知るよしもなかった
その日は妻の記憶が戻ることはなかった。夕御飯の時、寝る前のオムツ交換の時
「すいません、ここはどこなんでしょうか」
「ここは君の家なんだよ。だからゆっくりしていいんだ」
私が答えても、同じことを何度も聞いてくる
そして、最後まで私を夫として理解してくれることはなかった
電気を消し、寝ようと思ってもあまりのショックで寝付くことが出来ない
本当に妻は私の事を思い出してくれるのだろうか。もし忘れた状態が続くとしたらどうしたらいいのか。あまりにも辛い現実だ
そう考えると、1時間、2時間が経過しても、私は不安で眠ることが出来なかった
「ああ、助けて!!」
突然の妻の大声で飛び起きた。どうしたと声をかけると
「向こうに誰かいる、こっちをみてる。怖い何とかして」
何事かと思い、妻の言う方向をみたが、暗闇があるだけで誰もいない。一応電気もつけてみたが、そこには白い壁があるだけだ
「誰もいない、大丈夫だよ」
そう声をかけると、妻は少し安心した顔をした。その表情をみて、電気を消して布団にもぐった
「ああ、助けて!!」
ようやく眠りにつくことが出来るかと思った瞬間、また妻が大声を出した
「今度はどうした?」
「そこに男の人がいて、私を見てる」
また電気をつけた。予想通り誰もいない
「誰もいないよ、私が隣で寝ているから、安心して寝ていいよ」
安心させるため伝えると、妻はまた少し安心したような顔をした。電気を消して、また布団に戻る。しかし1時間後眠りにつきそうになった瞬間
「ああ、怖い、助けて!!」
妻の大声が部屋の中をこだました
「いい加減にしてくれ!!」
反射的に大声で怒鳴った。立ち上がり電気を付けると
「誰もいないよ!!今何時だと思っているんだ。夜中の3時だぞ!!!そんな時間に誰が家に入ってくると言うんだ!!!」
大声で妻を怒鳴り付けた。とっさに大きな声を出してしまった。大声を出した自分対しても驚いていた。息が荒く、肩で呼吸をしている
妻の姿を見ると、心底驚き震えていた
その姿を見た時、妻を怒鳴り付けてしまったことを心底後悔した。
結婚して50年、私は妻に対し声を荒げた事は1度もなかった。結婚生活中あまり会話をしたかっ事もあるが、私は比較温厚な性格で、妻以外の人間にも声を荒げる事なく生きてきたのだ
「もう寝るぞ」
そう言って電気を消し、布団にもぐり込んだ
布団の中で、私は自分を責めた。なぜ大声で怒ってしまったのか。妻に対して怒ることは絶対しないと決めていたのに・・・
妻はその後大声を出す事なく眠りについたようだが、私は一睡もすることが出来ず、自分を攻め続けた
目覚めは最悪だった。昨日妻を怒鳴ったことに対する自己嫌悪、一睡も出来なかった身体的、精神的負担。歩くのもふらふらする
ゆっくりと妻が横たわるベッドに近づき、妻を起こした
「昨日は怒鳴ってしまって悪かった。本当にごめん」
私は妻に謝った。しかしそれを聞いた妻は
「何の事かしら」
不思議そうな顔をして答えた。全く覚えていないらしい
その言葉を聞いた時、安堵とそれ以上の悲しみの感情が同時に襲ってきた
妻は本当に認知症になってしまった
いつも辛い顔を見せず、家族を支えてくれていた。いつも家族を心配し、気丈に振る舞っていた妻が、私の事を忘れ、そして数時間前の事も忘れるようになってしまった
元気だった頃の妻の姿が走馬灯のように蘇ってきた
涙が出てきた。以前のように妻と何気ない会話をしたり、テレビをみて一緒に笑い合う、出会って50年普通だと思っていた事が、2度と出来ないと悟ったからだった・・・
そう思うと、涙は次から次へと流れ出た
妻が倒れた時、そして2ヶ月ぶりに病院で変わり果てた姿を見た時よりショックだった
あの時は生きていてくれただけで嬉しかったから・・・
その日の午後3時
「ピンポーン」
突然玄関のチャイムがなった。誰だろうと思って出てみると
「ケアマネの石井です」
石井の声がした。そうだ、退院した妻の様子を見るために、家に来ることを約束していたのだった。すっかり忘れていた。
「玄関の鍵空いてるからどうぞ」
「じゃあ失礼いたします」
石井は玄関の鍵を空けて入り、家のなかに入ってきた
「奥さまは?」
「部屋で寝ているよ」
「じゃあ、まずご挨拶させてもらってよろしいですか」
私が許可をすると、石井は妻の寝ている部屋に入っていった
「奥様、ケアマネの石井です。入院長くなって大変でしたね。退院出来てよかったです」
石井が話しかけても、妻はなにも返事をせず、不思議な様子で石井の姿を見続けている
「あれ?おかしいな。どうされたんでしょう」
石井が狼狽した姿をみて、私は後ろから
「長い入院だったからかも知れないが、認知症が進んでね。どうやら私の事もわからなくなってしまったようなんだ」
私の話を聞いて、石井の細い目が思い切り大きくなった。かなり驚いたらしい
私は石井を居間に案内し、コーヒーを淹れた。
「昨日退院してから、私の事を誰かわからないと言うようになった」
「本当ですか?」
「そして昨日の夜は部屋に誰かいるって大声を出すから、全く眠れなかったよ」
「お身体の調子は大丈夫ですか?介護しているご主人が体調不良になったら本当に困ります」
「心配してくれてありがとう、今のところ大丈夫だ」
「この状態が続くようなら、施設入所も検討のうちに入れた方がいいですよ」
全くこの男は・・・妻が老人ホームに入りたくないと言った事を忘れているらしい
しかし昨日のような事がこのまま先ずっと続いたら、私の体調もおかしくなる可能性もある
「老人ホームって費用は月にどれ位かかるんだ?」
妻を入れるつもりはないが、金額だけでも聞いてみた
「そうですね、大体月20万あれば入れると思います」
「そんなにかかるのか!」
「費用が安く済む特別養護老人ホームは、100人待ちは当たり前ですから、すぐに入ろうと思っても、入ることは出来ません。ただ、この位の料金の老人ホームは空いてるところもあるので、すぐに入ることはできます」
月20万円。貯金を切り崩せばなんとかなるが、その貯金もいつまでもつか。1、2年ならなんとかなりそうだが、もし5年、10年となったらさすがに負担できない
「しばらくは家で看るよ」
「体調が悪くなったらすぐ連絡下さい」
そう言い残し、石井は帰っていった
その日の夜も、妻の状態は変わることはなかった
「助けて、誰かいる!!」
2、3時間ごとに大声を上げる。言うことは、そこに誰かいる、それが一番多かった
「大声を出すのはいいが、助けてって言うの止めてくれないか。近所の人が聞いたら、まるで僕が君に暴力を振るっているように聞こえるじゃないか」
妻に言ってみたものの、私の言葉は妻の脳には届かないらしく、その後も助けてと大声を上げ続けた
壁に耳あり障子に目あり。もし妻の大声が近所の人の耳に入ったとしたら、噂が広まるのは一瞬。近所の人が白い目で私を見るかもしれない
必死に介護しているだけなのに・・・
この日も妻の対応、これからの不安で全く寝ることも出来なかった
仕方なく、昼に仮眠を取ることにした。しかし、今日は昼間でも妻の大声は続いた。気になって仮眠を取ることもできない
これでは私がおかしくなってしまう。本当にそう感じた
介護というのは本当に過酷なものだと、当事者になって初めてわかる。それは今を乗りきれば、一生懸命尽くせば良い事が待っている、というわけではない事だ
1年後、妻が元気になり、普通の生活に戻れる。そういう希望が少しでもあれば頑張れる
しかし、介護には希望はない。どれだけ頑張っても、どれだけ尽くしても今より良くなることはない。逆に月日の流れと共に状態は悪くなっていく
この事実が介護している側の神経をすり減らし、絶望へと進ませていく
そしてその夜、妻は退院して初めて大声で
「死にたい」
そう叫んだ。
それを聞いた時、昔妻が言っていたことを思い出した
「私がお姉さんの介護をしていた時間ってなんだったのかしら、もしかしたらお姉さんが苦しい思いで過ごす時間を伸ばす助けをしていたんじゃないかしら」
妻の言っていた言葉の意味が、今の私にはわかる。そしてその直後
「私がもし介護で迷惑をかけるようになったら、すぐ楽にしてくださいね」
その言葉も蘇ってきた
「そんなこと、出来るわけないじゃないか」
布団の中で独り言を言った。あの時と同じように
2週間が経過した。相変わらず妻は大声を出し、私は眠れぬ夜を過ごしていた
睡眠が満足に取れないというのは本当に辛い
この2週間よく身体がもったものだと自分でも不思議に思う。しかしそれも限界に近づいていた。
車の運転では、一瞬居眠り運転をしてしまい、危うく事故を起こしそうになった。買い物に行っても何を買ったらいいのかわからず、数分その場で呆然と立ち尽くすことが度々みられるようになった
そして妻は以前より、死にたいという事が多くなった。
この言葉は介護している側にとって本当にストレスとなって襲いかかってくる
もう私は頭が回らず、睡眠不足、ストレスからくる思考力が著しく低下し、もう何をやっているのか自分でもわからなくなってきてしまった
もってあと一週間が限界。それを越えたら自分が倒れる。なぜかそんな予感がし、それが的中する自信がなぜかあった
でも、私が倒れたら妻の面倒は誰が見るのか
遠くに住む子供達に頼むのか
しかし、退院で子供達が集まった時、妻は子供達に心配をかけたくないと部屋の隅で泣いていたことを思い出した。こんな姿を子供達に見せていいものなのか
もう八方塞がりだ
人間は一体どのようになるまで生き続けなければならないのか
認知症になり、すぐ前の記憶も失くし、訳のわからない事、そして死にたいとただ叫び続ける。身体も全く動かす事が出来ず、ベッドで寝たきり。排泄物は垂れ流し、ご飯も食べられない
そんな状態になっても、人間は本当に生きて行かなければならないのだろうか・・・
介護は介護される側の人の権利、尊厳を守ることがもっとも重要といわれている。
しかし、妻は退院カンファレンスの時、こんな姿を他の人に見られたくないと言った。だが症状は進み、その時より状態は悪くなっている
そんな姿を他の人に見られたり、知られたりするのは、妻の権利、そして尊厳を守っていると言えるのだろうか・・・
私はフラフラしながら妻の寝ているベッドの横に立った
すると妻は
「助けて、死にたい」
いつものように私に訴えた
「本当に死にたいのか」
問いかけると
「本当に死にたい」
真剣な表情で答えた
認知症の人が死にたいと言ったら、言われた人間はなぜそう思うのかを追求し、そう思わないように原因を排除し、サポートしなくてはならない。認知症の人とはいえ、心の底から死にたがっている人はいない
最近買った認知症の本に書いてあった。しかし妻がなぜ死にたいかという原因は、解決、排除できないものばかりだ
妻が元気になる可能性はゼロ。本人は認知症とはいえそれを十分わかった上で死にたいと言っているのだろう
もうこれ以上、妻の苦しむ様子を見たくない。本人の希望通りにさせてあげてもいいのではないのか
これから妻を待っている世界は、認知症の悪化、誤嚥性肺炎の再発、胃瘻の手術、ベッド上での完全な寝たきり生活
そんな生活を妻は望んでいない。気丈な妻だ。今の状態を他人に知られるのは屈辱だろう。そして私もそんな妻の苦しむ姿を見るのは本当に辛いし、これ以上耐えられない
そうなったら妻の希望通りにするしかない。
妻を楽にしてあげる。ただ、一人で死なせるのもかわいそうだ。私も一緒に死ぬ
「わかった。ただ不安になることはない。君一人を逝かせる事はしない。君が死んだらすぐ私も一緒に逝く。だから安心してほしい」
妻に優しく話すと、妻の表情は穏やかになった
今の私は睡眠不足、ストレス生活でもう正常に判断が下せる状態ではなかった。しかし妻の穏やかな表情を見て、今の判断は正しいのだと判断した
「あなた、もし私が介護で迷惑をかけるようになってしまったら、すぐに楽にしてくださいね」
そして、私の頭の中に何度も妻の言葉が駆け巡った
もう、妻と一緒に死ぬ以外方法はない。私はそう決意した
8
私は死に場所を探した。この家で心中をすることは出来たが、近所の方も迷惑だし、嫌な思いをするだろう
誰もいない森の中で、死んだ方がいい
私はそう思い、どこで死のうかスマホを見てそれらしき場所を探した
グーグルマップでいろいろな場所を見ていた時、ある地名が私の目に止まり、視線は動かなくなった
長野県、長野市・・・
そこは私達夫婦が50年以上前、新婚旅行に訪れた場所だった
私達の時代、新婚旅行といえば熱海や伊豆が定番だった。お金に余裕がある人間は、九州の別府温泉、宮崎に行く人も多かった
なぜ長野市を選択したかというと、その時ちょうど善光寺で7年に1度開かれる御開帳が行われていたからだった
7年に1度・・・。その響きが私を魅了し、妻に相談もせず、新婚旅行は長野市だと決めてしまった
それに当時の私は仕事がとにかく忙しく、休みを取るのは2泊3日が限界だった
妻の反対があるかと思ったが、意外にもなにも言わず長野市に新婚旅行に行ったのだった
もう50年以上昔の話。新婚旅行の思い出、長野市という場所がどのようなところだったかほとんど思い出すことはできない
ただ、かすかに覚えていることは、7年に1度の善光寺の御開帳といっても、寺の前に柱が立っていて、それが御本尊に繋がっているため、柱にさわると御本尊にさわったのと同じ効果があると説明を受け、その柱を少しさわる程度だったこと
長野市は山に囲まれた盆地の中にあり、土地も広くなく、少し窮屈に感じたこと。
その程度の思い出しかない
長野市なら、車で10分も走れば、誰もいない山の中に入り、妻も私も誰もいない所で死ぬことが出来るだろう
私はスマホを取り出すと、明日始発の北陸新幹線はくたかを私と妻の車椅子席1名、2名分を予約した
50年前買った切符は新婚旅行の切符だった
しかし、今買った切符は帰り道のない、死へと向かう片道切符だ
そう考えた途端、今まで霧がかかっていたように何も考えられなかった頭の中がなぜかすっきりと霧が晴れたように冴えて、冷静に物事を考えられるようになってきた
遺書を書こう。そう決意し、筆ペンと便箋を棚から取り出し机に広げた
「子供達へ。本当にすまない。私と母さんは死への旅に出ようと思う。この事で君達が自責の念に駆られる必要は全くない。私と母さんの共通の願いなのだ。わかってほしい。私と母さんは、君達の幸せな生活が続くことを心から祈っている」
最後に日付、自分の名前を書いて白い封筒の中に入れ、机の真ん中に置いた
はくたかの始発は午前6時1分。時計を見ると午後10時を回ったところだ。北陸新幹線が停まる最寄駅まで、車で20分
着替えなどの時間を考えると、この家にいるのもあと7時間と少し・・・
深く深呼吸をした。この家に帰るといつも妻が待っていてくれた。どれほど遅くなっても
こういう時、全く忘れていた思い出が次々と頭の中に蘇ってくる。
子供が生まれた喜び、成長、成人、結婚、孫の誕生
ほとんど子供達の記憶だ。私は家庭を顧みず仕事ばかりして、子供の事はほとんど妻に任せきりだったのに。不思議なものだ
子供達も立派に育ってくれた。しっかりと家庭も持っている
私も80近くまで生きた。悔いはない
朝の5時になった。妻を起こし、オムツを代える。そして暖かい服に着替えさせた
「さあ、出掛けるぞ」
妻に声をかけると、車椅子に移し玄関から外に出た。妻は不思議そうな顔をしたが、特に嫌がる様子はなかった
駅に着くともうすぐ始発のはくたかが出発する時間だった
もう戻ることはない。そう決意し、新幹線に乗り込んだ
9
長野駅に到着し、新幹線から降りた。
新幹線から降りると、肌寒い風が私達2人を包み込んだ。西日本では桜の便りが報道され、少しずつ暖かさを感じていたが、長野市は高地のためか、もう一枚服を羽織らないと寒さがこたえる場所だった
ホームからエレベーターに乗り、連絡通路を
横切り改札口から長野駅の外に出た
目の前には初めて見た世界が広がっていた。新婚旅行に訪れた場所であるのに、その時の面影は全くない
まあ、50年以上時間が経過しているのだから当たり前の話ではあるが・・・
駅前に交番があり、善光寺にはどういったらいいか聞いた
長野駅前は広い道がT時路になっており、中央通りと名の付いた北に向かう道をまっすぐ進めば、善光寺があるという
「時間はどれくらいかかりますか」
「15分あれば着きますよ」
「ありがとうございます」
長野市に着いたらすぐに死に場所を探そうと思っていたが、新婚旅行に訪れた善光寺をもう1度だけ見てみたかった
私は警察官に言われた通り、中央通りを車椅子の妻を押しながらゆっくりと進んだ。妻は景色を楽しむわけでもなく、一点を見つめながら全く話すことはなかった
家にいる時のように、大声で騒がないか心配したが、その心配は杞憂に終わった
ゆっくりと中央通りを進んでいく
しかし、ここで私はある誤算に気づいた。中央通りは進めば進むほど坂の勾配がきつくなってくる
私ももうすぐ80。車椅子を押しながら坂を上がるのがとにかく大変。10分も経たないうちに、もう息が上がり額からは汗が流れ始めた
何度か休み、水分補給をした。一体どのくらい歩いたのだろうか。しかし目的地の善光寺が全く見えてこない
警察官は私達の様子を見て、タクシーで行くのだろうと勘違いしたらしい
確かにこの坂を車椅子を押して行こうとしているなんて、誰も考えないだろう
道路の標識にはこの先善光寺と書いてあったため、そのまま進んだ。ただ標識にはあと何キロとは書いてなかったため、私を不安にさせた
参道入口という信号を渡り、仲見世通りにようやく着いたのは、長野駅を出発してから1時間が経過していた
そこからは長野市をある程度見渡せる高さだった。太ももはパンパンで、肩、腕は痛くてもう歩けそうにない
しかし、仲見世通りから善光寺に続く道も急勾配な坂が続いていた
大きな門が遠くに見えたため、そこをくぐれば善光寺があると最後の力を振り絞り、その門をくぐったが、その門は仁王門という名前の門で、500メートル先にある山門をくぐらないと善光寺にたどり着けないと知ったとき、私は軽いめまいを覚えた
しかしそこからはそれほど坂はなく、平坦な道が続いていた。山門をくぐると、そこには大きく、立派なお寺があった。
ようやく着いた。私が休憩をしようとどこか座れるところはないかと探していたその時
「ぜんこうじ・・・」
私のすぐ前から声が聞こえた。その声は間違いなく妻の声だった
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「ぜんこうじ・・・」
私は耳を疑った。そう確かに聞こえたのだ。すぐに妻の前に座り
「ここがどこかわかるのか?」
興奮気味に聞くと
「貴方と新婚旅行に行った場所じゃない」
妻は少し笑顔を見せながら答えた
「私、新婚旅行はどこに行くのか楽しみにしていたの。当時宮崎に旅行に行くのが流行っていたから、実は宮崎に行くんじゃないかって期待してたの」
「でも貴方から長野市に行くって言われたときはがっかりしたわ。私、長野市なんて何の興味もなかったもの」
妻があまりに突然饒舌に話す姿を見て、私は驚きのあまり身体が固まって動かなくなった
俺は、頭がおかしくなったのか?自分自身を疑うほど、目の前で起こっていることが信じられなかった。幻覚でも見ているのか・・・
「50年前と変わっていないわね」
妻がそう言った時
「思い出したのか・・・信じられない。奇跡だ、奇跡が起こった!!」
私は他に参拝者もいるのに大声で叫んだ。数分前まで表情もなく、ただ車椅子に座っているだけだったのに
「ちょっと貴方、大声出さないで下さい。周りの人が見てるじゃないですか」
妻の言葉に我に返った。確かに善光寺に参拝に来ている人ほとんどが、何事かと私達を見ている
その視線を感じ、私は黙った。ただそんなことはどうでもよく、今起きている現実が夢でも幻でもないことを神に祈った
「おい、私の事がわかるのか?」
「何言ってるの、私の夫でしょ」
その言葉を聞いた途端、涙が頬を伝った。その涙はここ最近ずっと流していた悲しみ、苦しみの涙ではなく、喜び、感動の涙だった
私は座るところを見つけ妻に今までの出来事を話した。妻はそれを聞いて
「ごめんなさいあなた、迷惑かけたわね」
そう言うと泣き出してしまった。誤嚥性肺炎で入院したところまでは記憶がある。でもそれから、今までの記憶は全くないという
「君の状態がもとに戻ったからいいよ。責任を感じることはない。本当に辛かったけど、今の君の様子をみて、私がやってきたことは間違いではなかった」
しばらくその余韻に浸っていた
「せっかく来たのだから、善光寺に参拝しよう」
「そうね」
私は妻の車椅子を押し、本堂に入れるスロープに向かった。しかしそのスロープが結構急で、進むのが大変だと思っていた時
「手伝いますか?」
急に後ろから声をかけられ振り向くと、若い男性が立っていた。
「すいません、お願いします」
そうお願いすると、背の高い男性が妻の車椅子を押し、入口まで連れていってくれた
「どうもありがとう」
「いえ、大したことではないですから」
そう言い残すとすぐに人混みの中に消えていってしまった
本当に助かった。私は長野駅からここまで妻を押してきたので、足が疲れて1人ではこのスロープを登りきるのは正直難しかった
頼まれてもいないのに進んで手伝ってくれる。最近の若者は親切な人が多い
善光寺の本堂の中は奥行きが長く、天井が高い。普通のお寺と比べると広く感じ、重厚な雰囲気に少し圧倒されるものがあった
天井、壁には金の如来像。幾何学模様の絵があり、他のお寺にはない荘厳な空間だった
奥に御本尊の阿弥陀如来像があるそうだが、それは見えない。いや詳しく聞いてみると、御本尊の阿弥陀如来像は、住職でもみれない場所にあるそうだ。つまり誰も見る事が出来ないところにある。秘仏というらしい
御本尊の分身(つまり別の物)阿弥陀如来像が7年に1度の御開帳で公開される。本物は秘仏で永遠に見ることは出来ないのだ
50年前の御開帳の時、その阿弥陀如来像を私達は見たのだろうか?私にはそんな記憶は一切ない
中央部に賽銭箱があり、その前に進む。その賽銭箱に1万円札を入れたいほどの気分だったが、けちな性格が顔をだし、千円札を投げ入れた後、2人で手を合わせた
その後スロープから本堂を出て、周りの建物を見物していると
「ねえあなた、戸隠神社に行きましょうよ」
突然妻が笑顔で私に向かっていった
「どうしてそんな所に行きたいんだい」
「だって、新婚旅行の時善光寺の後、戸隠神社に神社に行ったじゃない」
「・・・そうだっけ?」
「なにあなた忘れているの?」
そう言って妻は笑った。
何しろ50年以上も前の出来事だ。はっきりいってほとんど覚えていない
善光寺だって、御開帳の時本堂の前に柱が立っていて、それを触ったことくらいしか覚えていないのだから
調べると戸隠神社はここから結構距離があるため、レンタカーを借りていく事にした。レンタカー会社に着き、車を借りようとしたが、私が80手前だとわかると担当者は露骨に嫌な顔をした
「いや、旅行でね。この辺りを見て回りたいんだ。遠くには行かないよ。ただ妻がここの出身なんけど、このように車椅子が必要な身体で・・・。この周囲の景色を見せてあげたくてねえ」
妻は長野市の出身ではない。そしてなんのゆかりもない。嘘と車椅子の妻の話を出した途端、担当者は仕方ないという顔をして
「あまり遠くには行かないで下さいね。運転には十分注意してください」
そう言って鍵を私に渡した
妻を助手席に座らせ、車椅子をたたんで後部座席に置いた
レンタカー会社の担当者にはこの辺を回るだけだと言ったが、目的地までは山道が続いている。山道の運転は久しぶりだ。気をつけて行かないと。そう思い、アクセルを踏んだ
私の予想通り、長野市は10分ほど車を走らせるとすぐに山の中に入っていった。
しかし完全に予定していた目的と違う。
ついさっきまで山道に入る目的は、2人で死に場所を探すことだった
しかし今は違う。今の目的は新婚旅行の時に行った戸隠神社に向かうことだ
隣に座る妻を見ると、左を向いて景色を見ている。
「景色がきれいになってきたな」
「そうね、こんな景色を見るの久しぶり」
私が話し掛けると、妻は普通に返してくる。このやり取りが出来るようになったことが心から嬉しい
道は進めば進むほど急カーブが多くなってくる。右側に全く力が入らない妻は、シートベルトをしているが、左の急カーブの時遠心力に耐えられず、私の方に寄りかかってくる
その時、ハンドル操作がうまく行かず、中央部に車がはみ出そうになる
せっかく死ぬことをやめたのに、交通事故で死んでしまっては笑い話にもならない
スピードは出来るだけ出さず、ゆっくりと目的地を目指した
戸隠神社奥社入口に着いたのは、午前10時を回ったところだった。車椅子を下ろし、妻を乗せ奥社はこちらと書かれた看板通りに進んだ
どうやら舗装されていない道が森の奥まで続いており、その先に戸隠神社奥社はあるようだ
「こんなところ来たことあったか?」
「あるわよ。ここをずっと歩いているとね、戸隠奥社という神社があるの。あなたもすぐ思い出すわよ」
舗装されていない道を進むため、車椅子が重く感じる。レンタルしている車椅子だが、車輪は土でドロドロ
でも周りに道路がなく、全く車の音も聞こえないような森の中を歩いていると、空気が澄んでいて美味しく感じる。普段の生活では全く感じない感覚だ
途中から道の両側に立派な杉の木が並んで立っている場所に入った。その杉の木の姿は本当に壮観で、上を見てもどこが木のてっぺんかわからないくらい高い。まるで杉の壁の間を進んでいような錯覚に陥る
「すごい杉だな。樹齢何年なんだろう」
「400年って書いてあったわよ。看板に」
「すごい迫力だな」
私はただ感動しながらその道を進んだ
しばらく進むと、茅葺き屋根の赤い門が目の前に現れた。その門をくぐった時、広がる光景に私は息を飲んだ
今まで通ったところの杉も凄かったが、ここから見る左右の杉は、間隔が整っており、先程よりいっそう美しく見えた
「ここまでにしましょう」
妻が突然そう言ったため驚いた
「どうしたんだ?まだ戸隠神社奥社に着いてないぞ」
「ここからはずっと登りよ。最後は階段を上がって行かなきゃ着かないの。車椅子では無理なのよ」
「よくそんなこと覚えているな。俺は全く覚えていない。初めて来るような感覚だよ」
「私は何であなたがわからないか不思議よ。もしかして、認知症なんじゃないの?」
その言葉に私は大声で笑ってしまった。本当に記憶がないのだから、妻の言うように認知症なのかもしれない
近くにベンチがあったため、そこで休憩を取った。そして、大きな杉の隣でいろいろなことを話した
「ねえ、あなた覚えてる?娘が保育園の時、描いた家族の絵」
「覚えてるよ。君や兄2人の絵は描いてあったが、私の姿はどこにもなかった」
「あなたは仕事人間で、あの頃ほとんど仕事で家にいなかったから」
「でもショックだったよ。子供達のためと思って仕事しているのに、いないと思われているんだと感じて」
「じゃあ、私達が初めて合った時の事、覚えてる?これ覚えてたら認知症じゃないわ」
「さっきまで私の事も忘れている人に、認知症の診断テストをされるとはね」
あきれた顔をして私は続けた
「全く覚えてない・・・というのはうそ。確か私が仕事会議で、君の会社にお邪魔した時、君がお茶を出してくれたのが最初」
「正解、まだ認知症にはなってないみたい。あの頃の女子社員といったら、お茶くみが主な仕事だった」
それ以外にもいろいろと話をした。まるで失った時間を取り戻すように
本当に奇跡が起こらなかったら、今頃私達は何をしていたのだろう。
誰も来ない森の中をさまよっていたのかもしれない。最悪、用意してきたロープで妻の首を絞め、自分は木にロープを巻き付け、自ら命を絶っていたのかもしれない
さっきまで、絶望の縁にいた私は、まだ夢の中にいるような気持ちだ
「もういいわ、お腹空いた。せっかく信州まで来たんだから、お蕎麦が食べたい」
腕時計を見ると、もう午後12時を回っている
「そうだな、せっかく来たから、蕎麦でも食べるか」
私達は来た道をゆっくり戻り始めた
戸隠神社中社の近くに人気のある蕎麦屋があると聞き、その店に行った。平日なのに行列が出来ていた
妻の体力かが持つか心配なので、違う空いている店にするか聞いてみると
「遠くから来たんだから、ここで食べたい」
そう言って拒否した
待つこと30分、ようやくお店の席に着くことが出来た
天ざる2つを頼み、それが運ばれてきた瞬間、私はしまったと思った
妻はミキサー食、しかもトロミ剤を入れてとろみをつけないと食べることが出来ない
「ごめん、トロミ剤を忘れてきてしまった」
「いいのよ、このままで食べるから」
妻は笑顔でそう言うと、左手で蕎麦を持ち上げ、つゆに入れた後勢いよく蕎麦をすすった
「ゲホッ、ゲホッ」
私の心配通り、勢いよくむせ込んだ
「大丈夫か?」
慌ててティッシュを渡すと、妻は口を抑えながらむせが治まるのを待った。
その姿を見て、私は少し落胆した。妻が記憶を取り戻す奇跡が起こったため、もしかしたらご飯も食べられるようになっているかもしれない。心の中で少し期待していた
しかし、ご飯を食べられる奇跡までは起こっていなかった
つまり身体機能は以前のままだった
しかし、妻はむせが治まると笑顔になった
「お蕎麦美味しい。久しぶりだからいつもの調子で食べちやった。それにみんなと同じ物が食べられるって幸せ」
確かに脳梗塞で倒れてから、妻はミキサーにかけた食事に、トロミ剤を入れてどろどろににしたようなものしか食べていなかった
むせ込んでしまったが、形のあるものを食べたことが嬉しかったらしい
確かにここの蕎麦屋の蕎麦は、行列が出来るだけあって本当に美味しかった
妻もその後はゆっくり食べていたため、むせることなく食べ終わることが出来た
「ああ、美味しかった」
「そうだな。じゃあそろそろ帰ろうか。君は今日5時起きだから疲れただろう。帰ってゆっくり休もう」
「そうね」
食事の料金を払った後、私達は車で長野駅を目指し、出発した。
長野駅で帰りの新幹線の切符を買った。もちろん我が家のある最寄駅
昨晩切符を買ったときは、死への片道切符、もう戻ることはないと覚悟して買った切符だった
しかし帰りの切符を買うことになるとは。その切符を手にした時、心の底から安堵感が広がり、重い、重い肩の荷が降りた気がした
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「奥さまどうされたんですか!!先日会った時とはまるで別人です!!」
数日後、ケアマネの石井を家に呼んだ。妻がどうしても話があると言ったからだ
家に入り、妻と会った石井は前回会った以上に眼を大きく見開いて驚いた
眼を丸くするとはこの事だ。普段は開いているかわからないほど細い眼をしているのに
その姿を見て私は苦笑した
実は家に帰ってから数日、妻とこれからについて何度も話し合った。記憶は戻り、話も普通に出来ようになったが、身体機能の回復はやはり見られなかった
特に食事は以前より酷くむせるようになり、誤嚥性肺炎が再発するのはもはや時間の問題と考えられた
「実は私、ご飯が以前よりうまく食べられないの。どうやっても気管に行ってしまい、すごくむせてしまうの」
「トロミ剤をしっかり入れてもですか?」
「そう、最近はゼリーでもむせてしまう。食べる事が本当に苦しいの」
「・・・」
妻の話に石井は黙り込んだ。それは仕方ない、石井は医者ではない。ただのケアマネだ。そんなこと相談されても答えが出るわけがない
「私、もう入院したくないの。入院して前みたいに自分の事がわからなくなるのは本当に嫌だし怖い」
「奥さまのお気持ちは充分すぎるほどわかります。ただ、どうすればいいのでしょう」
「次に誤嚥性肺炎になったら、治療はしてほしくない。この家でそのまま死にたいの」
「えっ?」
石井は妻の話を聞いて、また大きく眼を見開いた。そして、その表情のまま私を見た
その視線に私は小さく頷いた
「実はね、子供達も交えて何度も話し合ったんだ。もちろん私も子供達も妻の話には猛反対した。でも妻の意思は変わることはなかった」
「それで、ご家族全員同意されたんですか?」
「それはもちろん、妻には生きていてもらいたい。それが家族全員の思いだ。でも誤嚥性肺炎にかかってまた入院というのはかわいそうだと家族全員答えが一致してね」
「それで?」
「また誤嚥性肺炎になったらの話だが、妻の思いを尊重させようということになった」
私の話を聞いた石井は、深く考え込んだ
「お話の内容はよくわかりました。ただそれを実現に移すためには、いくつかの条件をクリアしなければなりません」
「条件とは?」
「まず、往診してくれる医者を探さなくてはなりません」
「この家に医者に来てもらうということか」
「そうです。ただ、往診してくれる医者って本当に少ないんですよ」
「こんなに病院があるのに?」
「令和の世の中、お医者様は神様ですから。患者さんが赴いて診てもらう事が当たり前、わざわざ患者さんの家に行くなんて発想の医者はほとんどいません」
「そうなのか・・・」
「高齢化社会の中、寝たきりの状態で家で生活している方でも、なぜ私が行かなくてはならないんだ。行くわけがない、車椅子に乗せて病院まで来いなんていう、神様の上、天狗の医者もまだ多いですからね」
「それなら別に医者に診てもらわなくても、そのまま家で最後を迎えるっていう方法しかないのか・・・」
「それも問題があります。もし、医師の診察もなく自宅で亡くなったとしたら、今度は警察が介入することになってしまいます」
「警察がどうして?」
「不審死だと判断されるのです。つまり言葉が悪いのですが、殺害されたのではないのかと調べに来るんです。亡くなった方が例え100歳を越えていても」
「本当かね」
「それは気分が悪いと思いますよ。昨日の様子はどうだった、変わった様子は無かったのか等々。身内が亡くなったのに根掘り葉掘り聞かれるわけですから」
その場にいる全員が黙り込んだ。自宅で最後を迎える。昔は当たり前だったことが、今こんなに難しいことだとは・・・
妻は今日もほとんどご飯を食べることが出来ていない。高カロリーゼリーもむせてしまいほとんど食べられなかった。前の経験からすると、妻が誤嚥性肺炎になってしまうのは時間の問題
「これは人の命に関わる重要な問題です。例えば誤嚥性肺炎になっても入院治療して肺炎は治すことが出来ます。つまりまだ生きていける可能性は十分ある。しかし、これ以上の回復が難しいし、辛い治療も受けたくない。入院してしまったら今以上に状態が悪くなってしまう。これが奥さまの考え方ですよね」
「そうよ」
「しかし、回復は難しいが、まだ生きていける可能性がある。ここが本当に難しい問題なのです。例えその後、寝たきりの状態になってしまっても、認知症が酷くなっても、人工呼吸器をつけなくては生きていけない状態になっても。そして例え2度と目を覚まさなくても・・・。どんな姿でも生きていける可能性数パーセントでもある限り、治療を続けていく。それが今の日本の医療なのです」
「私達みたいに80歳位の高齢者でもか?」
「年齢なんて関係ありません。100歳を越えた方でも数パーセントの生きる可能性があれば、治療は続けられます。今の日本には100歳の方が5万人を越えると言われますが、その中で元気な方は何パーセントなんでしょう。想像している以上の方が、寝たきりで病院や老人ホームのベッドで過ごしている、それが現状だと思います」
「私には妻がこれ以上苦しんでいる姿を見たくないんだよ・・・」
「ご主人の気持ちは充分理解できます。しかし、その人のその後の生活は重点を置かず、絶対病院では死なせない。そして退院させる。それが今の医療なのです。だから介護難民や最悪、介護殺人なんて問題が起きているんです。今の医療の考え方。それが一番高いハードルだと思います」
「私の介護でこれ以上迷惑をかけたくないの。これからもっと身体が悪くなって、前みたいになるのは確実。そんな状態で生きていきたくないのよ」
妻は下を向きながら言った
石井の話を聞いて少し前、義兄と話したことを思い出した。
今の日本の医療は、100歳でも、どんな状態でも生かそう。そんな医療が進みすぎてる。
石井の話を聞いて本当にそう思った
石井の話は正論だが、正論だからこそ間違っていることもある。それは若い人間ならまだしも、人間80を越えたら元気になんてならない事だ。筋力も衰え、病気は治ることはない。例えば肺炎を治療して治しても、筋力が衰え寝たきりになる。ベッドで治療を長く受ければ認知症になる。どこかを治せばどこかが悪くなる。それが老いるということではないのか
その状態でも
「病気は治りましたから退院してください。」
病院からは言われてしまう
それでは介護難民、最悪将来を悲観しての介護殺人が増えても仕方がない。実際私達も心中寸前まで追い込まれた
善光寺で奇跡が起こらなかったら、今は森の中で死んでいた可能性の方が高い
「私怖くてしかたがないの。死ぬことももちろん怖いけど、お姉さんみたいに何年もずっとベッドの上で生きていかなくちゃいけないことが・・・」
妻はそう言った途端、泣き出してしまった
その姿を見て、石井は心底困った顔をした
「奥さまの気持ちはわかりました。その気持ちに添えるよう、往診してくれる医者を探す努力をします」
そう言って立ち上がった
「本当に見つけてくれるのかね」
私が期待を込めて言うと
「努力をすると言っただけです。往診してくれる医者が見つかるかはわかりません」
石井は政治家が言いそうなうまい言葉でかわし、この家を出ていった
そう言って、家を後にした石井ではあったが、実は微かではあるが往診してくれる医者を見つけられる希望があった
往診を専門にしている医者がいるのだ。石井は何度か担当している方が寝たきりになってしまったため、往診をお願いした経験があった
その医者はもう80歳を越えているおじいちゃんで、長年診療所を経営していたが、診療所は子供に任せ、今は往診のみ行っている
お願いした私の担当者はみな口を揃えて、私がお願いしたことをすぐに忘れる。言っている事がよくわからないなど、すこぶる評判が悪かったが、今の高齢化社会、往診してくれる医者が必要なのだろう
そんな状態でも患者さんが多く、毎日飛び回っている状態だ
まあ、重病で、いつ状態が変わるかわからない。そんな人以外は、同じ薬を処方してくれれば、医者なんて誰でもいい
そんな感じなのだろう
事務所に帰ると、すぐにその医者のところに電話をいれた
「もしもし」
受話器から高齢の男性の声がした。本人が出たのだ
石井は緊張しながら頭の中を整理し、分かりやすく現状を伝え、往診してくださいとお願いした
すると受話器から
「今診てもらっている主治医の先生から紹介状をもらえればいいよ」
すぐ答えが帰ってきた
「ありがとうございます」
礼を言って、電話を切った。思っていたよりずっと簡単に決まったな
石井はそう思った後、先日まで入院していた病院に連絡をした
「ケアマネージャーの石井と申しますが、先日まで入院していた○様の件でお話があるのですが。今寝たきりの状態になってしまいまして、病院に通うのが難しい状態です。そのため御家族が往診を希望しております。往診の先生をお願いしたところ受けて頂きまして、その先生から紹介状がほしいと言われまして、お願いしたいのですが・・・」
「わかりました。診療所と先生の名前を教えて下さい」
「○診療所の○先生です」
「わかりました。明日には出来ていると思いますので、御家族に取りに来るようにお伝え下さい」
「お忙しいところ申し訳ございません、ありがとうございました」
そう言うと電話を切った。あっさり決まってしまった。拍子抜けするほど・・・
石井は30分ほど経過してから連絡を入れた
「ご主人、いろいろなところの診療所に連絡を入れたところ、往診を受けてくれる先生が見つかりました」
本当は連絡した所は1ヵ所。すぐに決まったのに、さも苦労して見つけたかのように恩着せがましく伝えた
「本当か、ありがとう。大変な仕事をやってもらって」
そんな石井のずる賢さも知らずに、私は何度もお礼を言った。
12
私が予想した通り、妻の状態は日を追うごとに悪くなっていった。ご飯を食べてもむせてしまい残してしまう
ご飯を食べなければ弱っていく。当たり前の話だ
私はトロミ剤を調節したり、栄養価の高い物を食べさせたり、逆に固形の物を食べさせてみたりといろいろと工夫してみたが、全てが徒労に終わった
そのうち妻は痰が絡むような咳を始めた。以前誤嚥性肺炎を患った時と同じ症状だ
前回はすぐに病院を受診し入院となった。しかし今回は違う。往診の医師も決まっており、その医師が訪問看護を利用するように指示してくれた
看護師は週に2度うちに訪問して妻の様子を診てくれる。そしてその状況を医師に伝えてくれるのだ
初めて訪問してきた医師の姿を見て驚いた。どこかのおじいちゃんが、間違えて家に入ってきてしまったのではないか
そんなふうに感じるほど、歳を取った人だった。同行していた看護師が妻に向かい
「初めまして、この方がこれから診てくれる先生です」
そう紹介したため、この人が医師なのかと納得した
その医師はすぐに薬の処方箋を書き、訪問看護を入れるように指示した。あとは血圧、脈拍、胸の音を聞いてから
「まあ、大丈夫だね」
そう言った後、次の患者のところに行ってしまった
私はなにが大丈夫なのか全くわからなかったが、同行していた看護師も特になにもなく行ってしまったので、体調は大丈夫なのだろうと勝手に判断するしかなかった
少し不満もあったが、病院へ連れていく事、診察までの長い待ち時間がない事の方が、私にとって負担が少なくなった気がした
今日は訪問看護が来る日だった。痰が絡むような咳を先程からするため、心配となり体温計で熱を測った
37,3℃
体温計に映し出された数字を見て、私は嫌な予感がした
数時間後、家に訪問看護師が訪れた
「今日は微熱があってね。変な咳もしているから、心配なんだよ」
「そうですか、奥さまの様子を診させていただきます」
そう言って妻のところに向かい、聴診器を
耳に当て妻の胸の音を聞いた。それから熱を測り、指先に小さな機械を挟んだ
看護師は曇った表情をした
「誤嚥性肺炎に罹っている可能性があります。病院で検査をした方がいいと思います」
ついに来る時が来たか・・・。覚悟はしていたがその話を聞いて悲痛な思いが私を襲った
「妻の希望でね、誤嚥性肺炎になったら治療せずに家で看取る事にしているんだ」
「そうなんですか・・・」
「ご飯が食べられず、ずっとベッドの上で生活はしたくないって言ってね。とりあえず先生にも伝えて、了承をえているから、妻の状態を先生に伝えてほしい」
「わかりました」
そう言って看護師は帰っていった
それからしばらくして、医師が妻の様子を診に来た。そして妻の様子を診た後
「奥さんは長く生きられないでしょう。もって1週間だと思います。会わせたい人がいたら、会わせてあげてください」
「わかりました」
医師は私に一礼し、家を出ていった
私は暗い部屋の中、独りソファーに座り、
なにも考えられず時間を過ごした
ついにこの日が来た。
このまま病院へ連れていって、妻の病気を治してもらおうか
そんな考えが何度も頭をよぎる。でもこれは妻が強く望んでいることなんだ
そう思い、ゆっくり立ち上がり、子供達に連絡を入れた
次の日あたりから、妻は明らかに苦しそうに息をするようになった
「苦しくないか」
私が聞いてみると
「少し苦しいくらいよ。大丈夫」
相当苦しいと思うが、気丈に笑顔を見せながら答えた
子供達が到着し、母の姿を見て、何度も
「大丈夫?苦しくない?」
心配そうに声をかけたが、
「大丈夫よ、心配しないで」
子供達のイメージ通りの気丈な母親を演じ続けた
その夜、子供達が寝静まった様子を見て、私は妻の隣の布団で横になった。真っ暗な部屋の中ではあるが、妻のいる方向から苦しそうな息づかいが聞こえてくる
「まだ起きているか?」
私は妻に問いかけた
「ええ、起きてるわよ」
息苦しくて眠れないのだろう。妻から返事が返ってきた
「聞きたいことがあるんだが・・・」
「なに?」
「死ぬのは怖くないのか?」
私の質問の答えに窮したのか、妻の返答は無かった。しばらく沈黙が続く
「怖くないって言ったら嘘になる。死ぬのは怖いわ。でもお姉ちゃんが待っててくれている気がするの。だから大丈夫よ」
妻の言葉の後、また静寂が部屋を包んだ
「お願いがあるんだ」
「なに、お願いって?」
「肺炎の治療、受けてくれないか」
「えっ?」
私の話を聞いて、妻は言葉を詰まらせた、予想外だったらしい
今まで何度も話し合いをした。妻の気持ちも充分理解し、妻の思いを尊重することにした
妻が認知症になった時の介護は、言葉に出来ない程、辛く、苦しい毎日だった
しかし、本当に妻の死が直前に迫ったとわかった時、自分でも制御できない深い不安、寂しさ、悲しみが私を襲った
「君のいないこれからの人生が思い浮かばないんだ。もう2度と君と会えなくなるなんて辛すぎる。どんな状態になってもいい。生きていてほしい」
「・・・」
妻からの返答はなく、また部屋の中は静寂に包まれた。
「確かにこれからあなたがこの家で独りで暮らしていかなければならなくなる。心配だけど、その優しさに甘えたくないの、そしてあなたに迷惑をかけることが、私が一番苦しいことなのよ。わかって」
「いや、今まで私は君には本当に苦労をかけた。その恩を返したい。生きていてほしい」
すると隣から妻のすすり泣く声が聞こえてきた。その声を聞いて、私も涙を流し始めた
「ありがとう。あなたと結婚してよかった・・・でも私の思いは変わらない。前みたいに訳がわからなくなるのが怖いの。正常なまま死なせて。それが私の最後のお願い」
ここでなにか言わなければと思ったが、言葉が出てこない。妻の意志は非常に固い
「眠くなってきたから、もう寝ましょう。明日だって話すことが出来るし」
「わかった、明日また話そう」
そう言って私は眠りについた
しかし、これが妻との人生最後の会話となるとは私は全く思わなかった
次の朝、妻の状態は悪化した。呼吸がもっと荒くなり、意識も全くない。唇が青く変色している。
一目でまずい状態だと判断した私は、すぐに医者を呼んだ
子供達は何度も
「お母さん!!お母さん!!」
大声で叫ぶが、妻は全く反応を示さない
医師が到着する頃には、あれほど荒かった呼吸が、静かになり始めた
そして、それから10分ほど経過した時、妻の呼吸は完全に止まった
医師が妻の脈を測った後
「午前8時30分、お亡くなりになりました。御愁傷様です」
私達家族に向かって頭を下げた
その言葉を聞いた子供達は声をあげて泣いた
最後まで子供達にとって、強く、威厳のある母親のままでこの世を去った
妻が認知症になった時、子供達がその姿を見てしまっていたら、子供達は母の死をどう思ったのだろうか。
私に対しては、認知症になり、私が心中を考えたこと。多分妻は、私に対してそんな思いは2度とさせたくない。そう固く誓ったのだろう
妻は、子供達に、そして私に迷惑をかけたくない。
どんなに苦しくても、その思いを守り抜いた
最期まで尊厳のある人生。そして尊厳のある死を選んだのだ
それがどれほど辛く、苦しくても・・・
私は目を閉じている妻に近寄り、動く左手を握った
「私と結婚してくれてありがとう・・・」
徐々に冷たくなっていく妻に向かって、心の中で呟いた
完